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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第9章4節

解散から一週間が経っても、サムフルはまだ宿にいた。


ソグドの商人と交渉しているらしく、毎日朝から出かけて夕方に戻ってきた。私は私で、街の様子を掴もうと市場を歩いていた——どの路地に何があるか、どの問屋が何を扱っているか。路銀が足りない。仕事を探す必要があった。


ある昼、市場でサムフルとすれ違った。


「柚はどこまで行くの」


すれ違いざまに、サムフルが言った。立ち止まりながら、特に改まった様子もなかった。


「……ローマ」


「じゃあ一緒に行く」


サムフルは続きを話す気配がなかった。市場の喧騒が、二人の間を流れていた。


「……なんで急に」


「急じゃないよ。パミール越えてる間から、なんとなく考えてた」


「なんとなく?」


「ローマは行ったことないしね。行ってみたい」


説明は、それだけだった。


私はサムフルの顔を少し見た。冗談を言っている顔ではなかった。かといって、重大な決断をしている顔でもなかった。パミールの稜線で荷を運んでいたときと、同じ顔だった。


「荷物持ちは頼める?」


「できるよ」


決まった。決まってしまった、という感じがあった。


「ブハラまでどのくらい?」


「十日か、十二日」


「いつ出られる?」


「俺の商談が片付いたら。あと一週間くらいかな」


「私のほうは路銀が足りない。三週間くらい、稼ぐ時間が要る。それまで待てる?」


「わかった。叔父さんとは別行動になるだろうから、話しておくよ」


サムフルは市場の奥へ歩いていった。


私はしばらく、その背中を見ていた。まあ、いいか——何かを慎重に考えた結果ではなかった。荷を運べる人間がいる、それだけだ。そう整理してから、市場の奥へ向かった。


市場のざわめきの中で、彼が「行ってみたい」と言ったときの声の端に、ただの好奇心ではない何かが混じっていたような気がした。でも私はそれを深く考えないことにした。荷持ちがいてくれるのは便利だ。それ以上の意味を、ここで作る必要はない。


---


夕方、アルダフシルが宿の廊下で声をかけてきた。


「夕飯を、一緒に食べよう」


サムフルが横から「どこへ行くんですか」と聞いた。「いいから来い」とアルダフシルが答えた。


連れていかれたのは、大通りの一本裏の路地にある店だった。


入ると、奥の席に布が敷かれていた。上等な席だった。小さな卓の上に、蝋燭が一本立てられている。私たちが座ると、主人がすぐに料理を運んできた。


ラムの脚肉一本の丸焼きだ。


干し葡萄と杏を煮詰めたソースが脇に添えられていた。ザクロの粒を散らした麦の菓子が、別の皿に盛られていた。そして杯が三つ——アルダフシルが液体を注いだ。


「ソグドの酒だ」


杯を受け取った。液体が揺れた。嗅いだことのない匂いが鼻に来た。これまでの道中、酒を勧められても断ってきた。体に要らないものを入れたくなかった——その考えは今も変わらないはずだったが、杯を手にしたまま、断る言葉が出てこなかった。


アルダフシルが言った。


「パミールで助けてもらった。それと——今月で二十歳だろう」


表情を変えずに、理由を二つ、まとめて出してきた。


サムフルが「俺は知らなかったよ、誕生月のこと」と言った。


「パミールから下りてくる途中で話したじゃない」


「そうだっけ」


アルダフシルは何も言わなかった。杯を持ち上げた。私とサムフルも倣った。


杯を傾けた。甘みが先に来て、熱さが後から来た。喉を通る感触がある。体の内側が、少し広がるような気がした。美味いかどうかを確かめる前に、もう一口飲んでいた。生まれて初めての酒だったが、そのことに気づいたのは、しばらく経ってからだった。


---


アルダフシルが肉を切り分けてくれているのを見ていると、頭をよぎった。


一年前——タクラマカン砂漠の岩陰で、ひとりで座っていた夜。干し杏と干し葡萄だけを並べて、「へへ……お誕生日おめでとう、私」とつぶやいた。誰にも聞こえなかった。声を出さずに泣いた。


今夜は、卓の向こう側に人がいた。


気持ちが言葉になる前に、ラムの肉の匂いが鼻に来て、サムフルが何か言って、アルダフシルが短く笑った。


私は肉を一切れ食べた。


脂が口の中に広がった。ソースは葡萄が甘く、杏の酸味が後から来た。美味しかった。不意に目頭が熱くなったけど、杯をあおってごまかした。


「サムフルはいつもアルダフシルさんと一緒に動いてるの」


「基本は叔父さんの仕事を手伝いながら、自分でも動く感じかな。一人立ちしたいとは思ってるけど、まだ叔父さんのほうが圧倒的に伝手が多いから」


アルダフシルは黙って杯を傾けた。


「アルダフシルさんに感謝してる?」


「そりゃ。でも感謝してることと、いつまでも世話になることは別だから」


「そうだね」


サムフルが笑った。アルダフシルが何も言わずにラムを食べた。


酒を、もう少し飲んだ。頰が少し熱くなっていた。それが酒のせいなのか、店の中が温かいせいなのかわからなかった。どちらでもよかった。ザクロの粒を口に含んだ。果肉が弾けて、甘みと酸みが一緒に来た。こういう食べ物をこれまで想像したことはなかった。想像できる余裕がなかった。


---


帰り道、夜の路地を三人で歩いた。


「ありがとうございました」とアルダフシルに言った。


アルダフシルは頷いて、先に宿の方角へ歩いていった。


サムフルが隣を歩きながら言った。「美味かったよな」


「うん」


路地の石畳を踏みながら、宿まで歩いた。足音が二つ、石の上で同じ間隔を刻んでいた。サマルカンドの夜の空気が頰に当たった。酒の熱がまだ胸のあたりにあった。


サムフルが少しだけ足を緩めた。酒のせいか、夜の空気のせいか、声が少しだけ柔らかかった。


「また、こういう夜があってもいいなって思う」


「うん」

私はちいさく頷いた。


それ以上は何も言わなかった。




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