第八章 対決
「……お前か」
妖怪の声は、低く、しかし激しい怒りに満ちていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、のり子の傍らから一歩も離れず、
冷たい視線を男に突き刺した。
男は楽しげに笑い、肩をすくめた。
「なんで、俺たちが戦う?
人間だぞ、食ったりもてあそぶものではないか?
何を怒ってるのだ?」
その瞬間、妖怪の理性が完全に弾けた。
「黙れ……!」
冷たい怒号とともに、妖怪は一瞬で間合いを詰め、
男の顔面に向かって拳を振り下ろした。
人間の姿を保ったままの、しかし桜の精としての力が込められた一撃だった。
男は嘲笑を浮かべながら軽く身を翻し、拳をかわした。
しかしその余波だけで、屋敷の壁に大きな亀裂が走り、埃が舞い上がった。
「ほう、随分と苛立っているようだな」
男が笑うと同時に、黒い霧のような呪力が妖怪を襲った。
それは単なる攻撃ではなく、魂を直接抉るような悪意に満ちた呪いだった。
妖怪は胸を抉られる激痛に顔を歪めながらも、歯を食いしばって反撃した。
桜の枝が屋敷の床を突き破り、鋭い矛となって男に向かう。
しかし男は身を翻し、黒い霧を盾のように展開してすべてを防いだ。
戦いは一方的に進んだ。
悪の妖怪は圧倒的に強かった。
彼の攻撃は妖怪の体を切り裂き、冷たい体をさらに冷たく凍てつかせ、
魂の根源にまで悪意を染み込ませてきた。
妖怪の左腕が黒く腐食し、右肩が深く裂け、桜色の光がぼろぼろと零れ落ちる。
膝が折れそうになりながらも、妖怪はのり子の傍らを離れようとはしなかった。
彼女を守るように立ち続け、必死に攻撃を繰り出していた。
「のり子を……
お前が、苦しめたのか……!」
妖怪の声はすでに掠れ、血のように桜の光を零しながら、
もう一度、最大の妖力を込めた光の奔流を放った。
悪の妖怪は嘲笑を浮かべながら、それを真正面から受け止めた。
しかしその瞬間、妖怪の目が鋭く光った。
彼はすべてを賭けた。
自分の存在を削り、桜の精としての本質である「命の樹液」をすべて解放した。
それは妖怪にとって自殺に等しい行為だった。
光の奔流が悪の妖怪を包み込み、黒い霧を焼き払っていく。
男の顔に初めて驚愕が浮かんだ。
「なっ……この力は……!」
悪の妖怪は黒い霧を爆発させて抵抗したが、
妖怪の決死の攻撃はそれを上回った。
黒い霧が引き裂かれ、男の体が悲鳴を上げながら崩れ始めた。
「ぐあっ……この……下等な桜の精が……!」
最後に、男は憎悪に満ちた目を妖怪に向け、
体が黒い粒子となって崩れ落ち、消滅した。
妖怪は膝をつき、激しく息を荒げていた。
体はボロボロだった。
左腕はほとんど動かず、胸に大きな裂傷ができ、桜色の光が弱々しく漏れ続けている。
右脚は深く裂け、立っているのがやっとの状態だった。
全身から桜の花びらが血のように散り、床を淡く染めていた。
それでも妖怪は、震える足でゆっくりと振り返り、
のり子の傍らに戻った。
のり子は、薄く目を開けていた。
弱々しい、しかし確かに微笑んでいた。
妖怪は震える指で彼女の頰をそっと撫で、
掠れた声で呟いた。
「……終わった」
その声は、かすかで、疲れ果てていた。
しかし、そこには確かに、のり子を守り抜いたという、静かな勝利の響きがあった。




