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沈んだ記憶  作者: 松木類


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3/4

2003年8月17日

蝦蟇湖へ向かう道を、京介は一人で歩いていた。

八月の朝だ。蝉の声が、途切れることなく林の中に響いている。道路の照り返しが眩しく、額にはすぐに汗が浮かんだ。

手には、昨夜見つけたカセットテープと、古い写真が入った封筒を持っていた。

写真の日付は、2003年8月17日。今から二年前。

京介がまだ中学1年の頃だ。

「本当に、ここなのか」

蝦蟇湖が見えてきた。湖は、思っていたよりも静かだった。

風が吹いているのに、水面にはほとんど波がない。木々の隙間から見える水面は黒く、底がどれくらい深いのか分からない。

京介は立ち止まった。

その瞬間、頭の奥がわずかに痛んだ。

ここを知っている。そう思った。

初めて来た場所ではない。けれど、いつ来たのかは思い出せない。

京介は目を閉じた。

蝉の声、風の音、水の音。

どこかで鳥が鳴いている。

昨日聞いたカセットテープと同じ音だった。

「俺は、ここにいた」

口にした瞬間、胸の奥がざわついた。だが、それ以上は何も浮かばなかった。

誰といたのか。何をしていたのか。何を見たのか。

何一つ思い出せない。

京介は湖畔まで歩いた。足元には小さな石がいくつも転がっている。その中に、一つだけ妙に見覚えのある石があった。

白い石だった。

表面に黒い線が入っている。京介はしゃがみ込み、それを拾った。

その瞬間

『京介』

背後から声がした。京介は振り返ったが、誰もいない。林だけがある。

「今、誰か」

聞き間違いだったのかもしれない。けれど、その声は確かに聞こえた。

自分の名前を呼ぶ声。

京介はしばらく林を見つめていたが、やがて視線を湖へ戻した。

そして、ふと思った。カセットの男は、誰だったのか。

昨夜、何度もテープを聞いた。声は若くも年老いてもいなかった。特徴のない声。

ただ、一つだけ気になっていることがあった。

男は言った。

『お前が見たものを』

なぜ、そんな言い方をしたのか。

普通なら、

「何を覚えている?」

と聞くはずだ。

なのに男は、

『お前が見たもの』

と言った。

つまり、京介は何かを見た。

そして、そのことを忘れている。

「何を見たんだ。俺」

答える人はいなかった。

京介は持ってきた写真を取り出した。写真には、数人の生徒が写っている。その端に、一人の男子生徒がいた。他の生徒たちとは少し離れている。

笑っていない。ただ、こちらを見ている。

京介は、その少年の顔をじっと見つめた。やはり知らない。名前も分からない。それなのに、なぜか目を離せなかった。

「お前、誰なんだ」

そのときだった。

写真の端に、小さな傷があることに気づいた。

紙が折れた跡ではない。何か硬いもので、強く擦ったような跡だった。

京介は写真を裏返した。そこには、2003.8.17という日付。

そして、その下に鉛筆で薄く何かが書かれていた。

今まで気づかなかった。

京介は写真を太陽の光に透かした。

文字が浮かび上がる。

「四人で来た」

「四人?」

写真に写っている人数を数える。

一人。二人。三人。四人。写真には四人の生徒が写っている。

だが、その文字が意味することは分からない。

四人で来た。

では、写真を撮ったのは誰なのか。

京介はゆっくりと顔を上げた。

湖の向こう側。木々の間に、何かが見えた。

人影だった。

「誰だ?」

京介が立ち上がる。

人影は動かない。

黒い服を着た誰かが、湖の向こう岸に立っている。

京介は目を細めた。その瞬間、人影が消えた。

「待って!」

京介は湖畔を走った。しかし、向こう岸へ行く道はない。

人影がいた場所に着く頃には、誰もいなかった。

ただ、木の根元に何かが落ちていた。

京介が拾い上げると古い学生証だった。表面は泥で汚れていた。

指で拭う。

そこに書かれていた名前を見た瞬間、京介の呼吸が止まった。

白鳥京介。

「俺?」

学生証の写真は、今より幼い。だが、間違いなく自分だった。生年月日も、自分のもの。

学校名も、自分が通っている学校。ただ一つだけ、おかしい。

発行日が、2003年8月17日。

頭の奥で、何かが弾けた。

水、誰かの叫び声、足音、「逃げろ」という声。そして、湖面に浮かぶ白いシャツ。

「……っ」

京介は頭を抱えた。思い出せない。思い出せないはずなのに、確かに何かを見た。

いや、違う。

これは記憶ではない。記憶になる直前の何かだった。

映像だけが頭の中に浮かび、意味だけが抜け落ちている。

京介は息を整えた。

そして、もう一度学生証を見る。

そこには、自分の名前がある。

なのに、裏面には知らない名前が書かれていた。

佐伯。

京介は目を見開いた。

「佐伯?」

学校にいる友人と同じ名字だった。

偶然なのか。

それとも。

そのとき、湖の奥から風が吹き、水面が大きく揺れた。

京介の手から写真が落ちた。写真は風に飛ばされ、湖へ向かって滑っていく。

「待って!」

京介は慌てて追いかけた。

だが、写真は湖畔ぎりぎりで止まった。

京介が拾い上げる。

写真の裏を見る。

さっきまでなかった文字が、もう一つ見えていた。

鉛筆で書かれた、短い一文。

「京介が見た」

京介は動けなかった。

誰が書いたのか。いつ書いたのか。何を見たのか。何も分からない。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

2003年8月17日。

この湖で、京介は何かを見た。

そして、その記憶だけが、自分の中から消えている。

京介は写真をポケットに入れた。

蝉の声が、また聞こえてきた。その声の向こうから。

誰かの声がした。

「思い出したか?」

京介は振り返った。誰もいない。

湖だけが、静かに揺れていた。


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