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第100話 撃退

 岩額獣は、正面からは来なかった。


 倒れた同種の体を避け、首を振る。

 額に走る古い傷が、夕方の光を受けて白く見えた。

 その頭が、柵の端へ向いた。


「端を狙うぞ!」


 班長の声と同時に、兵が動いた。

 ダリヤが手を伸ばす。

 杭の周囲の土が盛り上がった。


 魔物の肩が、板へぶつかった。


 杭は残った。

 だが、横木を留めていた縄が切れた。

 片側を失った板が跳ね、盾を構えていた兵を横から打った。


 人が倒れる。

 広がった隙間へ、灰褐色の頭が入ってきた。


「下がれ! 内側へ!」


 ハーシムが盾を上げた。

 ほかの兵と並び、魔物を道の中央へ出さないよう、前へ進む。

 岩額獣が頭を振った。

 牙が盾の縁を擦り、二人の足が後ろへ滑った。


 ミナは、倒れた兵を見た。

 右脚が板の下に挟まっている。

 隣にいた若い兵が板を持ち上げようとしていたが、片端が土へ食い込み、うまく動かなかった。


 ミナはそちらへ走った。


「サフィナさん、手を貸してください!」


 サフィナが来る。

 若い兵と二人で板を持つ。

 ミナは槍の石突を地面へつき、負傷者へ手を伸ばした。


「脚を、引けますか」


 男が歯を食いしばった。

 少しだけ靴が動く。

 ミナは上着をつかみ、板が浮くのに合わせて引いた。


 靴が抜けた。


 けれど、立てない。

 若い兵が肩へ腕を回そうとしたとき、盾を打つ音が途切れた。


「そっちへ向く!」


 ハーシムの声がした。


 岩額獣が盾の列から離れ、斜めに首を振っていた。

 破れた柵と倒れた板が邪魔になり、兵たちが一度に回り込めない。

 魔物の目が、低い位置にいる三人を捉えた。


 若い兵の手が止まった。


「間に、合わない」


 ミナも、間に合わないと思った。

 今の速さで男を支えて歩くだけでは、追いつかれる。

 誰かが、向きを変えさせなければならない。


 槍を持ち直した。


「私も、怖いです」


 声が、自分でも驚くほど小さかった。

 それでも、若い兵がこちらを見た。


「でも、置いていきたくないんです。二人とも」


 腰の補助帯へ、魔力を通す。


「一緒に連れて帰りましょう。私が、前を見ます」


「ミナ!」


 サフィナが呼んだ。

 ミナは魔物から目を離さずに答えた。


「お願いします。ハーシムさんの方へ」


 返事の代わりに、服を引く音がした。

 若い兵が動き出した。


     *


 目へ、魔力を通す。

 足腰へ。腕へ。


 補助帯が、踏み出す動きを支えた。

 いつもなら体が遅れそうになるところで、足が届く。


 ミナは、負傷者のいる場所から斜めに離れた。

 穂先を、魔物の顔の前へ出す。


 岩額獣が首を引いた。

 鼻先がこちらを向く。


 前脚が土をつかんだ。


 ミナは飛び退かなかった。

 右へ、短く踏み替える。

 額の板が通り過ぎる、その脇へ槍を突き出した。


 硬い毛を越えて、穂先が入った。


 届いた。


 引き戻そうとした瞬間、魔物が頭を跳ね上げた。

 柄が、斜めに引かれる。

 ミナは握る力を緩めた。

 けれど、穂先は抜けなかった。


 牙と肩の間へ柄が挟まった。

 大きな体が、そのまま横へひねられる。


 乾いた音がした。


 手元が、急に軽くなった。


 半分になった柄を握ったまま、ミナは一歩よろめいた。

 魔物の首に、穂先が残っている。

 こちらの手には、裂けた木肌があった。


 初めて槍を構えたとき、ラグに直してもらった手の位置。

 突いて、引く。

 足を戻して、もう一度。


 何度も繰り返した動きが、途中で途切れていた。


 魔物が唸った。


 ミナは折れた柄を手放し、横へ転がるように避けた。

 牙が袖を引っかいた。

 左腕が熱くなり、肘が地面へ当たった。


 痛い。

 息が詰まる。


 立たなければ。


 小盾をつけた腕で体を支え、膝を起こす。

 後ろでは、まだ人を運んでいた。

 ハーシムが、倒れた板を蹴り、退けている。


 槍は折れた。

 指は震えている。

 それでも、包丁の柄には手が届いた。


 ――私は、折れない。


