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第25話 魂の帰還




 レナは今回の件をすべて「無かったこと」にするために動き出した。


 一介のギルドマスターにそこまでの権限があるのかは分からない。だが、今の彼女が纏う空気は、そんな疑問を抱かせる隙すら与えなかった。


 レナは重厚な魔導書を片手に、静かに夫人の前へと進み出る。そして、震える夫人の額へと、優しく手のひらをあてた。



 その姿は、いつもの「怠惰で計算高いギルドマスター」ではない。


 迷える罪人を赦し、導く牧師のような……どこか神々しく、犯しがたい威厳に満ちていた。


「いい? ローア。人間ってのはね、都合良く忘却するけれど、魂の奥底では絶対に忘れない生き物なんだよぉ」


 レナの声が、静まり返った部屋に響く。


「魔王だって人間なんだ。その人間が積み上げた年月を奪おうとするなんてあり得ないんだ。今から、キミの中に沈んでいる記憶を呼び覚ます。……わたしの言葉は、ただのきっかけ。深い湖に投げ込む、小さな小石だと思って」



 レナの掌から、淡く温かな光が溢れ出す。

 それは魔王の禍々しい雷撃とは対極にある、静かな慈愛の光だった。


 その光が夫人の脳内へ溶け込んでいった、次の瞬間。心が死んでいたはずの夫人の瞳に、パチリと鮮やかな「光」が灯った。


「……あ……あああ……っ!!」

 夫人は取り乱したように、床に横たわる干からびた夫・ベントの遺体へと駆け寄った。

 

