1話 庭に突然現れた青年
窓を開けると、まぶしい太陽の光が一気に差し込んできた。
「いい天気。絶好の洗濯日和ね」
私が乙女ゲームの悪役令嬢『アイリス』であり、主人公の邪魔をした挙句に破滅する未来を知ったのは、一年前――十五歳の誕生日のことだった。
伯爵令嬢として生を受け、わがまま放題に家族を困らせて悪名を轟かせていた私だが、幸いにも破滅のシナリオが始まる前だったのが救いだ。
(……メインルートでは、主人公を毒殺しようとしたのがバレて極刑に処される。別ルートでは主人公を刺殺しようとして攻略対象に返り討ちに合う。そんな未来はさすがに嫌だからね……)
前世の記憶を取り戻した私は、一刻も早く破滅のフラグから遠ざかるため、父に貴族籍を抜きたいと直訴した。
私を溺愛する父は当然のように猛反対したが、粘り強く説得を重ね、どうにか妥協案を引き出すことに成功する。
それが今の暮らしだ。
屋敷近くの小さな家で、伯爵令嬢の身分を伏せて平穏に過ごすこと。
時折様子を見に来る父の目を除けば、誰にも邪魔されない自由な生活を手に入れた。
「うん、今日の朝食も上出来。前世の一人暮らしの経験が役に立っているわね」
後片付けを済ませてキッチンをあとにし、私はかごを抱えて庭の井戸へと向かう。
小道に面した小さな庭は植栽も整えられており、心地よい日差しが降り注いでいた。
「よし、まずは大物のシーツから洗いましょうか」
桶に水をくみながら、自然と鼻歌がこぼれる。
生粋の令嬢なら悲鳴を上げるような家事全般も、前世の記憶がある私にとっては自由の象徴でしかない。
「そろそろ仕事も探さなきゃ。やっぱり飲食店が手堅いかしら……」
今はまだ実家からの援助に頼っているけれど、いつかは自分の足で立っていきたい。
周囲には間違いなく止められるだろうが、正式に貴族籍を離れるための準備は、少しずつ進めておくつもりだ。
シーツを縄にかけ、パンパンと叩いてシワを伸ばしていたそのとき。
ドサッ――!
背後で、何かが地面に落ちたような重い音が響いた。
「えっ!?」
驚いて振り返ると、青々とした芝生の上に一人の青年が倒れ込んでいた。
まるで太陽の光をそのまま集め取ったかのような、鮮やかな金色の髪が見とれるほどに美しい。
息を呑んで、状況を把握できずに一瞬硬直してしまう。
「う……っ」
彼の苦痛にあえぐ声に、ハッとして弾かれたように駆け寄る。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
倒れた青年の体に触れようとして、手が止まった。
無惨に破れた袖からのぞく腕に、赤黒い傷口が刻まれている。
そこからあふれ出る血が、緑の芝を染めていく。
(待って、嘘でしょ……!?)
平和なひとときから一転した光景に、心臓が嫌な音を立て始める。
動転しながらも、かごから洗い立てのタオルをひったくると、力任せに傷口へ押し当てて結びつけた。
「ぐっ……、な、何をする……」
青年が苦痛に顔をしかめ、敵意を感じられる凍てついた瞳で私を見上げてくる。
「……君は、誰だ……!」
「いやいや、それを聞きたいのはこちらの方ですから! 私の家の庭でいきなり倒れ込まれたんですよ!?」
困惑のあまり叫んだその直後、小道の向こうから荒々しい靴音が響いてきた。
地面を叩きつける複数の足音が、次第にこちらへ迫ってくる。
「くっ……追ってきたか……!」
青年は歯を喰いしばり、よろめきながら立ち上がろうとした。
しかし体力が限界を迎えていたのか、崩れ落ちながらがくりと膝をついた。
(この人、誰かに追われているの……!?)
関わったら危険だと頭の片隅で警鐘が鳴る。
けれど、目の前で血を流している人をそのまま見捨てるわけにもいかない。
「……動かないでくださいね!」
私はとっさに、先ほど干したばかりのシーツを縄から引っ張り外すと、青年の頭から覆いかぶせるようにバサリと被せた。
そのまま植栽の物陰へ押し込み、彼を小道の死角となる場所に隠す。
「いいですか、絶対に声を出してはだめですよ!」
シーツの隙間からそう小さくささやき、私は何事もなかったかのように立ち上がって、小道の入口へと向き直った。
荒々しい靴音が途切れ、庭の前に伸びる小道に粗暴な男たちが姿を現した。
「おい、そこの女! 金髪の男はどっちに行った!」
鼓膜を揺らす怒鳴り声に、息が止まりかけるほどの恐怖が背筋を伝う。
膝が小刻みに震え、足がすくんで動かない。
前世の記憶があるとはいえ、こんな危険な人間と直接向き合った経験なんてないのだ。
だが、ここで動揺を見せれば一発で彼がいることを疑われてしまう。
「え、ええと……あっち……?」
私は声を小さく震わせながら、あてずっぽうに小道の先を指差した。
「チッ、あっちか! 行くぞ!」
男たちは疑う様子もなく、どたばたと土煙を上げて指差した方向へ走り去っていく。
靴音が完全に遠ざかり、庭に静寂が戻ってきたのを確認して、私はようやく安堵の息を吐き出した。
緊張のあまり体とひたいにじっとりと汗をかいている。
「……ふぅ、行きましたよ。もう大丈夫みたいです」
シーツの山に向かって声をかけると、バサリと濡れた白い布が払いのけられた。
物陰から顔を出した青年が、どこか呆然とした表情で私を見上げてくる。
「……なぜ、俺を助けた」
低くかすれた声で問われ、私は首を傾げた。
「なぜ、と言われても……私もよくわかりません。でも、あなたがとても困っているように見えたものですから」
計算も打算もなく口から出た本音だった。
私の言葉を聞いた青年は、予想外の答えだったのか、美しい空色の瞳をかすかに揺らがせる。
固く結ばれていた唇が、驚きでほんの少しだけゆるんだように見えた。
「まあ、詳しい話は後です。血も止まっていませんし、とりあえず家の中でしっかり手当てをしましょう」
私は青年の肩に手を貸し、立ち上がるのを支えながら、自分の小さな我が家へと足を進めた。
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