昼に見る月(5)
この日、麟太郎や吾郎が修練を続ける道場に迫り来る飛行物体があった。
高高度をマッハ3で飛来したそれは、目的地の上空に達すると、一瞬にして停止した。UFOかと見まごうが如き飛行性能であった。それは、昼の青空に浮かぶ、少し欠けた白い月を背景にして、その赤銅色の姿をくっきりと表していた。
「なんだ、この気配は」
団式合気術道場の一部の人間は、彼方から一瞬にして飛来した飛行物体に気付いていた。高度一万メートルの彼方にいて、なおその存在を感じずにはいられないその物体は、巨大な人型をしていた。
「クククク、はぁっはっははは。わしは遂にこの高みに到達した。出てこいBJ。最後の決闘をしようではないか」
新たなボディを手に入れたギャクスリン侯爵の雄叫びは、道場の一部の者達を心底震え上がらせた。そして彼等は思っていた。
(このようなモノとは戦えない。戦えるわけがない)
と……
「来た。奴だ」
最初に言葉を発したのは、海堂武史であった。
「隊長、何が来たんですか」
訝しがる隊員達に、
「決まってんだろ。ギャスリンの野郎さ」
と、麟太郎が恫喝するように答えた。
「ギャスリン侯爵。あ、あの化け物がか……」
「でも、今回の気配は、数日前のそれよりも桁違いだ。僕や麟ちゃんでも、感知できるほどの」
吾郎が、その巨大で圧倒的な気配で押し潰されそうになるのを耐えながら、説明した。
「どういうことだ」
武史が吾郎に尋ねた。
「ナノマシン装甲の密度が全然違う。駆動部も倍以上の出力らしい。多分、仲間のダークナイトを取り込んだんだ」
吾郎はそう答えた。
「な、仲間をか。いくらなんでもそれは……」
「ありえないと思うかい、伯父さん。俺だって宿敵に勝つためだったら何でもするぜ」
麟太郎は、その強い気配に押し潰されそうになりながら、武史にそう言った。
その時、道場の入口で声がした。
「皆、避難じゃ。先の大戦の時の防空壕がある。そこに皆隠れるんじゃ」
気配を察して駆けつけたのは、団弦柳──ここの道場主であった。
弦柳は、家と道場にいる全員を防空壕に避難するように誘導していた。麟太郎も吾郎も、祖父と一緒に誘導を行っていた。
「伯父さん、隊員達と女性たちは防空壕に入りました。伯父さん達も早く」
海堂武史が弦柳にも避難を促した。
「よし、麟太郎、吾郎も避難じゃ」
と、弦柳が麟太郎達に声をかけた時、悲劇は起こった。
高度一万メートルから一瞬にして地上に降り立った『それ』は、強烈なソニックブームを辺りに放った。爆風で、家の窓ガラスは粉々に割れて飛び散り、未だ避難できていない麟太郎と吾郎が吹き飛ばされた。
「麟太郎! 吾郎!」
弦柳が二人を呼ぶが、竜巻のような風のために、防空壕の入口から外へ出られなかった。
そうするうちに風は収まってきたが、弦柳は、未だ砂埃の舞う中庭に薄黒い影が立っているのに気が付いた。
「お、お主は……」
弦柳が言葉に詰まった時、影は低い声を発した。
「また会ったな、年老いた人間よ。わしはギャスリン。新しいνギャスリン侯爵だ」
新たな身体を得たギャスリンからの猛烈な殺気で、弦柳も武史も防空壕から出ることさえ出来なかった。
「貴様ら、BJを知らぬか? 分かるだろう、あの忌々しい黒い鎧だ。あやつに出会ってから、わしは歯噛みするような思いばかりをしている。これは、あやつの首を絞め、そのマスクをわしの手で直々に剥ぎ取ることでしか、報われんのよぉ。貴様らも武人なら分かるだろう。わしがどれだけBJに苦渋を舐めさされてきたか」
ギャスリン侯爵は、粘着くような視線を弦柳に向けると、左腕を持ち上げた。そこには、一人の少年がぶら下がっていた。
「り、麟太郎」
刺々しい鎧の腕に首根っこを捕まえられて、麟太郎は断末魔のネズミのように中にゆらゆら揺れていた。
「くっ、麟太郎が。伯父さん、ここは俺が」
武史が防空壕から出ようとするのを、弦柳は留めた。
「無駄じゃ。たとえわしが出て行ったとしても、数秒ももつまい。麟太郎の命は、BJが来てくれるか否かにかかっている」
弦柳は奥歯を噛み締めながらそう言った。
「そんな。では、BJが来なかったら、あの子達はどうなるんです。俺達の目の前で殺されるのを黙って見ていろって言うんですか!」
そう言う武史は、自分が震えているにまだ気がついていなかった。
「麟太郎、すまん。何も出来ん爺を恨んでくれ。……そうじゃ、吾郎は? 吾郎はどうしたんだ。まさか」
ここに来て、武史と弦柳は、吾郎が行方不明なのに気が付いた。吾郎はどこに?
