第二部:北大西洋の死闘 第11章:灰色の狼たち、最後の肖像
1941年2月。フランス・ブルターニュ半島、ロリアン軍港。
第7潜水隊群(7. Unterseebootsflottille)の拠点となったこの港は、常に重苦しい鉛色の空と、北大西洋から吹き付ける冷たい潮風に支配されていた。
スカパ・フローの奇跡から約一年半。ナチス・ドイツのプロパガンダはギュンター・プリーンとU-47を「大英帝国を沈める無敵の鉄槌」として神格化し続けていた。しかし、最前線の現実は、ゲッベルス宣伝相の語る華々しい物語とは程遠いものになっていた。
イギリス海軍は血を流しながらも対潜戦術を進化させ、アズディック(ASDIC=アクティブ・ソナー)を搭載した護衛艦隊が、牙を剥いて群狼を狩り始めていたのだ。いわゆる「幸福な時代(Die Glückliche Zeit)」は、すでに静かに終わりを告げようとしていた。
出航を数週間後に控えた陸上待機期間。男たちは、いつか来る「その日」を予感しながら、それぞれの日常を淡々と生きていた。
【乗組員たちの断章】
■ ギュンター・プリーン(艦長 / カレウン)の日誌より
1941年2月18日。ベルリンよりロリアンへ帰還。
総統官邸での晩餐会は、相変わらず無意味な見栄と空虚な賛美に満ちていた。彼らは私を「スカパ・フローの牡牛」と呼び、不沈の英雄として扱う。だが、海には絶対の勝者などいない。デーニッツ提督だけは、私の目の奥にある疲労を見抜いていた。「休むか、プリーン」と彼は言った。私は断った。私が陸で安全なベッドで眠る間、私の部下たちを他の未熟な指揮官の手に委ねるなど、考えられないからだ。
インゲボルグ(妻)と子供たちの顔を見るたび、海へ戻る足が重くなるのを感じる。しかし、ディーゼルの匂いを嗅ぐと、私の血は再び冷たく澄み渡る。私は父親である前に、Uボートの艦長なのだ。
……時折、あの奇妙な「魔女」の言葉を思い出す。彼女は今、どこで我々を見ているのだろうか。
■ ハンス(前部発射管室・装填手)からの手紙(未投函)
親愛なるマリアへ。
君が編んでくれた白いウールの靴下は、ロリアンの湿気で少しカビ臭くなってしまったけれど、俺の一番の宝物だ。この間の哨戒で、ついに俺も一級鉄十字章(EK1)をもらったよ。ミュラー兵曹長は「調子に乗るな、小僧」と笑っていたけれど、彼の目も少し誇らしげだった。
マリア、正直に言うよ。海はどんどん怖くなっている。水中で爆雷の音を聞くたび、胃がひっくり返りそうになるんだ。でも、プリーン艦長が潜望鏡を握っている背中を見ると、不思議と恐怖が消える。艦長が「撃て(Los)」と言えば、俺たちは絶対に勝てる。
次の航海が終わったら、休暇をもらってミュンヘンに帰る。その時、大事な話があるんだ。待っていてくれ。
■ シュパール(航海長)の私用メモ
1941年2月26日。海図の更新。
イギリス西岸の機雷原がまた拡大している。哨戒機の行動半径も伸びた。数字とデータが示す現実は冷酷だ。我々の生存確率は、出撃のたびに数学的に低下している。
発令所の空気は悪くない。だが、誰もが「死がすぐ隣の席に座っていること」を理解している。我々は皆、確率論のギャンブラーだ。ダイスを振り続ける限り、いつか必ず「負け(沈没)」の目が出る。それでも、我々は正確な現在位置を割り出し、最速のルートで死地へと赴かなければならない。それが仕事だからだ。
■ ミュラー(魚雷甲板長・兵曹長)の酒場での呟き
(裏町の酒場で、若い水兵たちを帰した後の独り言)
「……まったく、最近の若い奴らは、少し戦果を挙げただけで自分が不死身だと勘違いしやがる。鉄の殻がどれだけ脆いか、水圧がどれほど無慈悲か、本当に分かってるのは何人いるか。……まあいい。俺がG7e魚雷のジャイロを完璧に磨いておいてやる。それがあいつらを一日でも長く生かす、唯一の魔法だからな。あの東洋の小娘が言っていた『完璧な雷撃』ってやつを、俺は最後までやり遂げるだけだ」
【招集、そして最後の狂騒】
1941年3月1日。
ロリアンのUボート・ブンカー(潜水艦基地)に、第7潜水隊群の全乗組員への非常呼集がかかった。
休暇で故郷に戻っていた者、パリの娼婦のベッドで眠っていた者、地元のカフェで安いワインを飲んでいた者。彼らは一様に、青ざめるでもなく、歓喜するでもなく、ただ「平常心」という名の重いコートを羽織って、灰色の港へと集結した。
目標は、北大西洋、アイルランド西方海域。イギリスの生命線である大西洋船団の撃滅作戦である。
出撃前夜。
