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第98話 襲来

「こちらです。広場で止まらず、あの白い布のところまで進んでください」


 ミナが腕を伸ばすと、作業着の男たちが顔を上げた。

 肩に掛けた袋。泥のついた靴。巻いたまま抱えてきた縄。

 最初に戻ってきた人たちは、まだ仕事の話をしていた。


「明日の朝、取りに戻れるのかね」


「その案内は、町の中で聞けるそうです」


 ミナには、それ以上のことは分からなかった。

 男は頷き、先へ歩いた。


 広場の川側には、杭と太い板を組んだ柵が置かれている。

 道を全部塞いではいなかった。

 二つの柵をずらして置き、人が曲がりながら通れる幅を残してある。

 その外に、守備隊の兵が立っていた。


 ハーシムは柵の内側。

 サフィナは、町へ向かう道の角。

 ミナはその間で、戻ってきた人を案内していた。


 足を引きずる女の人が来た。

 隣の男が、荷物と一緒に支えている。


「足を、どうされましたか」


「急いで片づけて、踏み外しただけだよ」


「こちらで、座れます」


 置いてあった腰掛けを示しかけ、ミナは手を止めた。

 ここで休ませると、後から来る人が詰まる。

 サフィナへ顔を向けた。


「歩くのが難しい方がいます」


「こっちへ。椅子のあるところまで、手を貸すよ」


 サフィナが近くの係を呼んだ。

 荷物を一人が受け取り、もう一人が女の人に肩を貸す。

 ミナは道を空け、次の人へ目を戻した。


 戻ってくる足が、さっきより速くなっていた。


「後ろの二人は?」


 縄を抱えた男が振り返る。

 見回りの兵が答えた。


「迎えに行っている。ここでは待たずに進んでくれ」


「でも、あいつら、奥の小屋を――」


「場所は聞いた。伝えてある」


 男は唇を結び、縄を抱え直した。

 ミナが示す道へ、一歩進む。


 川の方から、短い笛が鳴った。

 もう一度。

 今度は、長く続いた。


     *


 作業場の最後の小屋で、戸を閉める音がした。


「もう置いていけ。手を空けろ」


 見回りの男が声をかけると、出てきた作業員が道具袋を下ろした。

 隣の男は腰を痛めていて、段差を越えるのに時間がかかった。

 見回りは二人いた。

 一人が肩を貸し、もう一人が槍を持って後ろについた。


 槍の柄には、青い紐が巻かれていた。

 男はその部分を握り直し、岸へ目を向けた。


 葦が倒れた。


 灰褐色の背が、土手を上がってくる。

 低い鼻先。額を覆う硬い板。

 岩額獣だった。


「走れる方だけ先に行け。道の真ん中を空けろ!」


 男が槍を構えた。

 作業員が駆け出す。

 もう一人の見回りが、腰を痛めた男を引くようにして小屋の陰へ入れた。


 魔物が頭を下げる。

 足元の泥が跳ねた。


 槍の穂先が、額の板を滑った。

 男は身をひねって横へ逃れたが、脇に積まれた材木へ踵が当たった。

 踏み直すより早く、牙が追いついた。


 小屋の壁が鳴った。


 男は倒れ、槍が地面へ落ちた。

 岩額獣はその先へ突っ込み、倒れた荷車に前脚を取られた。


「こっちだ!」


 駆けつけた別の兵が盾を叩いた。

 弓弦の音が続く。

 魔物が向きを変えた間に、二人が倒れた男の腕を取った。


 作業員も戻りかけた。


「来るな。先へ行け!」


 怒鳴られ、足が止まる。

 男は両手を空けたまま、町へ向かって走った。


     *


 最初に広場へ入ってきたのは、その作業員だった。


「後ろで、見回りの人が」


 それだけ言って、息を吸う。

 声が続かなかった。


 担当の兵が、柵の外へ目を向けた。

 四人が、一人を運んでくる。

 横には、別の男を支えて歩く兵もいた。


「担架を!」


 ミナは道の内側へ寄った。

 運ばれてきた男の服が、脇腹から濃い色に染まっていた。

 誰かが当てた布を、別の手が強く押さえている。


 男の目は開いていた。

