第99話 堅守
戻ってきた一団の最後に、肩を貸されて歩く人がいた。
右の靴が、地面を引きずっている。
「こちらへ。足元に板があります」
ミナは段差を示した。
支えている男が頷き、もう一人と息を合わせて越える。
その後ろから入ってきた見回りが、班長へ声をかけた。
「北の作業小屋の二人です。奥の道が使えず、岸を回ってきました」
「帰着が分からなかった二人だな」
「はい。ほかに人は見ていません。ただ、倉の裏までは確認できていません」
班長が頷き、連絡係を呼んだ。
二人とも戻ったことを伝える。
確認していない場所についても、そのまま伝えた。
サフィナは負傷した男の前へ立ち、曲がる方向を示していた。
「あと少し。あそこの人に代わってもらえるから」
ミナは人数を数え終え、柵の外へ目を戻した。
人影は途切れた。
けれど、葦の揺れは止まらなかった。
「通ったか!」
「こちらは、通りました!」
ミナが答えると、兵が太い板を引いた。
ずらして置かれていた柵の間へ、横木が渡される。
その外では、槍を構えた二人が少しずつ下がっていた。
土を蹴る音が近づいた。
*
少し前、谷を守るザイードのところへ、町からの連絡が届いていた。
サハルの川岸で、避難を開始。
守備隊が対応中。
アルセリア王国の万象冠、グレンが遠隔で助言に加わっている。
ザイードは、最後の行を読み直した。
「……あの人が、見ているのか」
報告を渡した隊員が顔を上げた。
「お知り合いで?」
「直接、言葉を交わしたことはない」
ザイードは紙を畳んだ。
谷の向こうで、弓を放つ音がした。
「まだ小隊を預かったばかりのころ、あの人の遠征記録を手に入れた。よく読んだものだ」
敵をどれだけ倒したかだけではない。
荷をどう分け、誰を先に休ませ、どこで引き返すと決めたか。
帰路で負傷者が増えたとき、どの仕事を止めたか。
初めて部下を連れて長い行程へ出る前夜、同じ頁を何度も開いた。
書かれた通りにできる土地ばかりではなかった。
それでも、決める前に何を確かめるべきかは、今も覚えていた。
「なら、心強いですね」
「ああ。だから、こちらで見たものを渡す」
ザイードは、岩の上へ地図を広げた。
町へ向かう者へ託す紙に、確認した魔物の種類と数を書く。
まだ姿を見切れていない斜面は、範囲だけを囲んだ。
「ここは止めている。こちらは、追い返したものがいる。東の岩場は、まだ確かめられていない」
隊員が書き足す。
「グレン殿へも回してくれ。こちらが全部を押さえていると思わせるな」
言い終えたところで、谷の奥から低い唸りが響いた。
ザイードは長柄の鉈を取り、振り返った。
「南へ向く一頭を、先に止める。弓は右の斜面を見ていろ」
*
広場の外で、槍の柄が柵を叩いた。
先に下がってきた兵が板を越える。
もう一人が後ろへ足を引いたとき、低い獣が横から飛び出した。
「右!」
ミナが声を上げた。
兵は振り向かず、槍を体へ引き寄せて退いた。
獣が追う。
ハーシムが、閉じかけた隙間へ盾を差し入れた。
鈍い音がした。
盾の縁から爪が滑り、獣が後ろへ跳ねる。
「閉じろ!」
横木が収まった。
兵が杭へ縄を掛け、力いっぱい引いた。
ハーシムは盾を戻し、短く息を吐いた。
ミナは、柵の手前へ穂先を向けた。
先ほどと同じ、背の毛が硬い獣だった。
もう一頭が外側を走っている。
同時に、両方を見ようとすると目が泳いだ。
「ハーシムさん。右の一頭を見ます」
「頼む。柵を越えそうなら言え」
目と足へ、細く魔力を通した。
獣が止まるたび、自分まで息を止めそうになる。
ミナは意識して吐いた。
前脚が柵へ掛かった。
その隙間へ、槍を出す。
鼻先をかすめた穂先に、獣が顔を引いた。
深く追わず、柄を手元へ戻した。
