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第1話 夢から覚めた三歳の王子と、鏡の中の断罪役

 夢を見ていた。


 夜遅く、仕事を終えて庁舎を出る。冷たい風に首をすくめ、駅へ向かおうとした。


 背中に、焼けるような衝撃が走った。


 振り返った視界の端で、刃物が街灯を反射した。男の顔には見覚えがある。かつて私が担当し、有罪判決の出た事件の関係者だった。


 足から力が抜け、冷たい舗道が頬に触れた。誰かを呼ぼうと口を開いても、声が出なかった。


 次に気づいたとき、私は窓口の前に立っていた。書類棚と長机が並び、壁には『受付』の札。背中の痛みは消えていた。


 机の向こうには、とんがり帽子と星模様のローブを身につけた人物がいた。長い袖は、黒い事務用の腕抜きでしっかり留めてある。


「あの……ここは、どこですか?」


「亡くなられた方に、次の人生をご案内する窓口です。担当のツクヨと申します」


「次の人生……。私は、死んだんですか?」


「はい。あなたには、別の世界に生まれ直していただくことになりました。異世界転生、というものですね」


「異世界転生……あれですか。小説とか、漫画とか、アニメとかの?」


「ええ、話が早くて助かります。ただいま、そのお手続きのご案内をしております」


 以前、作家同士のトラブルが刃傷沙汰になった事件を担当した。関係者の話を理解するために調べた用語の中に、『異世界転生』もあった。


 ただ、偶然読んだライトノベルが、一冊だけある。最初はくだらないと思っていたのに、読み進めると意外に面白く、結局、最後まで読んでしまった。今も妙に記憶に残っている。


 言葉の意味は分かった。窓口で案内されるとは、思わなかった。


 ツクヨは私へ向き直った。


「上層部の方々が、あなたの働きをよく思っていらっしゃいまして。次の人生について、特別にご案内するようにとのことです」


 私は説明が終わるのを待って、口を開いた。


「ありがとうございます。ただ、私が救えた人ばかりではありません。証拠が足りずに見送った案件も、言葉が届かなかった相手もいます」


「ええ。それでも、被害者にも、無実を疑われた人にも、罪を犯した人にも人生があると忘れず、話を聞こうとした。その姿勢を、上層部は評価されたそうです」


 求刑の軽重や、起訴の件数の話は出なかった。求刑は重ければよい、というものでもない。私は手をほどき、小さく頭を下げた。


「行き先は上で決まっております。あなたが一度読まれた、あの物語の世界です」


「異世界転生なら……特殊能力も、もらえるんですか?」


「いえ、チートは、予算の都合で……」


 ツクヨは、とんがり帽子のつばをそっと直した。


「予算、ですか」


「でも、生まれは恵まれていますよ。王家の男の子です」


 あの一冊の世界。しかも、王家の男の子。


「私が、男の子ですか?」


 女性として生き、女性検事として働いてきた自分が王子になるというのは、すぐには想像がつかない。けれど、不快ではなかった。物語の挿絵で見た、あの少し窮屈そうで華やかな王族の礼服に袖を通す自分を思い浮かべると、戸惑いの奥から小さな好奇心が顔を出した。


「今度は、ご自身の時間も大切になさってくださいね。では、行ってらっしゃい」


 窓口の机も、とんがり帽子も、白く滲んで見えなくなった。


 目が覚めた。


 見慣れた天蓋と、朝のやわらかな日差しが目に入る。


 そうだ。私は、検事だった。


 女として生きて、あの夜、庁舎の前で命を落とした。


 ツクヨと会ったのは、この身体に生まれる前だ。三年経った今になって、その記憶が戻ってきた。


 この部屋で眠り、笑い、抱き上げられてきた三年間も、私自身の記憶としてつながっている。


 状況を整理しようと、私はいつもの癖で勢いよく上体を起こそうとした。


 ところが、小さな身体は思うように動かず、柔らかい掛け布団に足を取られて、ぽすんと寝台の上へ転がり戻ってしまった。


「あ、れ……?」


 口から出たのは、高くて幼い、自分の声だ。目の前に持ち上げた両手は、丸みを帯びて小さく、まだ指の節も目立たない。三年間毎日見てきたはずの自分の手と身体が、女性だった前世の記憶を取り戻した途端、ひどく新鮮なものに思えた。


「まあ、殿下。もうお目覚めですか? 今、お布団を直しますね」


 聞き慣れた優しい声とともに、乳母が歩み寄ってきた。そのまま脇の下に手を入れて、ひょいと私を抱き上げる。少し高くなる視線も、エプロンから漂う清潔な石鹸の香りも、私がずっと安心してきた日々のままだ。


