昼に見る月(4)
粘りつくような暗闇で、赤銅色の無定形なモノが、うねうねと床を這っていた。
それは床を這いまわりながら、時々身体の一部を盛り上がらせたと思うと、急に平べったくなったりと、変形を繰り返していた。その粘稠体は、ある特定の形状を取ろうとして、その動作を繰り返していた。
何十度目かの失敗の後、遂にその不定形なモノは、意図した形状に近づいてきた。うねくる赤銅色の人型をなしたそのモノは、床に落ちていた二つの仮面の一方を取り上げると、自分の顔に押し当てた。
「くっ、くははははは。わしは戻ってきた。戻ってきたぞ。わしこそ、新たなるギャスリン。νギャスリンだ。三度目の正直、今度こそ、その憎たらしい素顔を見せてもらおうか、BJよ」
虚空に響く高らかな笑いは、空間そのものに染み付いて、取ろうと思っても取れないように思えた。
以前より一回り巨大になったギャスリン侯爵は、その道化の面の奥に粘つくような怪しい目を光らせていた。
ほぼ同時刻、地上の某所で少年は目を覚ました。
「再度蘇ったか、ギャスリン」
彼はそうつぶやくように口にすると、左手に握った道化の面を見つめていた……
自衛隊駐屯地の激闘から数日後のことである。団式合気術の道場では、早朝から、海堂武史以下の自衛隊特殊部隊の面々が稽古を続けていた。
その稽古は実に不思議なものであった。
一人の女性を三人で襲っていたのだ。だが、その女性は立っているところから微動だにせず、襲い来る巨漢達をあるいは中に舞わせ、あるいは床に這いつくばらしていたのだ。
男たちは汗ぐっしょりであったが、女性の方は汗ひとつかかず涼しい顔をしていた。
「くぅ~、三人がかりでもまだ動かすことも出来んとは。こんなんで出動したら、瞬殺だぞ瞬殺。もっと気合入れていかんか!」
男たちを仕切っているのは、海堂武史。この部隊の隊長である。
「それなら隊長もやって見せてくださいよ。いつも一人だけ参加しないで、ニヤニヤしながら見てるだけじゃないですか」
男の言い分はもっともである。これまで、武史は練習を見るだけで、自分は蚊帳の外だったのだ。
言われた武史は、
「仕方ねぇなぁ、俺は隠れて特訓してたんだよ。そいじゃぁ、その成果を見せてやろうじゃないの」
武史はそう言うと、道着の紐を結びなおして、その女性──団優奈に挑むように、彼女の前に立った。
「あらあら、今日は武史さんも挑戦するのね。こちらはか弱い女性の身。お手柔らかにね」
優奈の言葉は優しかったが、その目は笑っていなかった。静かな、無機物を見るような、そんな眼差しだった。
一方の武史は。自然体。両腕をだらりと垂らし、構えは取らない。それは、優奈の方も同じであった。
互いの距離は約三メートル。どちらかが踏み込まなければ、届かない距離。
しかし、二人の間には、濃密な気が充満していた。それは蒸し暑い道場内の空気の中で対流し、朧な影を見せていた。
十分ほどもそうしていただろうか、遂に武史は、
「参りました」
と言って、その場に片膝をついた。よく見れば、全身汗でグッチョリと濡れている。
「さすが、特訓していたと言うだけあるわね。感服しました」
優奈はそう言うと、後ろによろめいたのである。こちらも、額から顎に汗がつたっていた。
隊員達はその光景を唖然として見つめていた。
「い、いったい何があったんです?」
そう言った隊員を、武史は一瞥すると、
「組手だよ。組手をしていたんだ。分からんか? お前」
と、言った。
「組手って、……二人共、ただ突っ立ってただけにしか見えませんでしたが」
「気と気同士の組手だ。一種のシミュレーションだな。あの間に、千五百回くらい戦ったぞ。まぁ、俺の全敗だったがな」
武史は、そう答えると、ニヤッと笑った。そして、隊員の一人に、こう話しかけた。
「よう、長澤、試しにやってみるか?」
言われた隊員は、おずおずと立ち上がると、武史の前に立った。
武史は、隊員の前でしばらく目をつむっていたが、次の瞬間、カッと目を見開いた。その途端、その隊員は、はじけ飛ぶように尻もちをつくと、そのまま倒れこんだのだ。そして、深く咳き込むと、その場にゲロを吐いた。
「よう、どうだった」
武史が訊くと、
「くっ、あ、頭と腹に三発ずつ食らった。避けることも受けることも出来なかった。ヒドイっすよ隊長。いきなり殴ってくるなんて」
「だとよ」
と言って、武史が残りの隊員達にウインクをしてみせた。
「これが、合気術……」
隊員の一人がつぶやくようにそう言った。