 けれど、そばで名前を呼ぶ声へ、顔が向かなかった。


「奥へ通せ。ここを空けろ!」


 担架が、ミナの前を通り過ぎた。

 薬と布を持った人たちが追っていく。


 ミナは腰の袋へ手を伸ばしかけた。

 自分も布を持っている。

 でも、今はそれを渡す相手より、こちらへ来る人を見なければならなかった。


「ミナ、道を見て」


 サフィナの声で顔を上げた。

 荷を抱えた男が、柵の横で止まりかけていた。


「こちらへ。荷物はそのままで大丈夫ですから」


 声が少しかすれた。

 もう一度言うと、男が歩き出した。


 外で、盾を打つ音がした。


     *


 川岸から逃れてきたものは、一種類ではなかった。


 岩額獣の足音の間を、低い影が走る。

 犬ほどの大きさで、背の毛が硬く逆立っている。

 地面近くへ鼻を下げ、柵の前を横切った。


「小さいの、右へ!」


 ハーシムが言った。

 兵が槍を向けると、獣は体を折るように向きを変えた。

 荷車の下へ潜る。


 ミナは穂先の覆いを外した。

 左腕の小盾を外側へ向け、両手で柄を持つ。

 目へ魔力を通した。


 車輪の向こうに、脚が見えた。

 低い腹の下で、後ろ脚が縮む。


「出ます!」


 ミナは槍を前へ出した。

 飛び出してきた獣が、穂先を嫌って横へ跳ねる。

 届かなかった。

 追って槍を振り回しそうになり、止めた。


 後ろには、まだ人がいる。


「サフィナさん、奥へ!」


「みんな、壁の方へ寄って! 走らず、そのまま!」


 サフィナが声を張った。

 ハーシムが前へ入り、獣と避難者の間へ盾を置く。


 獣の爪が盾を擦った。

 ハーシムは受け止めたまま押し合わず、角度を変えて横へ流す。

 その脇で、ミナは足を開いた。


 足腰へ。

 柄を支える腕へ。


 魔力を通すと、踏み込む足と、前へ出す穂先が揃った。

 獣が盾から離れる。

 首を曲げ、ミナへ顔を向けた。


 目を追いすぎない。

 前脚が土をつかむ。

 肩が沈む。


 来る。


 ミナは半歩、外へずれた。

 振り上げられた前脚の下へ、穂先を入れる。


 重い感触が柄を伝わった。

 肩が引かれる。

 踏んだ足をずらさず、すぐに槍を引き戻した。


 獣は倒れず、横へよろめいた。

 ミナは前へ出かけた足を止めた。


「そのまま!」


 ハーシムの声。

 剣が短く振られ、獣が地面へ落ちた。


 ミナは息を吸った。

 浅かった。もう一度、吸う。


「怪我は」


「ありません」


「よし。後ろを頼む」


 ハーシムは、すぐに柵の方へ戻った。

 ミナも向き直る。

 サフィナの後ろへ、最後の数人が進んでいた。


 補助帯には、まだ魔力を入れていない。

 今の動きは、自分でできた。

 それを喜ぶ余裕はなかった。


     *


「川岸側、接触。大型一頭、小型複数。避難者の通過、継続中」


 王都の連絡室で、書記が読み上げた。

 報告の末尾には、送られた時刻がある。


 グレンは地図へ手を置いた。


「先ほどの配置変更は、届いているか」


「伝達済みです。現場での実施については、まだ返事がありません」


 次の文字が出るまで、水晶は静かだった。

 バルドは机から手を離し、一度だけ足を動かした。

 盾を構えるときのように、肩がわずかに傾く。


「人を通すところを、狭めすぎていなければいいが」


「向こうには班長がいる。今の足元を見ているのは、その人だ」


 グレンが答えた。

 紙の上では、すぐ隣に置ける印でも、現場で兵を動かすには時間がかかる。

 まだ届いていない返事を待たず、次々と別の指示を重ねることはできなかった。


 新しい報告が来た。


 柵の間を抜けた小型は排除。

 負傷者を搬送。

 避難者の通過後、前の班から順に退く準備。


 グレンは、確認した時刻を書いた。


「退く先の道が詰まっていないか。それを確かめてほしい」


 書記が頷き、言葉を送った。


     *


