第三章 穏やかな暮らし
屋敷での暮らしは、静かで、穏やかだった。
朝になると、のり子はまず妖怪のために朝餉を準備した。
妖怪が夜の間に森の川で捕まえてきた小魚を、彼女は丁寧に捌き、
古い土鍋で山菜と一緒に煮る。
火の番をしながら、時折こちらを振り返っては「今日は少し甘めに煮てみたよ」と微笑む。
妖怪が「必要ない」と言っても、彼女は決して聞かず、小さな木の椀に盛って差し出した。
「ちゃんと食べてね。
一緒にいるときは、ちゃんと食べてほしいの」
彼女は妖怪の隣に座り、自分も少しずつ口に運びながら、
今日の空の色や、窓から見える木々の様子を静かに話した。
その声は穏やかで、決してうるさくなかった。
日々が過ぎるにつれ、のり子の妖怪に対する態度は、少しずつ、しかし確実に変わっていった。
彼女はもはやただの「逃げてきた女」ではなかった。
妖怪の冷たい手に自分の手を重ね、
「冷たくて……気持ち良いね」と微笑むようになり、
朝餉の後には彼の着物の裾を直し、
夜には火を焚いて部屋を温め、
彼が少しでも不快そうにすると、すぐに気づいて寄り添うようになった。
のり子は、妖怪を「守るべきもの」として見るようになっていた。
いや、それ以上に——
彼女の瞳に宿る光は、静かで、しかし確かな愛情の色を帯び始めていた。
妖怪もまた、気づけばのり子を「手放したくない」と思うようになっていた。
彼女の温もり、彼女の小さな笑い声、彼女が自分のためにしてくれるささやかな世話。
それらが、鏡のような彼の内側に、いつしか深い波紋を刻み込んでいた。
ある静かな夜。
のり子はいつものように臥所を準備していたが、その夜は違った。
彼女は布団を一つだけ、丁寧に整えた。
いつもなら二つ並べて敷いていたものを、敢えて一つだけ。
妖怪はそれを見て、少し呆然とした。
「……俺は、床か?」
のり子は何も答えなかった。
ただ、妖怪の手をそっと握ったまま、黙って布団の傍らに座った。
行灯の淡い光が、彼女の頰を優しく照らしている。
彼女の指は、わずかに震えていたが、離そうとはしなかった。
妖怪は、初めて自分の胸の奥で、激しいざわめきを感じた。
これは、静寂を求める妖怪にとって、異例の感情だった。
のり子の温もりが、冷たい自分の体に染み込んでくる。
彼女の鼓動が、自分の存在を内側から揺さぶっている。
のり子はまだ何も言わない。
ただ、手を握ったまま、静かに目を伏せていた。
その沈黙は、言葉以上に雄弁に、彼女の想いを物語っていた。
妖怪は、握られた手を、そっと握り返した。
その夜、二人は一つの布団に、静かに寄り添った。
外では、満月が静かに森を照らしていた。