 そう言い聞かせなければ、その場へ座り込んでしまいそうだった。


 まだ、足は動く。

 目は見えている。

 帰る道には、仲間がいる。


「……まだ、帰れる。一緒に」


 今度は、誰に届いたのか分からなかった。

 ミナは包丁を抜いた。


     *


 短い。


 槍を握っていたときより、魔物がずっと近かった。

 腕を伸ばしたところで、届く距離はほとんどない。

 額や牙を、この小さな盾で受け止めることもできない。


 見る。

 動き出すところを。


 目へ回す魔力を増やした。

 視界の端が、少し痛む。

 ただ明るくするのではなく、肩と前脚へ意識を絞る。


 足腰、腕。

 同時に通す魔力を、今の自分が保てるところまで引き上げた。

 補助帯も、教えられた上限まで。


 長くは続けられない。

 すべてを使い切る前に、離れる。


 岩額獣が前へ出た。


 ミナは、地面を蹴った。

 大きく跳ばず、牙の先から体を外す。

 すぐ横で、硬い毛が風を切った。


 頭が戻ってくる。

 その速さは、槍で戦っていたときより少し違った。


 首に残った穂先。

 そちらへひねる直前に、肩の動きが止まる。

 傷をかばっているのかもしれなかった。


 一度だけ見えた止まり方を、決まりだと思わない。

 次の前脚を見る。


 また、同じ側が遅れた。


 ミナは短く息を吐いた。


「こっちです」


 かすれた声が出た。

 魔物が顔を向ける。


 額の板の下、首の横。

 頭を持ち上げると、厚い皮の重なりが開く。

 毛の流れが変わり、その奥で筋肉が動くところまで見えた。


 包丁は、そこへ入れる。


 もう一度、地面を蹴った。

 低く振られた牙をかわし、伸びた首の脇へ踏み込む。

 左腕の小盾に、硬い毛が擦れた。


 包丁を、力任せには振らなかった。


 刃の向きを合わせる。

 境目へ入れて、そのまま引く。


 最初にあった抵抗が、ふっと軽くなった。

 刃に刻まれた術式が、淡く光った。


 通った。


 ミナの腕が、狙った線を最後までなぞった。

 魔物の頭が跳ね上がる。

 すぐに刃を離し、後ろへ足を引いた。


 息が切れていた。

 胸が上下する。

 それでも、止まってはいけなかった。


 岩額獣は、まだ動いていた。

 地面を掻き、首を振る。

 今までより乱れた動きで、ミナへ向き直ろうとする。


「ミナ、左へ!」


 ハーシムの声がした。


 ミナは残った力で、そちらへ走った。

 足が一度、地面を滑る。

 踏み直したところへ、盾を持った兵が入った。


「今だ!」


 ハーシムが叫ぶ。

 ミナの後ろで、槍が二本、前へ出た。


 魔物の足が止まる。

 重い体が傾いた。

 それでも暴れる頭を、兵たちが距離を保って押さえた。


 ミナは、もう振り返れなかった。


 補助帯へ流す魔力を切った。

 自分の強化も落とす。


 脚が重くなった。

 次の一歩が、思っていた場所へ届かなかった。


「ミナ!」


 サフィナが受け止めた。

 二人で、その場へ膝をつく。


「包丁、下ろして。ゆっくりでいい」


 言われて、まだ握っていることに気づいた。

 刃を人から外し、地面へ置いた。


「あの、人たちは」


「大丈夫だよ!二人とも、奥にいる!」


 サフィナの声が近かった。


「もういい!今度は、ミナが下がる番!」


 ミナは頷こうとした。

 うまく動けず、息だけが漏れた。


     *


 岩額獣が完全に動きを止めるまで、班長は槍を下げさせなかった。


 首の傷から流れた血が、地面へ広がっていた。

 ハーシムは剣を構えたまま、獣の脇腹を見ていた。

 やがて、上下する動きがなくなった。


「仕留めた。次を確認!」


 弓手が外を見た。

 小型の一頭が岸へ逃れ、もう一頭もその後を追った。

 兵は柵を越えなかった。


 ダリヤが、崩れた場所へ土を寄せた。

 男たちが、その内側へ予備の板を運ぶ。


「怪我人を先に。動ける者は、そのまま見張りを」


 声が広場を通った。

 治療役がミナのところへ来て、袖の傷を確かめた。


「手は握れる?」


 ミナは、言われたとおりに指を曲げた。

 痛んだが、動いた。

 腕には浅い裂け目があり、肘は擦りむけていた。


「脚は」