 考えるより先に、小さな両手が乳母の服をつかんだ。もう少し自分で状況を確かめるつもりが、身体はすっかり、いつもの抱っこの場所に収まっている。


「おはよう、ごじゃ……。……おはよう」


 丁寧に挨拶するつもりだったのに、舌が先に音を丸めてしまう。もう一度言おうとして唇を尖らせた私に、乳母は目を細めた。


「はい、おはようございます。急がなくて大丈夫ですよ。さあ、朝の支度をいたしましょう」


 寝台から降ろされ、朝の着替えが始まる。今の私には前世の知識があるが、三歳の指先では細かなボタン一つ留めるのも一苦労だ。それでも、全部を任せてしまう前に確かめておきたくて、私は自分の上着の裾をぎゅっと握った。


「じぶんで、やる。……ボタン、ここだけ」


「まあ、頼もしいこと。では一番下をお願いできますか? お袖を通すところは、お手伝いいたしますね」


 乳母は私の言葉を笑わず、袖に手を通しやすいよう布地を支えてくれた。少し時間をかけて私がボタンを一つ留めると、残りの細かな留め具と襟元は、乳母が素早く綺麗に整えてくれる。


 上着の胸には、鍵をくわえた白い鳥が刺繍されていた。その上に三つの星。いつも着ている服の、いつもの印だ。


 支度が済むと、私はふと、朝の食事の前に母の顔を見たいと思った。夢と記憶の奔流で少しだけざわついている胸を、一番安心できる場所で落ち着かせたかったのだ。


「ははうえの、とこ、いく」


「ええ、ちょうどお待ちですよ。廊下は冷えますから、扉の前まで抱っこで参りましょう」


 再び抱き上げられ、隣の控えの間へ移動する。扉が開くと、朝の光が差す窓辺で、母が微笑んで手を広げた。


「おはよう。今日も早起きね」


 床に降ろされた私は、駆け寄って母の膝にぎゅっとしがみついた。


 母は何かを尋ねるでもなく、私の背中にそっと手を回し、柔らかい髪を何度も撫でてくれる。


 前世のことを説明しようと開きかけた口を閉じ、私は母の服をつかみ直した。


「さあ、温かいスープが冷めないうちに、席につきましょうか」


 母に手を引かれて歩き出したとき、壁際に置かれた姿見が視界に入った。


 私は足を止め、鏡の中を覗き込んだ。


 そこに映っているのは、少し眠たげな、いつもの三歳の私だ。胸元の白い鳥が、鏡の中でも鍵をくわえていた。


 その上に、三つの星。


 偶然読んだ、あの一冊の表紙だ。そこに描かれた王子の胸にも、鍵をくわえた鳥と三つの星が刺繍されていた。


 私は目尻に指を当てた。小さなほくろが、指の腹に隠れる。挿絵でも必ず描かれていた、あの王子と同じ場所だ。


 ツクヨは、あの一冊の世界だと言った。王家の男の子に生まれるとも。


 つまり私は、あの王子――将来、公爵令嬢に婚約破棄を突きつけ、大勢の前で彼女を断罪する、その本人なのだ。


 思わず息を呑んだ私の脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。


 あの本で「悪役令嬢」と呼ばれ、すべてを失って追放された少女。彼女が何を恐れ、何を望んでいたのか。誰も最後まで話を聞かずに断罪してしまったことが、妙に引っ掛かっていた。


 告発した人は、その場を見たのだろうか。彼女が説明しかけた言葉の続きは、何だったのか。本を閉じてからも、それが気になっていた。


 その彼女を追い詰める張本人が、この私だというのか。


 鏡の中の小さな自分の顔を、もう一度じっと見つめる。今の私はまだ三歳で、難しい制度を動かすことも、今すぐ王宮の外へ駆け出すこともできない。


 けれど、物語の結末はまだ遠い未来の話だ。今からなら、決めつけずに彼女の話を聞き、本当のことを確かめる時間が十分にある。


 まずは、彼女に会いたい。物語の記述ではなく、この目で彼女を見て、その声を直接聞いてみたい。


 小さな拳をぎゅっと握りしめた、その時だった。


 ぐう、と間の抜けた音が、静かな部屋に響いた。私のお腹からだ。


「ふふ、ずいぶん真剣なお顔で鏡を見ていると思ったら、お腹が空いていたのね」


 母がくすりと笑い、私の手を取って食卓の椅子へと導く。乳母が笑顔で、温かな湯気の立つスープ皿を並べ始めた。


 私は少しだけ頬を染めながら、母に支えられて椅子に座った。足は、まだ床に届かない。


「そうそう、アシェル。明日は公爵家のお嬢さんが来てくださるのよ。お茶の時間にね」


 私は顔を上げた。


「……あした?」


「ええ。あなたにお会いするのを、楽しみにしていらっしゃるそうよ」


 原作でも、王子があの令嬢と初めて会ったのは、王宮のお茶会だった。そのお客様が彼女なのかは、会って確かめればいい。


 母がスープ皿を少し手前へ寄せてくれた。私はうなずき、スプーンを持ち直した。


「……いただきます」


 温かなスープを一口すくう。湯気の向こうで、母が明日のお茶会の話を続けていた。私はその声に耳を傾けた。


お読みくださり、ありがとうございます。

心に残った人物や場面があれば、感想で教えていただけるとうれしいです。

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