第六章 墨色の侵食
あの花畑での幸せな朝から、数日が経った。
のり子の体は、静かに、しかし確実に蝕まれ始めていた。
ある夜、のり子が深い眠りについた後、妖怪はそっと掛け布団をめくった。
月光が彼女の白い背中に落ちる。
左の肩甲骨のあたりにあった小さな黒いしみは、
今や手のひらほどの大きさに広がり、薄い網目状の模様を描いていた。
その周囲の皮膚は、かすかに熱を持ち、触れると微かに震えるように脈打っていた。
妖怪は息を呑んだ。
(なぜだ、原因がわからない)
彼は自分の冷たい指で、のり子の背中にそっと触れた。
熱い。
人間の体温など、はるかに超えた熱が、彼女の内側から湧き上がっている。
墨色の斑点は、ただの染みではなく、妖怪の強大な妖気が彼女の肉体を内側から焼き、侵食している証だった。
距離が近ければ近いほど、黒ずみは速く、深く広がっていく。
妖怪は、ようやく悟った。
(妖怪と人間が、一緒に暮らしてはいけなかったのか)
自分がそばにいるだけで、のり子は死に向かっている。
愛していればいるほど、彼女を殺している。
この事実に、鏡のような彼の心は、激しくひび割れた。
次の朝、のり子は熱を出し始めた。
頰が赤く染まり、息が荒く、細い体が時折小さく震える。
それでも彼女は、いつもと同じように起き上がり、妖怪のために朝餉を準備しようとした。
「だめだ……今日は休め」
妖怪が珍しく強い口調で止めたが、のり子は弱々しく微笑んで首を振った。
「大丈夫……あなたのご飯、作らないと。
ちゃんと食べてほしいの……」
彼女はふらつきながら土鍋に火を起こし、
震える手で山菜を切った。
額に浮かんだ汗が、朝の光にきらめく。
熱でぼんやりする瞳の中にも、妖怪を想う優しい光は、消えていなかった。
妖怪はただ、黙ってその姿を見つめていた。
自分の存在が、愛する者を苦しめ、熱に浮かべ、ゆっくりと死へと導いているという事実に、
胸の奥が激しく痛んだ。
妖怪である彼には、こんな「痛み」など本来感じるはずのないものだった。
それでものり子は、熱にうなされながらも、
妖怪の着物の裾を直し、
冷たい手に自分の温かい手を重ね、
「冷たくて……気持ち良いね」と、弱々しく微笑んだ。
妖怪は、その手をそっと握り返した。
握った指の先が、かすかに震えていた。
(俺は……
彼女を、愛しているのか?
それとも、ただ壊しているだけなのか?)
墨色の侵食は、日ごとに確実に広がり続けていた。
のり子の背中を、肩を、腕を、そしてゆっくりと胸の方へと。
そして、のり子は、ついに臥所に寝たきりになってしまった。




