第8話 「どの、はこ?」
回廊の席で果物の乗ったお菓子を食べ終え、元の部屋へ戻ってきたときだった。
オティリエの背中側に回った公爵家の付き添いの女性が、彼女の頭を見て、小さく息を呑んだ。
「まあ……お嬢様、髪飾りがございません。どこかで落とされましたか?」
その声に、部屋の中の空気がぴりりと引き締まった。
本日のお茶会のために特別に贈られたという、高価な銀と青い石の髪飾りだ。母と乳母も足を止め、部屋の床や長椅子の周りを見回し始めた。
オティリエは驚いたように目を丸くし、それからすぐに、付き添いの女性を見上げてはっきりと言った。
「おとしていません。あの、はこに、しまいました」
彼女は最初から、隠さずにそう説明した。
付き添いの女性は「箱でございますね!」とうなずき、すぐに部屋の隅の棚――お茶会の最初に、髪飾りを入れてきた飾り箱を置いた場所へと早足で向かった。大人にとって、あの高価な髪飾りをしまう「箱」といえば、当然その専用の宝石箱のことだったからだ。
ところが、飾り箱の蓋を開けた女性の手が止まった。
「……ございません。この箱の中は、空でございます」
「え……?」
オティリエが困惑したように眉を下げる。もう一度何か言おうと口を開きかけたが、その前に、付き添いの女性が険しい顔で室内を見渡した。
「おかしいですね。先ほどは確かにお召しになっていました。皆様がお部屋を移る頃、こちらを片付けていたのは……」
視線が、部屋の隅で控えめに立っていた若い侍女へと向いた。さっき、絨毯の上を片付けに入ったばかりの新しい侍女だ。
侍女は顔を青くして、慌てて首を横に振った。
「わ、私は、絨毯の上のおもちゃを端へ寄せて、小箱を棚へお移ししただけでございます! お飾りには触れておりません……!」
声が震えている。付き添いの女性が「では、念のため……」と言いかけ、オティリエのほうへ向き直った。
オティリエは侍女と付き添いを交互に見て、「はこに、いれたのに」とつぶやいた。私は母の手を離して、彼女の隣へ行った。
手を拭いてもらって戻ったとき、彼女は宝物の箱を閉じていた。あの時、何をしまっていたのだろう。
検事だった頃、相手の話を聞き終えてから、よく確かめたことがある。「あの人に渡した」「いつもの場所に置いた」。その人は誰で、その場所はどこなのか。相手には当たり前でも、私が同じものを思い浮かべているとは限らない。確かめずに聞き取ったつもりになれば、本人の言葉に、こちらの思い込みを混ぜてしまう。
オティリエが言ったのは「箱にしまった」だ。部屋の隅の飾り箱に入れた、とはまだ聞いていない。
どの箱のことなのか、本人に聞いてみよう。
私はオティリエの手にそっと触れ、その顔を見た。
「オティリエ。……どの、はこ?」
私の短い問いに、室内の大人たちの言葉がぴたりと止まった。
オティリエは瞬きをして私を見つめ、それから、部屋の隅の飾り箱ではなく、窓辺の低い棚を指さした。さっき若い侍女が、絨毯の上から移していた箱のある場所だ。
「あっちです。わたしの、お花のついた、たからものの、はこです」
母と乳母が、はっとしたように顔を見合わせた。
「宝物の箱……。さっき、お人形のお洋服を出していた、あの木の箱のこと?」
「はい。あの、はんかちに、つつんで、あの中に、いれました」
オティリエが自分の言葉で場所を説明するのを聞いて、母がすぐに公爵家の付き添いへ目配せをした。大人の足で窓辺の棚へ歩み寄り、母と付き添いの二人で、小花の模様が描かれた木の箱を卓の上へと運んでくる。
「オティリエさん、開けてみてもいいかしら?」
「はい」
付き添いの女性が、そっと木の蓋を開けた。
一番上に、綺麗に折りたたまれた白いハンカチが乗っている。それを優しく広げると、中から、銀と青い石の髪飾りが、傷ひとつない姿で現れた。
「……ありました! 本当に、こちらに……」
室内に、深い安堵のため息が広がった。
付き添いの女性は髪飾りを確認すると、すぐに顔を上げ、部屋の隅で固まっていた若い侍女の前へと歩み寄った。そして、背筋を正して深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。お嬢様が『箱にしまった』とおっしゃったのを、私が勝手に飾り箱のことと思い込み、あなたに疑いの目を向けてしまいました。すべて私の早合点でございます」
母もそばへ行き、穏やかだがはっきりとした声で言った。
「髪飾りは、最初から別のお箱にしまわれていたのですね。あなたに落ち度はありません」
母は扉のそばに控えていた侍女にも来てもらい、髪飾りが見つかった場所と、片付けをした侍女に落ち度がなかったことを伝えた。公爵家の付き添いも「私が確認せずに疑ってしまいました」と重ねて言った。若い侍女は息を吐き、ようやく肩を下ろした。乳母が差し出したハンカチを受け取る手は、まだ少し震えていた。
それから、付き添いの女性はオティリエの前へ戻り、膝をついて尋ねた。
「お嬢様、どうしてこちらのお箱へしまわれたのですか? もしや、どこか具合でも……」
オティリエは自分の右耳の上へ手を当てた。今度は言葉を急かす人はいなかった。
「あの……ちょっとだけ、かみが、ひっぱられて、いたかったんです。でも、たいせつな、いただきものだから、きずがつかないように、はんかちに、つつみました」
それを聞いた付き添いの女性は、もう一度はっと息を呑んだ。
「痛かったのですね。先ほどは、最後までお話を聞かずに申し訳ございませんでした。大切な贈り物でも、痛いのを我慢して着け続けることはございませんよ」
付き添いの女性は髪飾りを裏返し、留め具を確かめた。
「どこが引っ張られたのか、お家で一緒に見て、直してもらいましょう」
「……いいのですか?」
「もちろんでございます。今日はほかのもので髪を留めましょうか」
オティリエの肩から、すっと力が抜けたのが分かった。
髪飾りを外したところから、柔らかな髪の一房が頬にかかっていた。
私は卓の上の「宝物の箱」の中を覗き込んだ。そこには、人形の服の横に、彼女がお気に入りとして入れていた水色の柔らかいリボンが見えていた。
私はそのリボンを指さして、彼女に尋ねた。
「オティリエ。きょうは、りぼんにする?」
オティリエは箱の中のリボンを見て、それから私の顔を見て、ぱっと頬を明るくした。
「……はい。この、みずいろのに、したいです」
付き添いの女性が微笑んでそのリボンを取り出し、痛くないようにふんわりと彼女の髪を結い直してくれた。
水色のリボンが揺れると、オティリエは自分の頭をそっと触り、「いたく、ないです」と嬉しそうに笑った。




