第6話 殿下も、おて
その日の午後、母のお客様が、一匹の犬を連れて王宮へいらした。
薄い麦わら色の長い毛と、ふさふさした尻尾を持つ犬だった。お客様の椅子の脇に伏せていたところへ、私は母と一緒に、庭へ続く回廊から出てきたのだ。
「アシェル、ご挨拶してみる?」
「うん。こんにちは」
まずお客様に頭を下げてから、私は犬のほうを向いた。
前世でも犬を見たことくらい、何度もある。けれど、今の高さから近づくと、ずいぶん大きい。
伏せていた犬が顔を上げただけで、黒く艶のある鼻が、こちらへぐっと近くなった。鼻の下には白いひげがあり、息をするたび、湿った音がかすかに聞こえる。
私は一歩進もうとして、半歩だけ母のほうへ戻った。
気がつくと、指に母のスカートを握り込んでいた。
「ここから見ていてもいいのよ」
母は立ち止まり、私の隣へしゃがんでくれた。
犬は追いかけてこなかった。お客様の手元から伸びた引き綱をゆるく垂らしたまま、鼻をひくひく動かしている。
その鼻先に、小さな草のかけらがついていた。
「あの。おはなに、くさ」
私が指さすと、犬がくしゃみをした。
ふしゅん。
草が飛んだ。
思っていたよりずっと小さなくしゃみで、私はつい笑ってしまった。犬は何事もなかった顔で、自分の前足を舐め始める。
「……さわっても、いい?」
「ええ。お母様と一緒に、ゆっくりね」
お客様が声をかけると、犬はこちらを見た。私は母のそばにしゃがみ、その肩のあたりへ、そっと手を置いた。
指が、毛の中へ埋まった。
外から見るよりずっと厚い。表面はさらさらしているのに、その奥はふわりと温かくて、手を動かすと毛並みがゆっくり倒れていく。
もう少し撫でようとすると、自分の袖口が毛に引っ掛かった。
「おててが、なくなってしまいましたね」
乳母が後ろから覗き込んで言った。
「ある。ここに、あるよ」
私は急いで手を持ち上げた。
麦わら色の毛の間から、短い指が五本、ひょこりと現れる。
犬の尻尾が、ぱたん、と地面を叩いた。
もう一度手を置くと、また、ぱたん。
私がそっと手を止めると、尻尾も止まる。
私は犬の顔と尻尾を見比べた。それから、肩をもう一度撫でてみた。
ぱた、ぱた、ぱた。
「……もっと?」
犬は返事の代わりに、私の手へ鼻を寄せた。
冷たくて湿ったものが指に触れ、私は肩をすくめる。それでも、今度は母のスカートをつかまずに済んだ。
「この子、お手もできるのですよ」
お客様が言った。
それなら知っている。人が手を出すと、犬がそこへ前足を乗せるのだ。
「ぼくも、できる?」
「ええ。手のひらを上にして、ここへ乗せてねって、教えてあげるの」
母は自分の手を裏返し、私に見せてから膝へ戻した。
「うん。ぼくが、て、だすね」
乳母が、ずり下がった私の袖を少し折ってくれた。母は私の肘の下を軽く支える。
私は犬の前に、手のひらを上にして差し出した。
「おて」
犬は私を見た。
それから、私の小さな手を見た。
鼻先で、つん、と押された。
「それは、おはな」
犬の尻尾が揺れる。
私は笑いそうになるのをこらえ、もう少しだけ手を低くした。
「おて。……ここ」
犬が前足を上げた。
今度こそ、私の手のひらへ、ぽすんと乗る。
思わず反対の手も添えた。前足ひとつで、両手がふさがってしまった。
肉球は、さっき触った鼻と違って、乾いて少しざらざらしていた。私の手より幅があり、指の先にはみ出している。
「できた」
「ええ、できましたね」
私は少しだけ背筋を伸ばした。犬も背筋を伸ばしていて、顔を上げると、すぐそこに鼻がある。こんなに近くで犬と握手をするのは、なかなか忙しい。
手元を見ると顔が近づき、顔を見ると前足を支えた手が下がってしまう。母が肘を支え直してくれて、私はようやく犬へ笑いかけた。
「ありがとう。もう、いいよ」
犬が前足を下ろしたので、私は空いた両手を膝へ戻した。
その手へ、ふさふさの尻尾が、さわりと触れた。犬は私たちの横をゆっくり回り、母の隣へ、どすんと腰を下ろした。続いて私も、母のすぐそばへ座り直す。
母の左には犬が、右には私が並んだ。
そのまま背中を撫でてもらっていると、向こう側で犬も、母の手に首を預けていた。
「さて。手を拭いて、お茶にしましょうか」
母が乳母から濡れた布を受け取り、空いているほうの手を私へ差し出した。
「はい、アシェルも。おてて」
「うん」
私はいつものように、母の手のひらへ自分の手をぽんと載せた。
散歩へ行くときも、段差を下りるときも、そうして差し出された手に、私は自分の手を預けてきた。
載せてから、私は母の手と、犬の前足を見比べた。
犬も私たちの手元を見ていた。母の前へ少し回り込み、すっと前足を上げる。
私の手の甲へ、さっき両手で支えた肉球が、ぽすんと重なった。
「……あれ?」
ついさっきまで、手を出して待っていたのは私だったはずだ。
「まあ」
母の声が揺れた。乳母が口元へ手を当て、お客様の扇が少しだけ持ち上がる。
「……ぼく、さっき、おしえたのに」
「ええ。お二人とも、お上手ですよ」
犬は誇らしそうに胸を張った。私は手を預けただけで、犬と一緒に褒められてしまった。
犬が前足を下ろすと、母はそのまま私の指を包み、布で一本ずつ拭いてくれた。
「……おてては、もう、しないよ」
「分かっているわ。もう片方の手も、拭かせてね」
私は反対の手も差し出した。今度は犬の顔を確かめてからにした。
手を拭いてもらい、私は庭の長椅子へ移った。犬もついてきて、足元に丸くなる。
長椅子の縁から下ろした私の靴は、地面へ少し届かない。つま先を揺らすと、その下で犬の耳がぴくりと動いた。私は足を止め、犬もまた静かになる。
お客様と母の話し声を聞きながら、私は犬の背中へ、そっと手を伸ばした。
さっきよりも、長く撫でられた。
犬が顔を上げ、手の下へ頭を入れてくる。私は袖をまくり直して、もう一度、その額を撫でた。
すると、湿った鼻先が、こちらの頬へ近づいてきた。
「ひゃ。……まって、くすぐったい」
首をすくめると、鼻が耳の下へ当たる。
私はとうとう声を立てて笑い、両手で犬の顔をそっと押し戻した。
その片方の手のひらへ、犬がまた前足を載せてきた。