倒せなくても、今は越えさせなければいい。
横から矢が飛んだ。
獣が柵を離れ、二度跳ねて地面へ伏せる。
ミナは射手へ目を向けかけたが、ハーシムの声で戻した。
「もう一頭、まだいる」
「はい」
返事をして、槍を構え直す。
後ろでサフィナが、人の通る道から落ちた袋をどかしていた。
*
王都の連絡室で、グレンは新しく届いた報告を読んでいた。
ザイード隊の確認した種類と、おおよその頭数。
押さえている谷。
追い返した方向。
未確認の岩場。
「ザイード隊長からだそうです」
書記が言った。
グレンは頷き、地図の上へ紙を重ねた。
「こちらが知りたいことを、先に揃えてくれたな」
「知っている男か」
バルドが尋ねた。
「実績なら。何度も集落の救援に出て、討伐だけでなく、住民を戻すところまで見届ける人だ。直接組むのは、初めてだが」
グレンは、未確認と記された岩場を見た。
強い者がいる場所だけを塗れば、紙の上はいくらでも安心できる。
この報告には、分かっていない場所が残されていた。
「任せる範囲を、こちらも間違えずに済む」
バルドが、町側の図へ視線を戻した。
「前の班が、柵の内へ戻ったそうだ。次は交代だな」
「ああ。谷の報告も合わせて送ろう。町に来たものが、全部ではない」
グレンは書記へ言葉を渡した。
その後、紙の端へ短く書き足した。
詳報に感謝する。町側の対応は進んでいる。
谷を預かる貴隊の判断を信頼する。
「これも、次に連絡が取れるときに」
書記が受け取った。
グレンは、まだ印の動かない町の外縁を見た。
*
ミナの腕は、少しずつ重くなっていた。
強化を続けることだけが原因ではなかった。
槍を下げる暇がなく、力を抜くたびに、敵が飛び出してくる気がした。
「肩、上がってる」
サフィナが水筒を持ってきた。
班長から短い交代の指示が出て、代わりの兵が柵の前へ入っている。
ミナは槍を体へ寄せ、口をつけた。
一度に飲みすぎないよう、二口で離す。
「ありがとう、ございます」
「うん。あたしも飲む」
サフィナが自分の水筒を開けた。
その指も、蓋を外すときに一度滑った。
ミナは、何か言おうとした。
でも、サフィナは先に広場の奥を見た。
「二人、受付まで行けたって。さっきの、足を引きずってた人たち」
「……そうですか」
「うん」
ミナは頷いた。
あの二人は、こちらへ通せた。
そのことを確かめてから、水筒をしまった。
柵の外で、重い足音が鳴った。
今度は、地面を走る小さな影ではなかった。
灰褐色の頭が葦を押し分ける。
岩額獣が、広場の入口へ向かってきていた。
「正面、来るぞ!」
兵が盾を寄せた。
ミナはサフィナと一緒に、言われていた位置まで下がった。
衝突の前に、柵の足元の土が盛り上がった。
杭の周囲を土が包み、低い土手のようにつながる。
岩額獣の前脚がそこへ当たった。
頭が下がりきらないまま、厚い板へぶつかる。
割れる音がした。
だが、杭は抜けなかった。
「横を取って!」
ダリヤの声だった。
広場へ続く道の端で、片手を地面へ向けている。
その脇を兵が抜け、柵に押しつけられた魔物の側面へ槍を入れた。
獣が首を振る。
兵が一人、後ろへ倒れかけた。
隣の盾役が肩を入れ、引き戻す。
ダリヤが手を下ろした。
短く息をつき、そばの職員へ指示を出す。
「予備の板をこちらへ。土で支えている間に、次を渡して」
「はい!」
男たちが板を運んだ。
ダリヤはもう一度、足元を確かめた。
人が通る内側の道まで、土を盛り上げることはしなかった。
ミナは、柵の下を見た。
持ち上がった隙間から、さっきの小型が鼻を入れていた。
「下にいます!」
ハーシムへ伝え、ミナは槍を低くした。
飛び出してくる前に、顔の前へ穂先を置く。
獣が横へ動く。
