第一部:伝説の「スカパ・フローの牡牛」 第1章:2245年の密航者
西暦2245年、東京。
気候統制ドームによって常に摂氏二十二度に保たれた夜は、生ぬるく、そして無菌室のように無臭だった。窓の外に広がるメガロポリスの夜景は、ホログラムと反重力ビークルの光の帯によって極彩色に彩られているが、リヒテンシュタインひかりにとって、それは死んだ光の羅列に過ぎなかった。
深夜零時過ぎ。タイムスライディング社、第4研究開発部の地下最深部。
「……セキュリティ・レベル5、バイパス完了。生体認証フェイク、オールグリーン」
ひかりは、無機質な純白の強化ガラスの向こう側に鎮座する、巨大なリング状の装置を見上げた。
『クロノス・ゲート』
叔父であるリヒテンシュタイン健三が主任技術者として開発を進めている、極秘の時空跳躍プロトタイプ機である。本来であれば、歴史への干渉を防ぐため、物理的な人間の転送は国際法で厳格に禁止されており、無人観測機の転送テストすら厳重な監視下で行われる代物だ。
しかし、ひかりの目は狂気的なまでの熱を帯びていた。
彼女の背中には、時代遅れのキャンバス地のダッフルバッグ。中には、20世紀中盤のドイツ海軍の水兵服(レプリカではない、歴史的アーカイブから精密に分子合成した完璧な模造品)、高カロリーのレーション、そして、エニグマ暗号機のローター配線図と当時の北大西洋の海図が詰め込まれている。
「無菌の平和は、もうたくさんよ」
ひかりは、叔父のデスクからくすねたチタン製のマスターキーを、ゲートの制御コンソールにスロットインした。
メインフレームが低い唸り声を上げ、リングの内側に量子干渉場の青白い光が満ち始める。
コンソールのホログラフィック・キーボードを叩く彼女の指は、迷いなく座標と時間を打ち込んでいく。
空間座標:北緯54度19分、東経10度8分。
時間座標:西暦1939年。
「キール軍港……」
ひかりは乾いた唇を舐めた。
1939年晩夏。ドイツ・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、キール。
そこは、間もなく世界を血で染め上げる第二次世界大戦の幕開けを前に、ドイツ海軍の潜水艦部隊が牙を研いでいる場所だ。
そして彼女の狙いは、その軍港のドックに係留されている一隻の鋼鉄の鮫――第7潜水隊群所属、VII B型Uボート『U-47』。
後にスカパ・フローの英雄と呼ばれ、そして1941年に大西洋の藻屑として跡形もなく消え去る運命にある、ギュンター・プリーン大尉の乗艦である。
「ターゲット・ロック。VII B型、艦内第1コンパートメント……前部魚雷発射管室」
跳躍先を艦外にすれば、海面に落下するか、見張りの歩哨に即座に射殺される。司令塔や発令所のような人口密度の高い区画も致命的だ。唯一、出航直前まで荷物や予備魚雷が乱雑に積まれ、死角が存在する可能性があるのが、艦首の魚雷部屋だった。
『警告。未承認の生体転送シークエンスが開始されました。直ちに中止してください』
AIの無機質な警告音を無視し、ひかりはゲートの前に立った。
青白い光が、暴風のように彼女の短い髪を揺らす。
「歴史を変える気はない。でも、私は観測する。最強の群狼が、真実、どうやって消えたのかを」
ひかりは、ダッフルバッグの紐をきつく握りしめ、エンターキーを叩き割る勢いで押し込んだ。
『転送、開始――』
瞬間、世界が裏返った。
強烈な閃光と、内臓を雑巾のように絞り上げられるすさまじい重力異常。上下左右の感覚が消失し、自身の肉体を構成する原子が一度バラバラに分解され、再び強引に縫い合わされるような激痛が走る。
悲鳴を上げる間もなく、ひかりの意識は時空の渦へと呑み込まれていった。
* * *
「……っ! がはっ、げほっ……!」
冷たく、硬い鉄の床に叩きつけられたひかりは、激しく咽び泣くように咳き込んだ。
肺に流れ込んできたのは、2245年の無菌の空気ではない。
「……臭い……!」
それは、強烈な物理的暴力となってひかりの嗅覚を殴りつけた。
未燃焼のディーゼル油の鼻を突く揮発臭。古びた機械油とグリスの匂い。海水の強烈な潮の匂い。湿気でカビた布の臭い。そして、船底のビルジ(汚水溜まり)から立ち上る、腐敗した残飯と錆の入り混じった吐き気を催す悪臭。
シミュレーターで嗅いだ「調整された匂い」などとは次元が違う。これは、むき出しの「現実」の臭いだ。
ひかりは涙目で周囲を見渡した。
暗い。かろうじて点灯している薄暗い白熱灯の光が、剥き出しの鉄骨と、無数のバルブ、そして複雑に絡み合ったパイプの群れを不気味に照らし出している。
空間は絶望的なまでに狭かった。
目の前には、直径53.3センチの巨大な真鍮製の円筒が四本、上下左右に並んで艦首方向へ突き出している。前部魚雷発射管だ。
その周囲には、発射管に装填されるのを待つ巨大な鋼鉄の葉巻――G7a T1型、あるいはG7e T2型魚雷が、床板の下の格納庫や、壁面のラックに何本も鎖で厳重に固定されている。
