時雨、あの人の手:明里
お待たせしました。
今度の番外編は明里です。
時間的には鳥羽伏見の戦いの直前です。
「君は本当にかわいらしいなあ。」
その人はそう言って目を細め、優しい目じりをさらに下げる。
そして必ずあたしの頬をいとおしそうになでる。
穏やかな顔に似合わずごつごつした手をしていた。
手のひらは剣だこがつぶれて硬くなっていてあたしの頬をなでるたびに「硬い手で申し訳ないね。痛くないかい?」と聞いてきた。
その人のそんな朴訥な優しさがくすぐったくて温かかった。
…
……
「明里姐はん」
禿の声にはっと驚き目を覚ます。
どうやら転寝をしてしまったらしい。
目が覚めたとき、そこにある静寂は夢の中との落差を感じさせて白々しい気分になる。
「明里姐はん、いつもの旦那はん来てますえ。」
「すぐに用意していくさかい、待ち。」
「へえ。」
大人びた調子で静かに来客を告げるその禿は露葉といった。
まだ切りそろえた前髪に幼さを感じさせる。
ちょうどひと月ほど前に女衒に連れられて島原の大門をくぐったらしい。
彼女は口減らしに合い、二束三文で実の親に女衒に売られたのだ。
その現実に心を閉ざすのか露葉は決して笑みを見せることはなかったが、そんな環境に少しの同情心も自分の中に生まれないことに少しばかり罪悪感が生まれる。
そんなことは珍しいことではないから。皆同じように苦界と呼ばれるこの世界に身を落とす。
生活のため、家族のため…そのためにひたすらに芸事にはげみ、男たちに束の間の夢を見せる。
大義名分を立てなければここではやっていけない。
腹の中でどんなことを考えていても、どんなに泣き崩れたいときでも、白粉の仮面に素顔を隠し、あでやかに舞い、琴や三味線を奏でる。
それは島原に生きる者の矜持だ。
あまり愛想がいいとは言えない露葉はおかみさんたちにも先輩の遊女たちからもあまりよく思われていないが、現実を受け入れずむくれ続ける露葉にひとかけらの同情心も生まれない。
その強情さはここで生きるには枷にしかなりえない。
島原を文字通り己にとっての花街にするのか、苦界にするのか…それは自分次第なのだから。
この露葉も早くそう悟るといいと思う。
*
「いつもの旦那はん」は自分の焦がれる人ではない。
なのに、部屋へ入るときその人の持つ空気に一瞬勘違いしてしまいそうになる。
そして声をかけてしまいそうになる。
「山南はん」と。
彼はもういないのに。
なのにまだその現実を受け入れることができないでいる。
露葉と同じだ。
思わず苦笑が浮かびそうになり、頬を引き締め、一瞬目を伏せる。
音も無くふすまを開けるとそこにはやっぱり見知った背中があった。
鈍色の羽織にもう紺の袴。
そして脇には彼と同じように武士の命が二本。
うちはいつも通り花の笑顔を浮かべて言う。
「えらい久しぶりですなあ。永倉せんせ。」
その男は振り向きその無精ひげに覆われたひげをかきながらふっと笑った。
「またあんたの顔が見たくなってなあ。」
「まあ、また調子のいいこと言って。島原にあとどのくらいその言葉を受け取る女子がおるんやろ?あちこちでええ噂聞いてますえ?」
ほんの少しだけ皮肉を垂らして流し目を送る。
「本気なのはあんただけさ。天神。」
「閻魔様に舌切られんように気いつけなはれ。」
永倉はんとは何もない。
ただひと月に一度か二度こうして話すだけ。
何も言わない。
あの人のことは。
何も聞かない。
あの時のことは。
その話題を出せばきっと壊れてしまうから。
それはまるで薄氷の上。
少しでも踏み出せば割れて壊れてしまうそんな関係。
「あんたの新しい禿、名前なんていうんだ?」
「へえ、露葉いうもんで、ひと月前にここに入ったばっかりどすが、なんや不始末でもしましたやろか?」
