第2章:VII B型の鼓動と騎士の決断
「ひかり。良い名前だが、ここは女子供の遊び場ではない。どうやって検問を突破し、この鋼鉄の筒に入り込んだ? 目的はなんだ」
「目的は、あなたたちの『観測』です。ギュンター・プリーン艦長。私は、あなた方がこれから向かう場所と、その結末を知っています」
【しおの】
ズドゥンッ……ズドゥンッ……ズドゥンッ……!
それは、単なる機械の駆動音ではなかった。鋼鉄の生き物が上げる、凶暴な産声だった。
U-47の心臓部、機関室に鎮座する二基のMAN社製、M6V 40/46 6気筒4ストローク・ディーゼルエンジン。過給機付きで最大3200馬力を叩き出すその巨大な鉄の塊が、毎分470回転の唸りを上げ始めたのだ。
前部魚雷発射管室の床下、ビルジピットの隙間に身を潜めるひかりの全身を、凄まじい振動が襲った。
歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。内臓が直接マッサージされているかのような、低周波の暴力。吸気弁が艦内の空気を貪欲に吸い込み、排気弁が黒煙を吐き出すたびに、艦内の気圧が微かに変動し、鼓膜を圧迫する。
「……すごい。本物のMANディーゼルの、生きた鼓動……!」
恐怖と同時に、戦史オタクとしてのひかりの脳内には強烈なエンドルフィンが分泌されていた。
シミュレーターのスピーカーから鳴る加工音ではない。直径4.7メートルの耐圧殻全体が巨大な共鳴箱となり、この恐るべきエンジン音を増幅しているのだ。
しかし、その圧倒的な振動が、ひかりの隠れ場所の限界を早めた。
エンジンの振動によって、予備魚雷を固定していた鎖が微かに緩み、ラックの上に置かれていた重さ数キロの真鍮製の大型スパナが、音を立てて床の鉄板に滑り落ちたのだ。
ガァンッ!!
「何だ!?」
直後、発射管室のハッチが開き、一人の水兵が懐中電灯を手に飛び込んできた。下士官の腕章。魚雷整備兵だ。
彼は転がったスパナを拾い上げようと身をかがめ――そして、暗がりの中にうずくまる「異物」と目が合った。
「……!?」
ひかりの心臓が凍りついた。
水兵の目が驚愕に見開かれ、次の瞬間、彼は腰のルガーP08自動拳銃を乱暴に引き抜いた。
「誰だ貴様!! 動くな、手を挙げろ!!」
狭い艦内に、ドイツ語の怒声が木霊した。
「待って! 私は……!」
ひかりが両手を挙げるより早く、怒声を聞きつけた数名の屈強な水兵たちが雪崩れ込んできた。彼らは油まみれの手でひかりの腕を乱暴に掴み、汚水にまみれた床から引きずり出した。
「女……だと!? 馬鹿な、なぜこんな所に!」
「スパイか!? 出航直前にどこから入り込んだ!」
銃口が額に押し当てられ、冷たい金属の感触がひかりの思考を麻痺させる。
「歩け! 発令所へ連行しろ! カレウン(艦長)に報告だ!」
ひかりは両腕を後ろ手に拘束され、狭い通路を無理やり歩かされた。
前部兵員室を抜け、士官室を通る。両脇には粗末な木製の折り畳み机と、マホガニー風の薄い合板で仕切られた寝台。通路の幅は人が一人通るのがやっとで、すれ違うためにはどちらかが体を横に向けなければならない。電気コンロの焦げたような匂いが漂う極小の厨房を通り抜けると、そこが艦の中枢だった。
――発令所。
様々なバルブが密集する「クリスマス・ツリー」、深度計、海図台、そして天井から伸びる二本の潜望鏡のシャフト。赤と白のバルブハンドルが、薄暗い電球の光を鈍く反射している。
「艦長! 前部魚雷発射管室の床下に潜伏していた不審者を捕縛しました!」
水兵の報告に、海図台を覗き込んでいた男がゆっくりと顔を上げた。
ギュンター・プリーン大尉。
「スカパ・フローの牡牛」の異名で歴史に名を刻む、ドイツ海軍最高の撃沈王。
年齢は31歳。鋭い鷲鼻に、知的で意志の強い双眸。仕立ての良い紺色のダブルの制服を着崩し、首元には規定違反の白いスカーフを巻いている。シミュレーターのポリゴンではない、本物の英雄の圧倒的な覇気が、発令所の空気を支配していた。
プリーンはひかりを一瞥し、眉をひそめた。
「……東洋人の小娘? ゲシュタポの犬か、それともイギリス海軍情報部(NID)の工作員か。我が艦の警備はどうなっている、I WO(第一当直士官)」
副長のエンゲル中尉が青ざめた顔で直立不動になった。
「申し訳ありません! 直ちに陸戦隊を呼び、ゲシュタポに引き渡します!」
「待って……待ってください! 私はスパイじゃありません!」
ひかりは必死に声を張り上げた。今ここで陸に降ろされれば、歴史の知識を使う間もなく拷問室送りだ。
「黙れ! 貴様、そのふざけた軍服のレプリカはなんだ。海軍を愚弄する気か!」
水兵が銃のグリップでひかりの背中を小突く。
プリーンは片手を軽く挙げて部下を制し、ひかりの目の前まで歩み寄った。
ディーゼル油と、微かなオーデコロンの匂い。彼の青灰色の瞳が、ひかりの底まで見透かすように射抜く。
「名前は」
「……リヒテンシュタインひかり。日本人……いえ、日系ドイツ人です」
「ひかり。良い名前だが、ここは女子供の遊び場ではない。どうやって検問を突破し、この鋼鉄の筒に入り込んだ? 目的はなんだ」
ひかりは深呼吸をした。オタクの全知識を動員する時だ。
「目的は、あなたたちの『観測』です。ギュンター・プリーン艦長。私は、あなた方がこれから向かう場所と、その結末を知っています」
「ほう?」
プリーンの目が細くなった。
「ならば言ってみろ。我々はどこへ向かう?」
発令所にいた全員が息を呑んだ。この出航の目的地は、艦長であるプリーンと、カール・デーニッツ提督しか知らない極秘事項のはずだった。
ひかりは、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「作戦名『特殊任務P』。目標はオークニー諸島、イギリス海軍本拠地……スカパ・フロー泊地。カーク・サウンドの閉塞船の隙間を抜け、英本国艦隊を雷撃する」
ガチャンッ!