 思い出してしまったのだ。

 なぜ自分がこの男を愛していたのか。共に歩んだ貧しくも幸せだった日々。交わした言葉。そして、自分が絶望のあまりに何を手放し、何を犯してしまったのかを。


「ベント……! ごめんなさい、ごめんなさい……! 私、なんてことを……!」


 夫人は、ミイラのように変わり果てた夫を、壊れ物を扱うように、しかし力一杯抱きしめた。

 枯れ果てていたはずの目から大粒の涙が溢れ出し、ベントの冷たい肌を濡らしていく。


 その泣き声は、悔恨と、そして確かな「愛」に満ちていた。

 魔王が奪ったはずの感情は、レナの投じた「小石」によって、巨大な波紋となって彼女の心を埋め尽くした。


 ジェイクとシェリーは、その光景をただ黙って見守るしかなかった。


……

………




 程なくして、グリムがフィオを連れて戻ってきた。


 フィオは、ミイラのように干からびてしまった道具屋の店主・ベントの姿、そしてその傍らで涙に暮れるローア夫人を見ると、痛ましさに耐えかねるように少しだけ目を覆った。


 そして、自分がなぜこの場に呼ばれたのかを、その聡明さですぐに察したのだろう。


「ジェイ君。……ここから先は見ない方がいいよぉ」


 レナが、いつになく真剣な、突き放すような声で俺に言った。


「なんでだよ。俺だって……俺だってなんか力になりたいんだよ!」


「力になるどころか、キミの今後が大迷惑になるから言ってるの。これは『人間』なら当たり前の感覚だよ」



 食い下がる俺に、レナが珍しく声を荒らげる。

 言い返そうと息を吸い込んだ瞬間、フィオが「やめて」と、震える、けれど凛とした声で遮った。


「……ジェーさんなら、いいよ。たぶん、ううん。きっとジェーさんは、フィをそんな目で見ないから」



 フィオはそう言うと、静かに膝を突き、祈りを捧げるように手を組んだ。

 刹那、彼女の周囲に立ち昇った魔力は、先ほどの夫人とは比べものにならないほど濃密で、底の見えない深淵の冷たさを孕んでいた。


「闇をかけるこの歌が、どうか貴方の耳に届いたのなら」

「光を灯すこの歌が、どうか貴方の鼓動に響いたのなら」


 フィオの独白が、物理的な重圧となって室内の空気を歪めていく。


「我が名はカーター。汝の血を引きし者」

「汝が従えし眷属よ。古の盟約に従い、我が命令に応えよ――!」



 召喚詠唱。

 俺が生まれて初めて目にする、本物の「上位召喚」。

 迸った光は、もはや「色」という概念を焼き尽くし、世界を剥き出しの白と黒へと塗り替えた。


 そのモノクロームの視界の先に、一人の「影」が這い出してきた。


「……魔王様の血を引きし、遥かなる巫女よ。この大悪魔サバエルを呼び出し、何が望みだ?」



 響き渡る、悍ましくも重厚な声。

 そこに立っていたのは、つい半日前、俺の「ぶちかまし」によって次元の彼方へと叩き込んでやったはずの、あの悪魔だった。


「……サ、サバエル……ッ!?」


 俺の喉が引き攣る。

 ついさっき倒したはずの怪物が、フィオの呼び声一つで、今度は従順な「使い魔」のようでもなく俺たちを見下ろしている。


 サバエルは、俺の視線に気づくと、その醜悪な顔を歪ませて鼻を鳴らした。


「人間、その顔は我を知っているな。遥かな時を駆けようとも我が名は知らしめられているかクククク」




 サバエルは、俺の言葉を鼻で笑った。

 そこには先ほどまでの「因縁」は微塵も感じられない。


「我ら悪魔は不死。無数の別世界が存在するように、無数の我が存在する。クククク、人間よ。別世界の我が貴様に何をしたと? 我が敗北したとでも言いたいのか?」


「……ぶちかまして、次元の彼方へ追い出してやったよ」


 俺の言葉を聞いた瞬間、サバエルはわざとらしく顔を覆い、肩を揺らした。


 ――その直後だ。


 下腹部が、焼けるように熱い。

 何事かとゆっくり視線を落とすと、そこにはあり得ない光景があった。


 俺の腹は無惨に裂け、中から内臓がドロリと溢れ出していた。


「あ……が……あ、ああ……っ」



 熱い。痛い。視界が急速に遠のく。



 溢れたモノを戻そうとするが、両腕がない。いつの間にか、肩から先が消失していた。


 俺が膝から崩れ落ち、泥の中に沈んでいく様を、サバエルは冷淡な瞳で見下ろしていた。


「どうした? 我を倒したのだろう? 早く本気を出して、もう一度やってみろ。……巫女の御前ゆえ、冗談に何度も付き合えんぞ」


 指一本、睫毛まつげ一つ動かせない。死の恐怖が脳を焼き切ろうとしたその瞬間、サバエルが呆れたように指をパチンと鳴らした。


 ――ハッ、と意識が戻る。


 慌てて腹を触るが、傷一つない。腕も、いつも通り岩塩の匂いが染み付いた俺の腕だ。


 サバエルは、呆然とする俺の肩に優しく手を置き、まるで出来の悪い子供を諭すように語りかけた。


「……あれだ。その、虚勢を張るのも結構。しかし、圧倒的な力の差も理解できぬまま我にそれを言うのは、ただの蛮勇だぞ?」


「……っ」


 幻覚か、あるいは一瞬で殺して蘇生させたのか。何にせよ、こいつは俺が倒したサバエルとは「格」が違いすぎる。哀れみの目を向けられ、俺は言い返す気力すら失って黙り込んだ。


 そんなやり取りを余所に、フィオが震える声でサバエルに願い出る。


「悪魔さん……お願い。ベントおじさんにお別れを言う時間をちょうだい。ほんのわずかだけでいい……魂を呼び出してほしいの」


 フィオの懇願に、サバエルは深く考え込んだ。

 だが、その答えは冷酷だった。


「いくら巫女とはいえ、生贄もなしに冥府の門を抉じ開けろとは……笑止! 摂理を乱す対価を、貴様は払えるのか?」


「……できねーなら帰れよ、クソ悪魔」


 偉そうな態度に、つい本音が漏れた。

 サバエルの瞳が、一瞬で「殺意」の色に染まる。周囲の空気がひび割れるほどのプレッシャー。だが、お生憎様だ。こちらもマワシを締め直し、土俵際の覚悟はできている。


 サバエルは、スッと俺から距離を取った。


「……身の程を知らぬ虫ケラめ。魔王様にお前の殺害許可をいただく。貴様の魂魄こんぱくは、我が永遠に食い続けてくれよう!」


 サバエルが虚空に向けて姿を消して数分。

 突如として、召喚の儀式を行っていた白黒の世界が、ぐにゃりと歪んだ。

 次元の裂け目から現れたのは――サバエルではない。


 薄紫の黒色ローブに、大きすぎる途中から折れ曲がった三角帽子。そして、背丈ほどもある立派な木の杖を持った、一人の女の子だった。


鬼無双おにむそう! ついに、お主も生き返ったか!? サバエルの奴が『変な半裸の男』と言ってあったから妾もしや、思うてな!?」


 その愛くるしい容姿、そして何より圧倒的な存在感。


「妾慌ててな! 身支度してな! 髪だって急いで整えてな!」


 ジェイクも、シェリーも、そしてレナですら、その姿には見覚えがあった。


 子供の頃に読んだ、様々な絵本。

 伝説の勇者と対峙し、最後は消えたとも、封印されたとも語られる「物語の象徴」


 物語の多さ、だけ、で言えば『勇者』よりも多く、

『英雄ヤン・キ』と並ぶほどに多い。



 ヤン・キと違うのは唯一、一点

 その存在は今現在も殺されずに確実にいる。

 ただこの世界には居ないとされていた存在。



「……え? もしかして……魔王様?」

 その場にいた全員の思考が、完全に停止した。





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