「いや、ただ似てるなと思っただけだ。」
「どなたさんに?」
「水瀬にさ。あの強情そうな瞳なんかそっくりだぜ。」
「ああ。」
おかしそうに笑う永倉はんに妙に納得する。
「水瀬」とは新選組に縁のある女子だ。
山南はんがいとおしそうに目を細めて語るものだから嫉妬した時もあったけれど、そういう存在ではなかった。女子でも剣をふるい、まっすぐに物をいい、そして人の気持ちにどこまでも寄り添える優しい人だった。山南はんの最期に立ちあわせてくれたことにはとても感謝していた。
彼女のまっすぐさは本当にうらやましいくらいに輝いていて、山南はんが、目を細めて語るわけがわかった気がした。
確かに露葉は強情だけれど、確かに凛とした水瀬さんの面影に重なるものがあった。
ただそれもこの島原ではいずれ朽ちてしまうものなのかもしれないけれど。
「…なあ、天神。」
「なんどす?」
「ここを…でねえか?」
またこの男のかるぐちだと思った。皮肉を混ぜていつもの笑みで流してしまおうとした。
でも…できなかった。
その瞳が真剣だったから。
そしてその瞳はいつか見た山南はんの顔に怖いくらいに似ていた。
「私は武士だから…」と語ったその眼に。
似ていた。
そして同時に悟った。
この男もまたこれから死地へとむかうのかもしれぬと。
ここ島原にも徳川の世の終わりはきこえた。
そして京が戦場になるかも知れないことも。
だから新選組も戦場に行くことが無学な自分にも容易に想像ができた。
身請けの提案には何も答えず、目の前にいる男の肩を抱きしめる。
そしてそれが当然のように唇を重ね、紅の布団の上に折り重なるように崩れ落ちた。
明かりを消せばそこには闇。
いつしか降り出した時雨が雨樋にあたる音と衣擦れの音がだけが重なる。
なんの言葉もいらぬ。
ただ今はそのぬくもりと互いの息遣いの中だけに身を置いていたい。
暗闇の中頬を撫でる手に思わず目を見張る。
まるで山南はんが愛おしんでくれているようで。
硬い手のひら。ところどころにある剣だこ。
ああ、一緒やないの。
この人も。
武士っちゅう阿呆でとんでもなく不器用な、いとおしい生き物なんやね。
永倉はんの手を握る。
永倉はんが握り返す。
この一瞬にうちは何の後ろめたさも、後悔もなかった。
そしてすべては闇溶けた。
*
まだ夜の名残が残る空気の中、永倉はんは帰って行った。
いつも通りの言葉を交わして。
いつも通りの笑顔を浮かべて。
うちは送り出した。
いつか水瀬はんに言ったことがある。
死にゆく男たちに女ができることはただ笑って送り出すことだけ。
いつまでも自分の笑顔だけを覚えておいてほしいから。
それだけしか女にできることはない、とそういった。
永倉はんは死ぬのかもしれない。
ただ漠然とそう思った。
だからあの人はお金をうちに渡そうとしたんやと思う。
けれど、永倉はんに身請けしてもらうことはないだろう。
答えなかったけれど、あの人はきっとそれに気づいている。
あの人の気持ちを、気遣いをうちが利用していることも。
永倉はんのことを山南はん以上に想うことはきっと生涯ない。
でも、それでも、あの人と体を重ねたのは、山南さんとは違う意味で大切に想っているからで、そのことに自分でも不思議なくらい穏やかで、優しい気持ちになっていた。
「明里姐はん、どおかしはりました?」
あまりにもぼんやりとそこにいたものだから、露葉が気遣わしげに言う。
黙って笑みを浮かべて首を横に振り、茶屋の奥へと踵を返した。
外は冬の冷たい雨はその日一日降りやむことはなかった。
なんかめっちゃ暗くなってしまいました。
しっとり大人の男女を描きたかったのですが何だかよくわからないですね。すみません。