「補助帯を、使いました。強化も、一緒に。切ったら、重くなって……」


 途中で息を整えた。

 治療役は帯へ触れる前に、もう止めてあるか尋ねた。

 ミナは頷いた。


「今は立たなくていい。確認するから、痛むところを教えて」


 サフィナが隣に座っていた。

 肩を借りたまま、ミナは腕と膝を指した。

 戦っているときには、気づかなかった痛みもあった。


     *


 町側の襲撃が止まったと確認できたのは、それから少し経ってからだった。


 川岸へ向かった見張りから、新たに近づく影はないと報告が来た。

 別の持ち場でも、入り込んだ魔物を押し返していた。

 谷ではザイード隊が南側を保ち、残った個体の動きを監視している。


 ダリヤは、報告を一つずつ聞いた。


「見張りは交代で続ける。町の外へ、勝手に荷を取りに戻らせないように」


 負傷者の数と、亡くなった者の確認は、まだ続いていた。

 戻った人の名が書かれるたび、受付の者が別の紙へ線を引く。


 その場を離れる前に、ダリヤがミナのそばへ来た。

 膝を折り、顔の高さを合わせた。


「今は、休んでおいで」


 ミナは声を出そうとした。

 ダリヤが首を振った。


「詳しい話は、落ち着いてから聞くよ。守ってくれて、ありがとう」


 手が、ミナの肩へ短く触れた。

 それからダリヤは立ち上がり、治療役へ後を頼んだ。


     *


「サハル側、襲撃を撃退。防衛線を維持。現在、負傷者の搬送と帰着者の確認を継続しています」


 王都の連絡室で、書記が読み上げた。


 バルドの肩が、ゆっくりと下がった。

 グレンは地図から手を離し、椅子の背へ体を預けた。


「……そうか」


 机の上には、何度も線を書き足した紙があった。

 今、その向こうで立っている人たちの顔は見えない。


 書記が、次に届いた文字へ目を移した。


「参加した採取人のミナさんは、負傷していますが、意識はあります。治療を受けているとのことです」


 バルドが顔を上げた。

 グレンも、机の端へ手を置いた。


「容体について、分かる範囲で続報を。ただし、治療や現場の報告を先にしてもらってくれ」


 書記が頷いた。


 グレンは、使っていない自分の水晶へ目を向けた。

 いつもの配信は始まっていなかった。

 今は、それでよかった。


「ザイード隊と、サハルの守備に当たった皆さんへ。協力に感謝する。残る確認も、引き続き手伝うと」


 言葉を渡してから、グレンはもう一度椅子へ座った。

 バルドは黙って、冷めた水を杯へ注いだ。


     *


 ミナのそばへ、ハーシムが戻ってきた。


 手には、折れた槍があった。

 穂先のついた短い方と、ミナが手放した長い方。

 汚れを拭き、刃には布を巻いてあった。


「回収していいと言われた。修理できるかは、店で聞こう」


 ミナは差し出された柄へ手を伸ばした。

 持ち慣れた場所が、掌に触れた。


「……ありがとうございます」


 折れたところを合わせても、もう元のようには持てなかった。

 ラグ、マルタ、キリルと歩いた採取地。

 水辺の練習。

 旅の途中で、荷物と一緒に確かめた穂先。


 この槍を持って、何度も帰ってきた。


 ミナは柄を膝へ置いた。

 指を添えたまま、しばらく離せなかった。


「あの兵の人、治療を受けてるって」


 サフィナが言った。


「脚は痛めてるけど、話もできる。助けに入った人も、そばにいるよ」


 ミナは顔を上げた。


「二人とも?」


「うん。二人とも」


 頷くと、喉の奥が痛くなった。

 息を吸った拍子に、涙が落ちた。


 助けられた人がいる。

 助けられなかった人もいる。

 どちらも、今日ここで起きたことだった。


 サフィナが、何も言わずに隣へ座り直した。

 ハーシムも、しばらくその場を離れなかった。


 広場の向こうで、人を呼ぶ声がした。

 片づける音と、運ぶ足音が続いている。


 サハルの町は、残っていた。


 ミナは折れた槍へ手を添え、涙が止まるまで、仲間の隣に座っていた。



★読んでいただきありがとうございます。評価、レビュー、応援コメントなどいただけますとモチベーションにつながります。よろしくお願いいたします。

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