「何だぁ、もう一人の子供のことかぁ。ならばこれよ」
ギャスリンの右手には、吾郎の着ていた道着が握られていた。それは血で真っ赤に染まっていた。
「かわいそうになぁ、この子供も。ちょうどわしの着地点にいたせいで、粉微塵よ。まぁいい。人質は一人いれば充分だ」
ギャスリン侯爵が、無情な判決を下した。それでは、吾郎は侯爵に殺されてしまったというのか……
「きさまぁ、よくも吾郎くんを。許さんぞ」
麟太郎達の伯父である海堂武史は、その怒りで、防空壕を出てギャスリンに飛びかからんとしたが、何故かその場を動けなかった。
「う、くっ、あ、足が……」
そうなのである。我を忘れるほどの怒りに燃えながらも、身体はギャスリンに近づくことを拒否しているのである。それほど今のギャスリン侯爵は凶暴であった。
「くそっ、情けない。麟太郎が捕まり、吾郎くんは殺されてしまったのに。どうして、この俺の足は前に進まん。身体は戦うことを拒否するんだ。情けない。すまん。麟太郎、吾郎くん」
武史の握った拳から血が滴り落ちていた。
「出てこぬのか、BJ。それでは、わしはこの子供で遊ぶとしようか。さて、これから、この子供の身体を少しずつ引き千切っていこうか。少しずつ、ほんの少しずつよ。さぁ、いつまで命が保つかな? おもしろい余興とは思わんか」
ギャスリン侯爵の無情な仕打ちに、麟太郎は身を委ねるしか無いのか……
その時、再び空気が渦巻いた。旋風に土埃が高く舞った。
「ぬっ、来たか。待ちわびておったぞ、BJ!」
ギャスリン侯爵が旋風の方に向いたその瞬間、巨大な黒犬が侯爵の左手から麟太郎を連れ去った。
「む、これは。BJめ、わしを謀ったな」
人質を取り戻したのは、BJの守護獣──ギリオンであった。
猛犬は、未だ気絶している麟太郎を弦柳のところにまで運んだ。
「麟太郎、大丈夫か麟太郎」
名を呼ぶ祖父と伯父に、麟太郎のまぶたがピクリと動いた。息はしているようである。
安心したのも束の間、ギャスリン侯爵は弦柳達に向くと、ゆっくと歩みを進めてきたのである。
「忌々しい守護獣め。卑しい野良犬よ。塵に帰れ」
ギャスリンがそのマントを翻すと、強烈なソニックブームが弦柳達を襲った。触れただけで皮膚を引き千切りかねない衝撃波は、途中で何事もなく消えた。
そこには巨大な左腕が手を開いていた。ヘブンズ・レフト──これもBJの守護獣であった。
「貴様は弱い者にしか立ち向かえんのか」
天から囁くような低い声が響いてきた。
「やっと来たか、我が宿敵よ。待っておったぞ、BJぇ!」
侯爵が目を向けた先──空中にBJはいた。これも巨大な右腕に乗って、白い月を背景に佇んでいた。昼間の月の前に立つ姿は、背景と対照的に深い黒であった。闇よりなお暗いと思われるその黒き騎士の鎧には、文字とも紋章ともとられるような、きらびやかな模様が刻まれていた。
それは、闇に浮かび上がる星たちのようであった。
「それでは、決着をつけよう。これで終わりだ。ギャスリン侯爵!」
「望むところよ」
今ここで、巨大な星と星がぶつかり合う。勝利を掴むのは、果たしてどちらだろう。