一本の重さが1.5トン以上ある殺戮兵器が、狭い空間の大部分を占拠しているのだ。
「成功した……! ここは、U-47の前部魚雷発射管室……!」
歓喜と恐怖がないまぜになり、ひかりの全身に鳥肌が立った。
足元の鉄板からは、すぐ外を揺蕩うキール軍港の冷たい海水の温度が直に伝わってくる。直径わずか4.7メートルの耐圧殻。この薄い鋼鉄の壁一枚の向こう側は、死の海だ。
その時、ひかりの耳が、遠くで響く重い金属音を捉えた。
ガコンッ……! ギギギギギ……
「!」
ハッチが開く音だ。続いて、ドイツ語の怒声と、重い軍靴が鉄の甲板を踏み鳴らす音が、後方から徐々に近づいてくる。
『――急げ! 出航は〇八〇〇時だ! 生鮮食品は全部後部魚雷発射管室にぶち込め!』
『――第2発射管の空気圧が規定値に達していません!』
『――馬鹿野郎、今すぐコンプレッサーを回せ! カレウン(艦長)に殺されたいのか!』
生きたドイツ語。生きた乗組員たちの声。
歴史の教科書に載っている文字ではない。今まさに、世界大戦という地獄へ向かって出撃しようとしている男たちの、血の通った声だ。
「隠れなきゃ……!」
ひかりは慌てて立ち上がり、重いダッフルバッグを引きずった。
しかし、隠れる場所などどこにもない。魚雷発射管室は、兵員室も兼ねている。発射管と予備魚雷の隙間には、後ほど水兵たちが寝泊まりするための折りたたみ式のパイプベッド(バンクス)が所狭しと吊り下げられており、床には彼らの私物が入ったズダ袋が転がっている。
足音が、すぐ隣の前部兵員室まで迫っていた。防水区画の隔壁ドアが、重々しい音を立てて開かれようとしている。
ひかりは絶望的な目で周囲を見回し、床の予備魚雷ラックと、艦の湾曲した耐圧殻の間に、わずか数十センチの暗い隙間を見つけた。
床下のビルジピット(汚水溜まり)の真上だ。悪臭の源泉だが、背に腹は代えられない。
ひかりは蛇のように身体をくねらせ、グリスと汚水にまみれながら、冷たい鋼鉄の隙間へと滑り込んだ。ダッフルバッグを抱え込み、息を殺す。
直後。
ギィィィンッ!
円形の防水ハッチが開き、魚雷発射管室に数人の水兵が雪崩れ込んできた。
粗末な作業服を着た彼らの体臭と、安タバコの匂いが一気に充満する。
「おい、予備のG7eのバッテリー液はチェックしたか!?」
「問題ありません! 雷撃長(I WO)のエンゲル大尉が後で最終確認に来ます!」
「よし、ベッドをセットしろ! 今回は長旅になるぞ。なんてったって、我らがプリーン艦長の指揮だからな」
水兵たちの会話が、ひかりの頭のすぐ数十センチ上を飛び交う。
彼らの長靴の泥が、隙間に隠れるひかりの頬にパラパラと落ちてきた。ひかりは両手で口を強く塞ぎ、呼吸音すらも腹の中に飲み込んだ。
心臓が、リベットを叩き割るような爆音で鳴り響いている。見つかれば即座にスパイとしてゲシュタポに引き渡され、拷問の末に銃殺されるだろう。ここは1939年のナチス・ドイツの最前線なのだ。
どれほどの時間が経っただろうか。
水兵たちが慌ただしく去り、再びハッチが閉められた。
ひかりがホッと息を吐き出そうとした、その瞬間だった。
シューーーーッ!
という高圧空気の鋭い噴射音が艦全体に響き渡った。
続いて、艦の奥深く――後部の機関室から、地響きのような恐ろしい爆音が轟いた。
ズドゥンッ!! ズドドドドドドドドドド……!!
「ひっ……!」
ひかりの全身の骨が、激しい振動で軋んだ。
二基のMAN社製、M6V 40/46 6気筒4ストローク・ディーゼルエンジン。合計3200馬力の化け物が、ついに産声を上げたのだ。
それは、シミュレーターのスピーカーから流れる「音」ではなかった。鋼鉄の船体そのものを共鳴箱として響き渡る、圧倒的な物理エネルギーの咆哮だった。
排気管を通じて艦内にわずかに逆流した黒煙が、ひかりの肺を刺す。
エンジン音に混じって、艦橋からの号令が伝声管を通じて微かに聞こえた。
『――前部及び後部舫い、放て!(Leinen los!)』
『――両舷微速前進!(Kleine Fahrt voraus!)』
ギギギギギ……と、
巨大なVII B型Uボートの船体が、ゆっくりと、しかし確かな重量感を持って水面を滑り出し始めた。波が艦首の装甲を叩く音が、リズミカルに響く。
出航だ。
もう、二度と未来の平和なドームには戻れない。
ひかりは、汚水まみれの冷たい鉄板に頬を擦り付けたまま、暗闇の中で狂気的な笑みを浮かべた。
ついに乗り込んだ。
最強の撃沈王、ギュンター・プリーンが指揮する、呪われし鋼鉄の棺桶に。
これからこの艦は、北海を抜け、連合軍の厳重な警戒網を突破し、難攻不落の英海軍本拠地・スカパフロー泊地へと狂気の単艦潜入を果たすのだ。
「……よろしくお願いね、U-47。あなたの最期まで、私が特等席で見届けてあげる」
むせ返るようなディーゼルの悪臭と、鼓膜を破るエンジンの轟音の中、西暦2245年から来た一人の密航者を乗せ、群狼は北の海へと静かに牙を向けた。
消失へのカウントダウンを刻む、果てしない航海の幕開けであった。