ロリアン市内の海軍接収済みの酒場は、U-47の乗組員たちによる貸切状態となっていた。これが彼らにとって、永遠の別れの宴になるかもしれないことなど、口に出す者は一人もいない。それが潜水艦乗り(U-Boot-Fahrer)の非情なルールだからだ。
「さあ飲め! 明日の朝には、どうせカビたパンとディーゼル油のスープしか出ないんだからな!」
コック長が、豚肉のローストと山盛りのザウアークラウトをテーブルに叩きつける。
ジョッキに注がれたフランス産のビールとワインが、波のように飛び交った。
ハンスは、酔っ払ったミュラー兵曹長に首を絞められるように肩を組まれながら、アコーディオンの伴奏に合わせて声を張り上げていた。
「さあ船出だ、イギリスに向けて!(Wir fahren gegen Engeland)」
「我らの旗は風にはためく、船首は波を切り裂く!」
合唱は乱暴で、音程など外れまくっていた。しかし、その根底には、死への恐怖を酒と歌で喉の奥に押し込む、男たちの強烈な生命力が満ちていた。
明日には、分厚い鋼鉄の扉が閉められ、二度と太陽を見られないかもしれない。だからこそ、今この瞬間だけは、肉体が張り裂けるほどに生を謳歌する。
部屋の隅の特等席。
ギュンター・プリーンは、士官たちと共に静かにグラスを傾けていた。彼の軍服には、見慣れぬ「柏葉付騎士鉄十字章」が鈍く光っている。
「カレウン。兵たちはずいぶん気合が入っていますね」
第一当直士官(I WO)のエンゲル中尉が、騒ぐハンスたちを一瞥して言った。彼もまた、1939年の頃の神経質な将校から、数々の死線を潜り抜けた冷徹な歴戦の狼へと顔つきが変わっていた。
「ああ。良い顔つきだ。彼らなら、大西洋の荒波にも、イギリスの駆逐艦にも臆することはないだろう」
プリーンはコニャックのグラスを回しながら、薄く微笑んだ。
「……エンゲル。お前はまだ、持っているか?」
プリーンが唐突に尋ねた。
「はっ。……お守りのことでしょうか」
エンゲルは、軍服の胸ポケットから、防水布に包まれた小さな『メモの切れ端』を半分だけ覗かせた。
それは一年半前、ベルリンの熱狂の夜に、光の中に消えていったあの不思議な少女――ひかりが残した「エニグマの暗号」のメモだった。
「不思議なものです」
エンゲルは自嘲気味に笑った。
「私は今でも、あいつがイギリスの情報員だったのではないかと疑う時があります。しかし……絶望的な深深度爆雷攻撃を受けている時、この紙切れが胸にあると、なぜか『まだ死ねない』と思えるのです」
プリーンは無言で頷き、葉巻の先端を噛み切った。
「あいつは言ったな。『一番暗くて、どうしようもない絶望が覆った時、エニグマの鍵を叩け』と」
プリーンはマッチをすり、葉巻に火をつけた。紫煙が、喧騒の酒場の天井へと立ち上る。
「俺は自分の腕と、お前たち部下を信じている。あんなオカルトじみた小娘の予言に頼るつもりはない。だが……」
プリーンは、グラスを高く掲げた。
その動きに気づき、酒場中の水兵たちの歌声がピタリと止む。全員の視線が、絶対的なカリスマを持つ艦長に集中した。
「諸君」
プリーンの声は、騒がしかった酒場の空気を一瞬にして「海」に変えた。
「我々は明日、再び灰色の海へ出る。敵は強大になり、我々の首にかかった懸賞金は跳ね上がっているだろう。だが、恐れることは何もない。我々は第7潜水隊群、U-47の乗組員だ」
プリーンは、一人一人の顔を見渡した。ハンスの若く紅潮した顔、ミュラーの皺くちゃな笑顔、シュパールの真剣な眼差し。
「……この杯を、我々の幸運の魔女に。そして、沈黙の海に散っていったすべての戦友たちに。……乾杯!」
「「「プロースト!!」」」
グラスが激しく打ち鳴らされ、酒が宙に舞った。
彼らは知っている。この中の何人かが、いや、全員が、次の陸を踏むことはないかもしれないということを。
それでも彼らは、平常心という名の甲冑を纏い、非情の海へと笑って飛び込んでいく。大英帝国を沈めるためではなく、隣でグラスを掲げる戦友と共に生きるために。
1941年3月2日、早朝。
U-47は、小雨の降るロリアン軍港を静かに滑り出した。
ディーゼルエンジンの重低音が港に響き渡り、見送りの軍楽隊が奏でる『ツェッペリン伯行進曲』の音色をかき消していく。
発令所のプリーン艦長は、潜望鏡のシャフトに寄りかかり、ただ一言、冷徹に命じた。
「――潜航。深度二〇。針路、ウェスタン・アプローチ」
鋼鉄の棺桶は、静かに、そしてゆっくりと、その巨体を冷たい大西洋の闇の中へと沈めていった。
絶対的な死の運命が待ち受ける、1941年3月7日の「その日」に向かって。
ひかりが待ち受ける2245年の孤独と、1941年の彼らの死出の旅立ちが、ついに一本の線で繋がろうとしていく……




