第七章 甘き取引の影
のり子が臥所に寝たきりになってから、三日が経っていた。
彼女の体はもはや、朝餉を準備することも、妖怪の着物を洗うこともできなくなっていた。
ただ、薄い布団の中で小さく横たわり、時折弱々しい息を吐くだけだった。
左腕から肩、背中へと広がった墨色の斑点は、今や胸のあたりまで達し、
彼女の白い肌を、まるで古い墨絵のように染め上げていた。
妖怪は、のり子の傍らに座り続けていた。
冷たい手を、彼女の熱を持った額にそっと当て、
時折、掠れた声で名前を呼ぶ。
のり子は薄く目を開け、弱々しく微笑むのが精一杯だった。
「大丈夫……あなたが、そばにいてくれるだけで……」
その言葉が、妖怪の胸を抉った。
自分が彼女をここまで追い詰めているという事実を、彼はもう、否定できなかった。
その夜、朽ちた屋敷の広間に、別の気配が忍び寄った。
暗い霧のような影が、ゆっくりと実体を帯びていく。
白い着物に黒い帯を締め、穏やかな微笑みを浮かべた男の姿——
花畑で遠くから二人を眺めていた、あの異形だった。
男は、臥所に横たわるのり子と、その傍らに座る妖怪を、興味深げに見下ろした。
「ふふ……人間を飼ってるようだな」
低く、甘く、粘つくような声が響いた。
「しかも、瀕死ではないか。
随分と痛々しい姿だ」
妖怪がゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、静かな警戒と怒りが宿る。
男は微笑みを崩さず、続けた。
「どうだ、俺と取引しないか?
俺は、人間の魂が欲しい。
お前はその『入れ物』が欲しいのだろう?
永遠にその入れ物を好きにできるぞ。
魂だけを私に渡せばいい。
体は綺麗に残してやる。
黒ずみも消え、若く、美しいまま……
お前が望むように、ずっと抱いていられる。
いい話だろう?」
広間に、重く冷たい沈黙が落ちた。
男の瞳は、底知れぬ闇をたたえながら、
のり子の寝顔と、妖怪の硬くなった表情を、交互に貪るように見つめていた。
やがて、男はにたりと口元を歪め、下種な笑いを漏らした。
「しかし、旨そうな魂だな……なぜ食ってしまわない?
そうだ、もうこのあざも不要だな。
おれの能力は、人間の魂だけを切り離す呪いさ。
そのあざがもう少し広がれば、お前には綺麗な入れ物にして返してやるさ。
俺には魂をくれ……いひひひっ」
その瞬間、妖怪の全身が激しく震えた。
(……この男が、元凶か)
花畑で二人を見ていた影。
のり子の背中に広がる黒いしみ。
すべてが、目の前のこの異形の仕業だった。
妖怪の冷たい体に、抑えきれない怒りが燃え上がった。
「……お前か」
妖怪の声は、低く、しかし激しい怒りに満ちていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、のり子の傍らから一歩も離れず、
冷たい視線を男に突き刺した。
男は楽しげに笑い、肩をすくめた。
「別に人間などどうでもいいではないか?
こんな下等生物」




