第12話 「お願い」と「命令」のあいだ
オティリエが王宮へ来ない日の午前中、私は控えの間の絨毯に、小さな積み木の道を作っていた。
今日の道は長い。椅子の脚を避け、卓の下を抜けて、最後は乳母の膝へ続いている。
「こちらが終点でございますか?」
「うん。だっこの、ところ」
乳母が笑って手を広げたので、私はひとまず終点まで行っておいた。道の出来具合を確かめるためだ。
隣の卓では、母が王宮の暮らしに使う品物の手入れについて、侍女たちの話を聞いていた。取り替える布、ほつれた敷物、直してもらう家具。私の知らないところで、毎日こういう相談があるらしい。
やがて、一人の職人が、私の小さな足台を抱えて入ってきた。今朝、脚の緩みに気づいた侍女が、使わないよう脇へよけてくれていたものだ。
「あ。それ、ぼくの」
「はい。殿下がお使いの足台でございます。直してお返しいたしますね」
足台を裏返すと、四本の脚の付け根が見えた。普段は見えない場所に、細い木の部品が幾つも組み合わさっている。
私は乳母の膝から降り、母のそばまで歩いていった。
「どうやって、なおすの? いま、みてもいい?」
職人が顔を上げた。
「それでしたら、先にこちらを仕上げて、お見せいたしましょう」
彼は足台を抱え直し、そばの侍女へ向き直った。
「洗濯場の作業台は、このあとに伺います」
侍女の手が、持っていた紙の端で止まった。
ほんの短い間だ。すぐにうなずきかけた彼女へ、母が声をかけた。
「作業台は、どうなっているの?」
「片側が傾くので、今日は布を少しずつ載せて使っております。先に直していただければ、午後の仕事が進めやすくなるかと」
「そう。アシェルは、直すところを見たかったのよね」
私はうなずいた。
「うん。ぼくの、さきじゃなくて、いいよ」
母は職人にも確かめ、先に洗濯場へ行ってもらうことにした。私の足台は、その仕事が済んでから、改めて持ってきてくれるという。
誰かが叱られたわけでもなく、声が荒くなったわけでもない。相談が一つ終わり、大人たちはまた、それぞれの仕事へ戻ろうとしていた。
けれど私は、抱えられていく足台を見ていた。
私はただ、直すところを見たいと言った。それだけで、先にするはずだった仕事が後ろへ回りかけた。
検事だった頃も、こちらが確認のつもりで口にした言葉を、相手が要求や叱責として受け取ることはあった。話す側のつもりだけで、言葉の重さは決まらない。
今の私は三歳で、足台がなければ椅子から足がぶら下がる。それでも、「王子の言葉」には、大人の仕事の順番を動かす重さがあるらしい。
私の身体より、ずっと大きなものがついて回っている。
「ははうえ。ぼくが、さきって、いったみたいに、なった?」
母は私の前にしゃがんだ。
「そう聞こえたのかもしれないわね。だから、お互いに確かめられるといいわ」
「みたい、だけでも?」
「ええ。でも、何もお願いしてはいけない、ということではないのよ。いつならできるか、一緒に相談すればいいの」
母が私の襟を直す。私は少し考えてから、侍女が書き付けている紙へ目を向けた。
「それ、なんて、かいてるの?」
「どの品を、いつ直していただくかでございます。それから、お仕事が終わったらお渡しする代金も、係に確かめてもらいます」
紙の上には、細かな文字が並んでいた。私はまだ、一人でこれを読み通すことができない。
そばへ来れば何とか見えるかと思い、つま先立ちになった。文字は近づいたが、読めるようにはならなかった。
距離の問題ではなかった。
母が椅子へ腰を下ろし、私を膝に抱き上げてくれた。紙に触れない位置から、文字の列を見せてくれる。
侍女は職人を呼び止めると、今話した順番と、直してほしい場所を読み上げた。職人も、緩んだ脚だけでなく板の継ぎ目も確かめたい、と一つ付け足す。
その言葉を書き加えてから、侍女はもう一度、短く読み返した。
「これで、よろしゅうございますか」
「はい。それでしたら、まず洗濯場から伺います」
職人が出ていくと、侍女は紙を片付け、別の係へ知らせに向かった。
さっきは、私の言葉を聞いて、決まっていた順番が動きかけた。今は、何を頼み、何を引き受けたのかを、両方で確かめている。
母の膝の上から見える、たった一枚の紙だ。けれど、約束したことが形になって残る、その働きは前世にも馴染みがあった。
何が決まったのか。誰が、どこまで引き受けたのか。あとから違う話になったとき、何を見て確かめられるのか。
事件の記録を読んでいたときは、そうした一つ前の約束まで戻って、人の話を聞くことも多かった。
もちろん、今日の王宮に事件が起きたわけではない。大人たちは、いつもの仕事を、いつもの手順で進めている。
私はその普段の手順を、今までほとんど見ていなかった。
この国には王家があり、貴族がいて、職人や侍女が働いている。同じことを言っても、立場によって受け取られ方が違う。
では、王宮の外で、困ったことのある人は誰に話すのだろう。相手のほうが偉い人だったら。紙に書いてあることが読めなかったら。頼める知り合いがいなかったら。
ここでは母が気づき、侍女が話し、職人にも確かめた。それが、どこでも同じようにできるのか、私はまだ知らない。
あの一冊の物語は、そんなことまで教えてくれなかった。
もし将来、国を指導する仕事に関われるなら。
法律家として身につけたことにも、使い道があるかもしれない。人の話と記録を照らし合わせ、思い込みをほどき、立場の弱い人の言葉が途中で消えていないか確かめる。約束や決まりが、人の暮らしの中で本当に働いているかを考える。
前世の法律の条文を、そのまま持ってくれば済む話ではない。この国の決まりも、皆がどう暮らしているのかも、まず教わらなければならない。
王子として生まれたことは、自由に命じていいというだけの話ではないのだろう。
「ははうえ。おくにの、おしごとって、いっぱい、ある?」
「ええ、たくさんあるわ。どうしたの?」
「ぼくも、おおきくなったら……そういうの、できるかな」
母はすぐに立派な役目を約束したりせず、私の顔を覗き込んだ。
「少しずつ知っていきましょう。今日は、足台を直すお仕事からね」
「……うん」
国のことを考えたところで、最初に見学するのは、自分の足を載せる台だった。
午後になって、職人が戻ってきた。
洗濯場の台はもう使えるようになったそうだ。私の足台は別の場所で直してくれていて、最後に高さと使い心地を確かめたいという。
母に支えてもらい、椅子へ座る。職人は私の靴の下へ足台を置いてから、少し離れた。
「お足は、楽に載りますでしょうか」
足をぴんと伸ばす。
「殿下。いつもお座りになるように、力を抜いていただけますか」
私は膝を曲げ直した。
今度は、嬉しくてつま先がぱたぱた動いた。
職人が待っている。乳母も待っている。
国のことを考える前に、足をじっとさせる必要があった。
「……これ、ちょうどいい」
「ようございました。では、お使いいただけますね」
私は足台の上に両方の靴をそろえた。少し動いてみても、もうかたかたしない。
「ありがとう。こんど、おしごと、みてもいい? いそがしくない、とき」
「はい。お母様たちと相談して、お見せできる日にいたしましょう」
その返事を聞いてから、私はうなずいた。
母が頭を撫でてくれる。私はもう一度、靴の底で台をそっと押した。
王子のお願いは、いつの間にか命令になることがある。
だからといって、何も言わずに座っていようとは思わない。自分の望みも話して、相手の都合も聞いてみる。
まずは、この小さな足台の上から始めよう。