エンゲル副長が腰のホルスターのホックを外す音が響いた。発令所の空気が一瞬にして凍りつき、殺意へと変わる。
「……貴様、なぜその情報を知っている」
プリーンの声から温度が消えた。彼は海図台からディバイダー(両脚器)を手に取り、無意識にいじり始めている。
「私は未来から……いえ、あなた方の知り得ない情報網を持っています」
ひかりは必死に言葉を紡いだ。
「カーク・サウンドの潮流は複雑です。大潮の満潮時、流速は最大で7ノットに達します。進入は夜間、水上航行で行うしかありません。ブロックシップ(閉塞船)の『テムズ号』と『ソリアーノ号』の間には、わずか15メートルの隙間しかない。そして、泊地内には戦艦ロイヤル・オークが停泊しています」
プリーンの瞳の奥に、明確な驚愕の色が走った。
それは、デーニッツ提督から渡された最新の航空偵察写真と、彼自身が何日も徹夜して計算した海図のデータと完全に一致していたからだ。いや、それ以上に詳細だった。
「……艦長、こいつは危険です。イギリスの二重スパイに違いありません。今すぐ始末すべきです」
エンゲル中尉が銃を構え、プリーンの決断を促した。
水兵たちの敵意のこもった視線がひかりに突き刺さる。万事休すか。ひかりが目を閉じたその時。
「銃を下ろせ、エンゲル」
プリーンは静かに命じた。
「しかし艦長!」
「私の艦で、丸腰の女を撃ち殺すなどという野蛮な真似は許さん。我々は誇り高きドイツ海軍の兵士であり、ゲシュタポの殺し屋ではない」
プリーンはひかりの拘束を解くよう水兵に顎でしゃくった。
「それに、彼女がイギリスのスパイだとしたら、あまりにも愚かだ。わざわざ出航直前の艦に潜り込み、自分から『情報が漏れている』と教える馬鹿がどこにいる? スパイなら陸から無線でロンドンに打電すれば済むことだ」
プリーンはディバイダーを海図台に放り投げ、腕を組んだ。
「お前が何者で、どんな手品を使って我々の極秘作戦を知ったのかは分からない。狂人か、それとも魔女か。だが……お前が語ったカーク・サウンドの潮流データと閉塞船の配置は、我が艦の航海長よりも正確だ」
「カレウン……」
「出航時間は過ぎている。今更港に戻って陸戦隊を呼べば、潮待ちのタイミングを逃し、作戦自体が水泡に帰す。それはデーニッツ提督の期待を裏切るということだ」
プリーンは、ひかりの前に立ち、その長身から見下ろすように冷たく微笑んだ。
「リヒテンシュタインひかり。お前の命は、一旦私が預かる。お前はこれより、我がU-47の『非公式な観測員』だ。ただし、少しでも不審な動きを見せれば、その時は私のルガーがお前の頭を吹き飛ばす。……私の決定に異存はないな、諸君?」
「「「……ヤーウォール(了解)、カレウン!」」」
乗組員たちは不満を隠せない表情ながらも、絶対的なカリスマを持つ艦長の命令に一斉に踵を鳴らした。
「さあ、案内してやれ。この魔女に、我々の『鋼鉄の棺桶』の最下層のベッドをな。出航!」
プリーンの号令と共に、発令所の伝声管から機関室へ命令が飛ぶ。
MANディーゼルの鼓動がさらに一段と跳ね上がり、艦全体が歓喜するように震えた。
ひかりは、胸の奥で激しく打ち鳴らされる心臓の音を聞きながら、暗い笑みを噛み殺した。
歴史的知識という最強の武器と、プリーンの誇り高き騎士道精神が、彼女に「極限の特等席」を与えたのだ。
ディーゼル油の悪臭と、容赦のない機械の轟音。死と隣り合わせの深海への旅が、今、完全に幕を開けた。




