【プロローグ】 深海の鉄棺と、群狼の咆哮
西暦2245年の少女が時空を越えてダイブしたのは、歴史から“蒸発”した最強のUボート。
深淵の闇に魅入られた者だけが、鋼鉄の棺で「永遠」を知る。
むせ返るディーゼルの匂い、狂気の爆雷戦。圧倒的ディテールで放つ、極限の深海戦史ロマン!
【しおの】
深海の暗闇を切り裂くのは、死神の爪弾くハープの音だった。
――ピィィィン……
――ピィィィン……
「敵駆逐艦、方位ゼロ・三・ゼロ! 探信音(ASDIC)捉えられました! 距離五〇〇!」
赤色灯だけが不気味に灯る発令所に、聴音手の裏返った絶叫が響く。
ここはVII B型Uボート、U-47。
スカパ・フローの英雄、ギュンター・プリーンが指揮する伝説の艦。その、歴史の表舞台から永遠に姿を消すこととなる「1941年3月7日」のシミュレーション空間だ。
「静粛潜航。両舷、電動機微速」
司令塔の下、艦長席に座る男が低く命じた。その横顔には、伝説の「鼻息荒い牡牛」のエンブレムに恥じない、獲物を待つ獣の冷徹さが張り付いている。
しかし、シミュレーターを通しているにも関わらず、ひかりの全身からは異常なまでの脂汗が吹き出していた。
臭い。あまりにも臭すぎる。
密閉された鋼鉄の筒の中に充満する、MAN社製4ストローク・ディーゼルエンジンの未燃焼ガスの悪臭。ビルジ(船底の汚水)に腐ったキャベツと男たちの尿が混ざった吐き気を催す臭気。そして、極限の恐怖が分泌させる、酸っぱい汗の匂い。
「深度一五〇(フンデルト・フュンフツィヒ)! 艦長、これ以上の潜航は耐圧殻が持ちません!」
操舵手が悲鳴を上げる。VII B型の安全潜航深度は100メートル。すでに限界を50メートルも超えている。直径わずか4.7メートルの真円の耐圧殻が、一平方メートルあたり150トンもの水圧に締め上げられ、艦内の至る所で*ギィィィ……カンッ!* という金属の悲鳴が上がっていた。鋼鉄のボルトが弾け飛べば、乗組員全員がゼリー状の肉塊に変わる。
「黙れ。誰も音を立てるな。スパナ一本落とした奴は、私がこの手で撃ち殺す」
プリーンの声は氷のように冷たかった。
頭上を、英駆逐艦ウォルヴァリンのスクリュー音が通り過ぎていく。シュルシュルシュル……というリズミカルな推進音が、鋼鉄の天井越しに直接脳味噌をかき回す。
「……投下されました! 爆雷、来ます!」
聴音手の報告から数秒後。
海という巨大なゼリーの中で、数トンの火薬が一斉に炸裂した。
ズドガァァァァァァァンッ!!!
腹の底から内臓を揺さぶるような、鈍く、それでいて鼓膜を破る重低音。
艦全体が、まるでおもちゃのように上下左右に激しく振り回された。計器盤のガラスが一斉に砕け散り、配電盤から青白い火花が噴き出す。
ひかりはバルブのハンドルに必死にしがみついた。シミュレーターのフィードバック・スーツが、肋骨が軋むほどの衝撃を全身に叩き込んでくる。
「前部魚雷発射管室、第5発射管の下部から浸水! 毎秒二〇リットル!」
「ビルジポンプ回せ! ダメコン急げ!」
機関長(LI)の怒声の中、頭上のバルブから冷たい海水が滝のようにひかりの頭に降り注ぐ。本物の海水のように冷たく、しょっぱい。
「次が来るぞ! 前部潜航タンク(タウホツェレ)注水! ベント開け! 深度一八〇へ逃げ込め!」
プリーンの咆哮と共に、艦首が急激に下を向く。床が傾き、オイルまみれの工具や、誰かの食べかけの黒パンが発令所を転がっていく。
さらなる爆雷の雨。
照明が完全に落ち、暗黒の恐怖が訪れる。隣の乗組員が、恐怖のあまり聖母マリアに祈りながら嘔吐する音が暗闇に響いた。
呼吸が苦しい。二酸化炭素濃度が限界に達しつつある。炭酸ソーダ缶の吸収剤など、気休めにしかならない。
死ぬ。このままでは、水圧で押し潰されるか、窒息するか、あるいは――。
「――フェイタル・エラー。耐圧殻の崩壊率100%。シミュレーションを強制終了します」
網膜に焼き付いていた暗黒の海が、突如として無機質な電子のポリゴンへと砕け散った。
「……っ、はぁっ、はぁっ……!!」
西暦2245年。
東京のマンションの一室で、リヒテンシュタインひかりはVRヘッドセットを乱暴にむしり取った。
肩で息をする彼女の全身は、本当に海から引き上げられたかのように、冷や汗でずぶ濡れだった。手は小刻みに震え、心臓は肋骨を突き破りそうなほど早鐘を打っている。
「……最高。でも、全然足りない」
ひかりは、震える手で乱れた前髪を掻き上げた。
ホログラムモニターには、「U-47 1941年3月7日 消失ログ」という赤い文字が点滅している。
どれだけ歴史的データ(アーカイブ)を読み込ませ、五感フィードバックの出力を最大に設定しても、これは所詮「過去のデータ」の再構築でしかない。
エニグマのローターが回転する微かな振動。
極限状態の中で、プリーン艦長が放っていたであろう、肌を刺すような死の匂いとカリスマ性。
あの瞬間、あの艦で、本当に何が起きたのか。彼らはどうやって「消えた」のか。
ひかりは、デスクの上に置かれた分厚い金属製のカードキーを手に取った。
叔父の勤めるタイムスライディング社の、極秘区画へのアクセスキー。
「記録で終わらせる気はないわ。カレウン(艦長)」
狂気的なまでの熱を帯びた瞳で、ひかりはU-47の模型を見つめた。
ただの戦争アクションではない。これは、歴史の深淵にダイブし、消えた群狼の真実をこの目で暴くための、一方通行の極限航海。
彼女は、1939年のキール軍港へ向かう座標計算プログラムを起動した。
鋼鉄の棺桶の扉が、今、開かれようとしていた。