 サハルでは、ダリヤが次の報告を受けていた。


「別の作業場で、帰着が確認できていない者が二名。最寄りの見回りが確認に向かっています」


「連絡が届いた時刻と、最後に見られた場所を揃えて。舟で戻った可能性も、岸の受付へ聞いておくれ」


 職員が走っていく。

 ダリヤは広場と町の間を指した。


「負傷者はこちらへ。荷車は脇の空き地へ入れる。食堂前の道を、待ち合わせで塞がせないように」


 治療役が必要なものを伝え、別の係が取りに動いた。

 配信を見たという人からも、まだ川岸へ仕事に出ている知り合いの名が届いていた。

 それを帰着した人の一覧と照らし合わせる。


 ダリヤは、ザイード隊から届いた短い報告へ目を移した。

 谷では、複数の岩額獣を押しとどめている。

 別の斜面にも動きがあり、そこを担当する隊へ応援を回したところだった。


 主な集まりは、まだ町から遠い。

 だが、そこから外れたものだけで、川岸は持ちこたえなければならなかった。


「ザイード隊へ、町側の状況を送って。こちらも配置を変えると伝えておくれ」


「帰還を求めますか」


 ダリヤは地図を見た。

 谷を空ければ、今より多くのものが動く。

 隊長だけが戻るにしても、町での戦いには間に合わない。


「現場の判断を求める。ここを守る手は、こちらで用意するよ」


     *


 広場の外で、岩額獣が倒れた。


 柵へ突き込んだ頭を引き抜こうとする間に、兵が側面から槍を入れたのだった。

 それでも二度、板が大きく揺れた。

 動きが止まるまで、誰も近づかなかった。


 班長が手を上げた。


「左の組から下がれ。間を空けるな」


 兵が交代し、柵の内側へ退く。

 一人は盾を持つ腕を動かし、顔をしかめていた。

 別の一人は、額の汗を袖で拭いた。


 ミナは、通っていった人の数を受付の係へ伝えた。

 名前までは分からない。

 それでも、どの道から何人来たかは、覚えているうちに話せた。


「ありがとう。こちらで照らします」


 係が紙へ書いた。

 ミナは頷き、槍を持つ手を少し緩めた。

 掌が、汗で湿っていた。


 治療のために空けていた軒下から、人が出てきた。

 服の袖が肘までまくられ、手には折った布がある。

 さっきの作業員が、その人へ近づいた。


「見回りの人は」


 返事の前に、短い間があった。


「亡くなりました」


 作業員の肩が動いた。


「でも、運ばれたときは、まだ」


「はい。できる処置はしました。傷が深くて……」


 言葉が途切れた。

 男は軒下を見たまま、立っていた。


 ミナにも、その向こうが見えた。

 担架の上に、布が掛けられている。

 そばの兵が、青い紐の巻かれた槍を壁へ立てかけた。


「俺、まだ礼も……」


 作業員が言った。

 腰を痛めていたもう一人が隣へ来て、何も言わずに腕をつかんだ。


 ミナは口を開いた。

 けれど、言葉が出なかった。


 町へ運べた。

 治療する人のところまで、通せた。

 それで、助かったのだと思っていた。


 槍を持つ指が震え始めた。

 握り直しても、穂先の小さな揺れが止まらない。


 サフィナが隣に立った。

 いつものようには、何も言わなかった。

 ただ、同じ道の方を向いていた。


 笛が鳴った。


「次が来る!」


 ハーシムが二人を呼んだ。

 ミナは顔を上げた。

 柵の向こうに、まだ戻ってくる人影があった。


「ミナ、動けるか」


 すぐには返事ができなかった。

 膝が固くなっている。

 一度、足の裏を地面へ押しつけた。


「……はい」


 声にして、もう一度息を吸った。

 サフィナが道の内側へ動く。

 ミナも、その隣へ戻った。


 怖かった。

 それでも、今こちらへ歩いてくる人に、進む先を伝えなければならなかった。


「こちらです」


 槍先を人から外し、町へ続く道を示した。



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