第2話 小さな手を差し出してくれたのは
翌日の午後、私は控えの間で、口の中だけで挨拶を繰り返していた。
「ようこそ。……きてくれて、ありがとう」
頭の中では、もう少し落ち着いた歓迎の言葉も浮かんでいる。けれど、今の口で欲張ると、昨日みたいに途中で音が丸まってしまいそうだった。短くて、ちゃんと届く言葉にしたほうがいい。
私は胸元の白い鳥の刺繍に目を落とし、飾り襟を自分の手で引っ張った。きちんとして見せたかったのに、力を入れすぎて襟が片方へずれてしまう。
「まあ、殿下。少し曲がってしまいましたね。直しますから、少しだけじっとしていてくださいね」
膝をついた乳母が、私の首元に指を添えて、ずれた襟を優しく整えてくれた。
「……うん。ありがと」
「はい、よくお似合いですよ。お靴も痛くありませんか?」
足元を見下ろして、私はうなずいた。いつもより少しだけ改まった服だけれど、歩きにくくはない。
そばで見ていた母が、やわらかく微笑んで手を差し出した。
「アシェル、そろそろ時間よ。お迎えに行きましょうか」
母の手を握り、自分の足で並んで歩く。お茶会の部屋へ向かう短い廊下でも、母は私の小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと進んでくれた。
明るい窓のある部屋へ入ると、低い卓と、子どもが座りやすい高さの椅子が用意されていた。ほどなくして扉が叩かれ、侍従の案内で、公爵家の大人に伴われた一人の少女が入ってきた。
私と背丈の変わらない、幼い女の子だった。
おめかしをした服の裾を両手でそっと押さえ、背筋をぴんと伸ばして立っている。母が穏やかな声で、公爵家のお嬢さん、オティリエを紹介してくれた。
私は少女の顔を見つめた。
まだ頬は丸く幼いけれど、目元の形や、きゅっと結んだ唇には見覚えがあった。偶然読んだあの一冊の挿絵で、冷たい顔をして立っていた公爵令嬢の面影だ。原作でも、王子と彼女が初めて顔を合わせたのは、こうした幼い日のお茶会だったと書かれていた。
この子が、あの令嬢なのだろう。物語では、私と同じ顔の王子に断罪されていた。けれど、目の前の彼女は、まだ私と背丈も変わらない。
あの場面を思い出すと、胸の奥が落ち着かなくなった。けれど、今の彼女が何を考えているのか、私はまだ何も知らない。まずは、挨拶をしてみよう。
そう思って、母の手を離し、一歩前へ出ようとしたときだった。
少女と、まっすぐに目が合った。
途端に、練習していたはずの言葉が喉の奥でつっかえた。検事として大人の前に立つことには慣れていたはずなのに、目の前の小さな女の子にどう声をかければいいのか、急に足が止まってしまう。
黙り込んでしまった私を見て、母や付き添いの大人が静かに見守ってくれているのが分かった。何か言わなければと思うほど、指先にばかり力が入る。
そのとき、少女のスカートが小さく揺れた。
彼女が、私の前まで三歩ほど歩み寄ってきたのだ。そして、自分の胸の前で揃えていた手をほどき、小さな右手を、私のほうへすっと差し出した。
「……あっちへ、ごいっしょに」
鈴を転がすような、けれど消え入りそうなほど小さな声だった。
差し出された手のひらを見て、私は目を瞬かせた。
私は自分の手を持ち上げ、その小さな手にそっと重ねた。
触れた瞬間、かすかな震えが伝わってきた。
驚いて顔を上げると、彼女は私の返事を待っていた。伸ばした腕はそのままなのに、空いているほうの手が、服の裾をぎゅっとつまんでいる。
私は、重ねた手をそっと握り返した。
「……ありがとう」
少女は私の顔を見て、それから背後の大人たちへちらりと目を向けた。
「ごあいさつ、へんでしたか?」
「へん?」
「おうちで、れんしゅう、したのに」
声がだんだん小さくなる。私は首を横に振った。
「ぼく、さっき、こえが、でなかった」
握った手が、少しだけ動いた。
「おこって、いらしたのかと」
「ちがう。きんちょう、してた」
彼女は私の胸元の刺繍と顔を、交互に見た。
「でんかも?」
「うん。さいしょのことば、わすれた」
私が言葉に詰まっただけで、彼女は自分の挨拶が悪かったのだと思っていたらしい。握っている手に目を落とす。私を誘ってくれたときも、こんなふうに心配していたのだろうか。
「きてくれて、うれしい。……それを、いうつもりだった」
彼女が、服の裾から指を離した。
「わたしも、おあいできて、うれしいです」
その返事を聞いて、私も少し笑えた。彼女はどんなものが好きなのだろう。うまく挨拶をすることばかり考えていたけれど、もう少し、この子と話してみたくなった。
「おぼえてきたのは、もっと、ながいんですけれど」
「ぼくも」
私はうなずいた。長いほうは、今も頭の中にある。口から出せる形になってくれるまで、もう少しかかりそうだ。
そばの母が椅子のほうへ目を向けたので、私はまず彼女に尋ねた。
「どっちに、すわりたい?」
彼女は窓に近い二つの椅子を見た。
「あちら。おにわが、みえます」
「じゃあ、となりでも、いい?」
「はい」
彼女が空いている手で自分の隣を示した。私はようやく、母に握ってもらっていたほうの手も、すっかり開いていることに気づいた。
握った手から、少しずつ震えが引いていく。私たちは手をつないだまま、どちらからともなく歩幅を合わせて、窓辺の低い椅子へと歩き出した。




