第二章 朽ちゆく屋敷の蜜月
あの夜、森の奥で村の男たちから逃れたのり子は、息も絶え絶えに山桜の根元に倒れ込んだ。
体中が泥と血と恐怖にまみれ、細い肩が激しく震えていた。
妖怪は、その騒々しい気配に苛立ちを抑えきれなかった。
男たちの叫び声、足音、荒い息遣い——すべてが彼の静寂を汚す不快なノイズだった。
少女を抱き上げ、妖怪は彼女を安全な場所まで運んだ。
しかし、彼女を地面にそっと下ろした瞬間、妖怪は無言で背を向け、立ち去ろうとした。
用は済んだ。もうこのうるさい人間に関わる必要はない。
そのとき、背後からか細い声がした。
「……行かないで」
妖怪の足が止まった。
のり子は泥にまみれたまま、必死に手を伸ばしていた。
震える声で、ほとんど聞き取れないほど小さく、しかし確かに言った。
「助けてくれて……ありがとう」
妖怪は無表情に振り返り、彼女を見下ろした。
恐怖に震え、傷だらけで、息も絶え絶えの人間。
普通なら一刻も早くこの場から離れたいはずの存在だ。
しかし、彼女の声は……不思議と「うるさく」なかった。
男たちの叫び声や怒号とは違い、静かで、湿った感情の奔流も、ほとんど感じさせない。
ただ、弱々しく、すがるような響きだけがあった。
妖怪はしばらく無言で彼女を見つめていた。
(……この人間は、うるさくない)
その考えが、彼の鏡のような内側に、微かな波紋を立てた。
静寂を乱さない人間を手元に置いておくのも、悪くないかもしれない——
そんな、妖怪にとって異例の判断が、静かに下された。
「俺と来い」
妖怪は短く、低く、そう言った。
のり子は驚いたように目を見開いたが、ゆっくりと頷いた。
妖怪は再び彼女を抱き上げた。
彼女の体は驚くほど軽く、冷たい彼の胸に寄りかかるように震えていた。
こうして、二人は森の最深部にある朽ち果てた古い屋敷へと向かった。
ここには、村の男たちが振りかざす「常識」という名のうるささは届かない。
のり子は、世間が求めるすべての役割を捨て、ただ静寂の中に身を置いた。
最初のうち、のり子はほとんど言葉を発さなかった。
長い間追われ、傷つけられてきた心は、まだ警戒を解いていなかった。
彼女は屋敷の隅に小さく縮こまり、膝を抱えて窓の外を見つめていることが多かった。
しかし日が経つにつれ、彼女は少しずつ言葉を零すようになった。
「ここ……静かだね」
ある朝、縁側で並んで座っているとき、彼女が初めてそう言った。
妖怪はただ頷いた。
その静けさが、彼にとって初めての「心地よい音」だった。
やがて彼女は笑うようになった。
最初は小さく、控えめな笑みだったが、
妖怪が彼女の好みそうな野いちごや山ぶどうを、遠くの谷まで探しに行って持って帰るようになると、
その笑みは少しずつ大きくなり、目尻に小さな皺を刻むようになった。
のり子の手は、いつも驚くほど温かかった。
縁側で並んで座っていると、彼女は時折彼の冷たい指に自分の指を絡めてきた。
「冷たくて……気持ち良いね」
彼女がそう言って微笑むたび、妖怪は胸の奥に小さな軋みを感じた。
自分には血液も心臓もないはずなのに、
その温もりが、鏡の表面を内側からゆっくりと押し広げていくような感覚があった。
夜、のり子が眠ったあと、妖怪は一人で屋敷の長い廊下を歩いた。
月光が床に長く影を落とす中、彼は自分の手を見つめた。
まだ冷たいままの指。
しかし、のり子の言葉を思い出すたび、指先がほんのわずかに疼くような気がした。
これは、何か。
妖怪にはまだ、名付ける言葉がなかった。
ただ、のり子の存在が、自分の鏡面に微かな波紋を立て続けていることだけを、
静かに、しかし確かに感じていた。




