第10話 お水は、もうじゅうぶん
種をまいてから十日ほどが過ぎ、土のあちこちから、小さな緑色の芽が顔を出し始めた。
最初は丸まった背中を持ち上げるようにしていた芽が、日ごとに小さな葉を広げ、少しずつ背を伸ばしていく。私はオティリエが王宮へ来られない日も、午前の散歩のたびに乳母に手を引いてもらい、その区画へ立ち寄っていた。
「きょうも、おみず、あげる」
「まず、土の様子を庭師さんに聞いてみましょうね」
散歩のたびに立ち寄り、水が必要な日には、庭師や乳母に手伝ってもらってじょうろを持った。自分がまいた手前の列だけでなく、オティリエがまいた奥の列も一緒に世話をした。
そして、オティリエが再び王宮を訪ねてきた日の午後だ。
その日、私は昼食のあと、少し長めに昼寝をしてしまった。
実はオティリエは、私が目を覚ます少し前に王宮へ着いていたらしい。あとで付き添いから聞いたところでは、彼女は「でんかが、おきるまで、おまめを、みてもいいですか」と尋ね、付き添いと一緒に先に中庭へ出たという。
私の分まで世話をしておこうと、彼女も小さなじょうろを持った。水を注ぎ始めたところで、別の花壇から来た庭師が土の湿り具合に気づき、それくらいで十分だと止めてくれたそうだ。
そんなこととは知らない私は、昼寝から目を覚まして顔を洗ってもらうと、「オティリエと、おにわに、いく!」と張り切って中庭へ向かった。
ちょうど部屋のほうへ戻ろうとしていたオティリエと扉の前で鉢合わせし、「おまめ、みにいこう」と声をかけて、一緒に豆の区画へ戻った。
区画のそばには、小さなじょうろが置かれていた。オティリエがそれを庭師へ返すのを見て、私は足を止めた。
「今日はもう、お水は十分ですよ」
私はオティリエとじょうろを見比べた。
「オティリエも、おみず、あげてくれたの?」
すると、庭師が目を細めて、足元の黒く湿った土を指さした。
「殿下が朝、両方の列にお水をあげてくださいましたね。先ほど、お嬢様もお二人の分を世話しようとなさいましたが、土はもう十分湿っておりました。今日は、これ以上はあげずにおきましょう」
庭師は付き添いの大人にも目を向けた。
「私から、朝に済んでいることを先にお伝えすればよかったですね。次からは、じょうろを出す前に皆で確かめましょう」
私は今朝、水をやった二つの列へ目を向けた。
オティリエも、驚いたように口を小さく開けて私を見ている。
「ぼく、オティリエのぶんも、やったの」
「わたしも、でんかのぶんを」
私は彼女の分までと思って朝に水をやり、彼女も私の分まで世話をしようとしていた。私は湿った土へ目を落とした。
私たちはしばらく、顔を見合わせた。それから、どちらからともなく「ふふっ」と笑いがこぼれた。
「おまめ、おみず、のみすぎちゃったね」
「はい。おなか、たぷたぷですね」
笑ったあとで、私は少し考えた。
朝に水をやったことが、あとから来た人にも分かるようになっていれば、同じ仕事を重ねずに済む。
前世の庁舎なら、当番表や確認済みの札を掛けておくところだ。
「あのね、おみずをあげたら、しるしを、おくのは、どう?」
私が庭師を見上げて相談すると、庭師は作業用の籠から、手のひらに収まるくらいの平たい木の札と、園芸用の太い色チョークを取り出してくれた。
「それでしたら、こちらの木札をお使いになりますか? 表と裏に違う印を描いておきまして、お水をあげたあとは裏返す、という決まりにすれば、すぐにお分かりになりますよ」
「うん、それにする!」
私は意気込んで色チョークを受け取った。
頭の中では、水滴と太陽をくっきりと描き分けた、立派な札が思い浮かんでいた。読まなくても分かる絵なら、二人で使える。
ところが、木の板の上に三歳の指でチョークを走らせてみると、力の加減がうまくいかず、水滴のつもりの線がぐにゃりと横に曲がってしまった。丸く描こうとしたのに、なんだか端の欠けたお饅頭みたいな形になる。
「……あれ。ちょっと、まがっちゃった」
私が眉を下げて木の札を見つめていると、隣から覗き込んだオティリエが、その札を両手でそっと受け取った。
「これ、おみずの、しずくですか?」
「うん。ほんとは、もっと、まるくしたかったんだけど……」
「いいえ。なんだか、おまめの、かたちにもにていて、かわいいです。わたし、このしるしが、いいです」
オティリエは曲がったしずくの絵を指先でなぞり、反対側の面には、自分が黄色のチョークで、少し線の震えた丸いお日様の印を描いた。
描き終えたところで、そばの乳母が私を見て微笑んだ。
「殿下。お口も、少しお休みにしましょうか」
「おくち?」
ふう、と息を吐くと、唇のあたりが急に楽になった。線を曲げまいとして、口まで尖らせていたらしい。
「わたしも、なります。むずかしいのを、かくとき」
オティリエが唇をきゅっとすぼめてみせた。私もつい同じ顔をすると、彼女の肩が小さく揺れる。
二人で目を合わせた途端、もう口元には力を入れていられなくなった。
人の分まで水をやろうとして、曲がった絵にもいいところを見つける。自分も同じ顔になるのだと、私の失敗を笑い合えることに変えてくれる。気遣いのできる、優しい子だ。
それなのに、あの物語では、どうして彼女が人を傷つけたと責められ、皆の前で断罪されることになるのだろう。
もちろん、子どもの頃と、成長してからの性格が同じとは限らない。いま優しいからといって、将来のことまで決めつけることはできない。それでも、結末を知っているつもりで、目の前の彼女を分かった気になるのは違う。
相手にしているのは、事件ではなく、人間だ。
検事だった頃、記録を読み、人の話を聞くたびに忘れまいとしていたことだ。ここでも、「悪役令嬢」という役柄より先に、オティリエ本人を見ていたい。
そもそも、事件が起きてから、うまく解決できればいいというものでもない。誰かが傷つく事件も、大勢の前で人を追い詰める「断罪」も、できれば起きないほうがいい。
私だって、この世界で幸せに暮らしたい。こうして豆に水をやり、下手な絵を二人で笑っていられる日のほうが、ずっといい。
私はもう一度、二人で描いた札を見た。
庭師が、その木札を区画の端の低い杭に、くるりと裏返せるように掛けてくれた。
「きょうは、もうおみずをあげたから、しずくのほうだね」
庭師は札の向きを整え、私たちの前で一度裏返して見せた。
「しずくの時は、お水はもう足りています。お日様の時も、まず私に聞いてからにしてくださいね」
「つぎのひも、しずくのまま?」
「毎朝、私が土とお天気を見て、向きを直しておきます。雨で十分な日には、最初からしずくのほうにしておきましょう」
庭師がしずくの面へ戻すと、私たちは並んでうなずいた。
「はい。つぎに、きたときは、どっちかなって、すぐにわかりますね」
オティリエが木札を少し揺らすと、曲がったしずくが二人のほうを向いた。私は彼女のほうへ向き直り、今度は何を見に行こうかと彼女に尋ねた。




