第一章 澱みの森と、反射する影
村に追われ死にかけていた少女・のり子を救ったのは、冷たい桜の妖怪だった。
二人は朽ちた屋敷で静かな蜜月を過ごすが、妖怪の傍らにいるだけでのり子の体は黒い斑に侵されていく。
「私の魂も、連れて行ってください」
愛する者が互いを蝕む運命の中で、妖怪は究極の選択を迫られる――
切なく純粋な、異形と人間の恋物語。
その村は、世界の端から零れ落ちたような、ひどく排他的な沈黙の底に沈んでいた。
四方を険しい山々が囲み、谷底には常に低い霧が蛇のように這いずり回っている。
太陽の光さえ十分に届かず、村人たちの顔は代々受け継がれた停滞と閉鎖性によって湿った濁りを帯びていた。
彼らにとっての「正しさ」とは、村という小さな循環を乱さないことだった。
他者を拒絶し、異なるものを排除することこそが、彼らの掟であり、誇りでもあった。
村の外から来た者、掟に逆らう者は、冷たい無視か、時には残酷な制裁によって消されていった。
村の外れ、鬱蒼と茂る「不帰の森」のさらに奥。
そこは幾千年もの沈黙が積もり積もった、凍てつくような聖域だった。
木々は互いに距離を置き、影を恐れるように生え、地面は厚い苔と腐葉土に覆われている。
その森の心臓部、周囲のすべての木が畏怖に打たれて枝を垂らす場所に、一本の巨大な山桜が天を突くように立っていた。
その桜だけは、異様に透き通った冷気をまとい、周囲の腐敗した空気を拒絶していた。
樹皮の深い裂け目から染み出す樹脂は、長い歳月をかけて琥珀のように固まり、不気味な鈍い光を放っている。
ここだけは、時間がゆっくりと、しかし確実に止まっているように感じられた。
妖怪は、その桜と一体となって、ただ「在る」だけの存在だった。
彼には心というものがなかった。
あるのは、鏡のような透過性だけ。
世界のすべてを映し出すが、何一つとして感じない。
雨が体を打ってもただの物理的な衝撃、風が枝を揺らしてもただの空気の動き。
喜びも悲しみも愛も憎しみも——そういった「うるさい」感情は、彼の領域には存在しなかった。
人間という生き物は、彼にとって最も不快な存在だった。
彼らの発する声、足音、息遣い、そして何より、内側で絶えず渦巻く湿った感情の奔流が、空気を震わせ、彼の静寂を汚す。
鏡のような彼の表面に、泥を塗りたくられるような、不快極まりないノイズだった。
その日、その静寂を切り裂いたのは、必死の逃げ足と、獣のような男たちの咆哮だった。
「逃げても無駄だ! お前の居場所など、この村のどこにもねえんだよ!」
泥にまみれた一人の少女が、息を切らしながら山桜の根元へと這い寄ってきた。
彼女の着物は引き裂かれ、細い腕には血が滲んでいた。
追う男たちは鎌や鉈を握りしめ、独りよがりな正義感に燃えていた。
妖怪は、その騒乱をただ「反射」していた。
しかし、少女が桜の幹に額を預け、荒い息を整えるその「静かさ」が、彼の鏡面に初めて微かな亀裂を走らせた。
男たちが少女の肩に手を伸ばした瞬間、妖怪の内側で不快感が爆発した。
「……うるさい」
森全体が震え、木々が悲鳴を上げたような拒絶の波動が広がった。
男たちは恐怖に顔を歪め、悲鳴を上げて逃げ去った。
少女はゆっくりと顔を上げた。
泥と恐怖に濡れた瞳が、闇の芯をまっすぐに射抜いた。
その視線は、妖怪の空虚な内部に、逃れようのない熱を突き刺した。