ミナも足を一つ動かし、通れる場所を塞いだ。
後ろから板が差し込まれた。
「押さえた。下がっていい!」
作業をしていた男の声で、ミナは槍を引いた。
班長が兵を動かす。
岩額獣の体が、ようやく地面へ沈んだ。
誰かが歓声を上げかけた。
「外を見る! まだ終わっていない!」
声が止まり、槍が再び外へ向いた。
*
谷では、ザイードの鉈が、岩額獣の首の横へ入っていた。
倒れる重みから柄を抜き、すぐに後ろへ下がる。
背後にいた隊員が前へ出て、長槍を向けた。
その脇を、もう一頭の獣が通り過ぎる。
「西へ抜ける。追うな!」
ザイードが叫んだ。
そちらは人家のない岩山へ続いている。
ここまで入り込んだものを、すべて殺す必要はなかった。
南へ下る道を守りながら、逃れる先を残す。
弓手が狙いを変えた。
隊員たちが盾を打ち、南側へ向こうとする獣の足を止める。
狭い谷へ寄り集まっていた魔物が、少しずつ離れ始めていた。
大きな個体が倒れたことで、押し合っていた場所にも隙間ができる。
後ろのものが、その隙間へ続いた。
ザイードは鉈を下げず、左右を見た。
「交代を入れろ。水を飲ませてから戻せ」
隊員が頷く。
そのとき、後方から連絡係が来た。
サハルの防衛の状況と、王国の冠位からの言葉を伝える。
谷を預かる貴隊の判断を信頼する。
ザイードは、ほんの少し口元を緩めた。
「そうか」
それだけ答え、南へ続く道を見た。
若いころ、何度も読んだ記録の書き手が、今は自分の報告を待っている。
そのことが、疲れた肩に力を戻した。
「こちらも送ってくれ。谷の集まりは崩れ始めた。南へ下る道は維持している。別の沢へ抜けたものは、引き続き確認が要る」
「はい」
「町側を頼む、と」
ザイードは鉈を持ち直した。
最後の言葉は、書き取る者へ届くほどの声だった。
*
サハルの広場には、夕方の影が伸び始めていた。
割れた板を外し、新しいものを縛る。
矢を運ぶ人が、空になった箱を抱えて戻る。
ミナは柵から離れたところで、槍の穂先を確かめた。
刃はついている。
留め具にも、緩みはない。
柄を握ると、練習で何度も持った場所が手に収まった。
腰の補助帯へ、指が触れた。
まだ使っていない。
足は動く。息も、休めば戻ってくる。
今、楽になるために使えば、後で重さが来る。
ミナは手を離し、足元の小石を道の端へ寄せた。
班長のところへ、新しい報告が届いた。
ダリヤも耳を傾ける。
「谷の群れが分かれ始めたそうです。南側は、討伐隊が引き続き押さえています」
「町へ来たものは?」
「数を確認中です。王都側からも、町側の敵を押し返しても、追撃で持ち場を空けないよう助言が来ています」
ダリヤが頷いた。
「そうしよう。外へ追う者はいらない。戻った人数の確認と、負傷者の搬送を続けて」
ミナは柵の向こうを見た。
遠くで戦っている人たちも、まだ守っている。
グレンも、バルドも、こちらの様子を待っている。
自分の目に入るのは、広場と、曲がり角までの道だけだった。
その範囲を、もう一度確かめた。
ハーシムが隣へ戻ってきた。
「少しずつ押し返している。焦って前へ出るなよ」
「はい」
サフィナが、空いた水筒を取り替えていた。
さっきまで人を支えていた兵も、腕の布を締め直して柵へ戻る。
そのとき、道の先で葦が大きく揺れた。
一頭が出てきた。
先ほどのものより肩が高い。
額の板には、古い傷が白く走っていた。
立ち止まり、倒れている同種の体へ鼻を向ける。
低い唸りが、広場まで届いた。
「大型、一頭。正面!」
兵が声を上げた。
ミナは槍を構えた。
修繕したばかりの板の向こうで、魔物の頭がゆっくりと下がった。
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