「そうさ、腕が立つやつだと、睨んだだけで気絶させることも出来る。俺も頑張ったつもりだが、優奈ちゃんには敵わなかったなぁ」
と言って、武史はその場に座り込んだ。その横で、別の隊員が、倒れている者を介抱していた。
「このくらいのレベルにならないと、とてもじゃないがダークナイトなんかとは戦えないぞ。ホワイト・クロスの重装甲も、アイツラの剣にとっては紙切れみたいなもんだからな。それ、特訓を続けるぞ」
『はい!』
隊員たちから、元気な声が返ってきた。そして、果敢に優奈に挑んでいったのである。
(それでも、こいつらは、あのダークナイトに敵わない。やはり、死ぬと分かっている戦場にこいつらを送り出さねばならんのか……)
武史は心の中で逡巡していた。
そんなところへ入って来たのは、麟太郎と吾郎であった。
「うい~っす。俺達にも稽古つけて下さい」
と、麟太郎は、少しヘラヘラした様子で、道場に上がった。
隊員達の間に、「ムッ」と言う敵意が生まれる。
「麟ちゃん、そんなに横柄な態度はダメだよ。本職の隊員さん達なんだから」
吾郎が、麟太郎をたしなめた。腕はたつが、まだ高校生なのである。
しかし、優奈は、
「あら、いいところに来たわね。二人共、ちょっと稽古を代わってくれないかしら。武史さんと組手をして、少し疲れちゃったので」
と、声をかけたのである。武史との仮想組手は、全勝したとはいえ、千五百回もあったのだ。さすがに優奈も疲れたらしい。
「分かりました、母さん」
「オッケイ、伯母さん。本気で潰してもいいのかい?」
麟太郎が、また生意気な事を言う。
「麟ちゃんダメだよ、そんな生意気なこと言っちゃ。常に謙虚であることって、お爺さんに言われているのに」
また、吾郎が麟太郎をたしなめた。
すると、武史は、
「いいじゃないか。あんまり負けてばかりだと、負け癖がついちまう。ここらで、勝たしてもらわないと、割が合わない。二人共大歓迎だ。なぁ」
最後の「なぁ」は隊員に言ったものだ。これまで負け続きだった隊員達の目に、獲物を狙う野生の光が灯った。
「そ、そうですか。では母の代わりを務めさせていただきます」
と、吾郎は言って、母のいた場所に立った。
「そいじゃぁ俺も。どんどんかかって来なさい」
と、相変わらずの生意気な麟太郎だった。
「それじゃぁ、稽古つけさせてもらうぜ」
と、隊員の一人が言うと、麟太郎に襲いかかった。
「うぉ」
虚を突かれた麟太郎は、一瞬対応が遅れた。その隙を狙って、隊員は麟太郎の肩をつかみにかかった。ところが、隊員にはその手応えがなかった。しまったと、思う暇もなく、隊員の腹に麟太郎の掌底が打ち込まれた。
「ぐぅわ」
と、悲鳴を挙げて、隊員がその場に崩れ落ちる。
「あー、しまった。つい本気出しちゃったよー。ごめんごめん」
と、更に生意気になる麟太郎を見て、吾郎が頭を掻いていた。
「すみません。僕ら、母さんのようには出来ないけれど、これでも強い方なんですよ。そのつもりでかかって来ないと、痛い目を見ますよ」
吾郎の言葉は、隊員の闘争本能に火をつけるだけだったようだ。
「次行くぞ!」
と叫びながら、新手の二人が麟太郎と吾郎に襲いかかる。それを麟太郎は痛打で、吾郎は投げで返した。
「団式合気術はカウンターを得意とする。大きな動作は隙を生むだけだ。こちらの力を利用して、倍にして返されるから注意しろ」
武史の檄が飛んだ。
「うす!」
という掛け声とともに、次の二人が挑む。今度は闇雲に突っ込まず、間合いを取って様子を見ていた。麟太郎は、遂に待ちきれなくなって、相手の懐に飛び込んだ。その一瞬に、「フッ」っと隊員の気配が消えた。麟太郎は「しまった」と思ったが、あとのまつりである。隊員に背後を散られ、道場の床に抑えこまれてしまった。
「わぁぁ、参った。ギブギブ。俺の負けだよ」
麟太郎が負けを認めると、男たちから歓声があがった。たとえ小さな一勝でも、それが子供から得た勝利でも、これは団式合気術から勝ち取った最初の一勝だったのだ。
「やられたね麟ちゃん」
吾郎はそう言って麟太郎に手を差し出した。麟太郎は手を取って立ち上がると、首を左右に捻っていた。
「う~、油断した。今度はそうはいかないぞ」
「麟ちゃんは根気が無いんだよ。先に動いて隙だらけになってしまう。麟ちゃんの悪いところだよ」
吾郎はそう言って、麟太郎をたしなめた。
そうして、午後は麟太郎と吾郎が稽古の相手をしていた。
二人共、いや団家の誰もが、これから訪れる強敵に何も気が付いていなかった……。




