第101話 復興のはじまり
目が覚めると、窓の外が明るかった。
いつもの宿の天井だった。
椅子に掛けた上着。窓際の水筒。床へ置かれた、口を閉じたままの袋。
その横に、布を巻いた槍が二本並んでいる。
二本ではない。
一本だったものだ。
ミナは寝台の上で、右手を握った。
指は動いたが、起き上がろうとすると腹と背中が一緒に痛んだ。
息を止め、もう一度ゆっくり枕へ戻る。
「……起きてる?」
扉の外から、サフィナの声がした。
「はい」
「入るよ。朝ご飯、持ってきた」
盆を置いたサフィナは、まず水差しを確かめた。
それからミナの背へ手を添え、枕を重ねてくれた。
「昨日、ここに戻ったの、覚えてる?」
「ハーシムさんが、荷物を……」
「そう。階段で寝そうになってた」
途中から、あまり覚えていなかった。
座って運んでもらったことと、宿の人に名前を呼ばれたことは思い出せる。
左腕には、新しい包帯が巻かれていた。
「また、来ましたか」
サフィナは首を振った。
「あれからは来てないって。見張りは続いてるけど。朝、ギルドで聞いてきた」
ミナは息を吐いた。
窓の下から、荷車の軋む音が聞こえる。
昨日の広場で聞いた音に似ていて、肩に少し力が入った。
「今は、荷物を運んでる音だよ」
サフィナも窓へ目を向けた。
「壊れたところ、片づけてるんだと思う」
盆には、柔らかく炊いた麦と、白身魚を蒸した皿があった。
細かく切った野菜が魚の下に敷かれ、温かい汁が少し溜まっている。
「食堂から。バスマさんが、食べられそうならって」
「食堂、開けてるんですか」
「普通の営業は休み。交代する人たちのご飯を作ってる。宿の分も、まとめて持たせてくれたんだ」
食堂の台所を思い浮かべた。
あの人数なら、野菜を切るだけでも時間がかかる。
「私も、座ってできることなら……」
言いながら、膝へ掛かった布を持ち上げた。
サフィナが、その手の前へ匙を差し出す。
「まず、それ食べて」
「でも」
「足を下ろす前から、そんな顔してる人には頼めないよ」
ミナは、自分の眉間へ右手を当てた。
確かに、少し動くだけで顔に力が入っていた。
匙を受け取り、麦をすくう。
魚の汁を少しかけると、口の中でほぐれた。
塩は薄めで、刻んだ葉の香りがした。
「……おいしいです」
「よかった。そう伝えるね」
次の一口をすくったとき、急に空腹を感じた。
昨日は食べるように言われても、少ししか入らなかった。
今は、飲み込んだ後にもう一口ほしくなる。
サフィナが自分の椅子を寄せ、包みから同じ料理を出した。
「私もここで食べていい?」
「はい。ぜひ」
皿が二つになると、部屋が少しいつもに近づいた。
*
昼前に来た治癒師は、襲撃の後、サハルへ応援に入った人だった。
朝まで、重い怪我をした人の処置を続けていたという。
「昨日の処置は、きちんとできていますね」
包帯を外し、傷を確かめてから、治癒師が掌をかざした。
肘の上を、温かいものがゆっくり撫でていく。
皮膚が引かれるような感覚に、ミナは指を縮めた。
「痛みますか」
「いえ。少し、くすぐったいです」
治癒師は小さく頷き、手の位置を変えた。
終わった後、左腕を曲げるように言われた。
昨日は袖が触れるだけでも痛かった場所が、ほとんど気にならない。
傷のあったところに、薄く赤みが残っていた。
「浅い傷だったので、こちらは早く落ち着くでしょう。ただし、体の疲れは別です」
ミナが動かした腕を、そっと下ろさせる。
「痛まなくなったからといって、今日から槍を振っていいわけではありません」
「……はい」
槍を振ることまでは、考えていなかった。
けれど、包丁なら持てるかもしれないとは思った。
それも、今は言わない方がよさそうだった。
「使った補助具を見せてもらえますか。体へどんな働きかけをしたものか、分かる範囲で教えてください」
サフィナが袋から補助帯を出した。
昨日、外してもらってから、まだ見ていなかった。
膝へ広げると、留め具の内側に細い線が見えた。
指で触れる前に、ミナは手を止めた。
「ここ……」
術式の刻まれた部分に、ひびが入っていた。
汚れだと思った筋は、表面を拭いても消えなかった。
使う前には、なかった。
「魔力は通さないでくださいね」
治癒師に言われ、ミナは頷いた。
仕組みを全部説明することはできなかったが、短い時間だけ動きを助けるものだと伝える。
自分の身体強化も、一緒に使ったこと。
終わった後は、立っていられなかったこと。
「それは、作った方にも知らせておきましょう。ここで直せるかどうかは、私には判断できません」
ミナはひびの入ったところを、もう一度見た。
教わった上限より先へ、上げたつもりはなかった。
けれど、あのとき自分で通した魔力の量を、正確に数字で言うこともできない。
これがなければ、間に合わなかった。
だからこそ、何もなかったことにはできなかった。
*
治癒師が帰った後、ミナは机に紙を置いてもらった。
書き始める前に、少し迷った。
壊してしまって、ごめんなさい。
それだけでは、リゼに何が起きたのか伝わらない。
先に、助けられたことを書いた。
それから、補助帯を使う直前の動きと、自分の身体強化を強めた場所。
使った時間は分からないので、分からないと書く。
槍が折れた後も動き続け、仲間の方へ戻ってから止めたことを添えた。
最後に、今は治療を受けて休んでいると書いた。
「包むのは俺がやる」
昼の見回りを終えたハーシムが、補助帯を受け取った。
硬い部分がぶつからないよう布を挟み、小箱へ収める。
「宛先は分かるか?」
「はい。ギルドに相談すれば、送る方法も教えてもらえると思います」
「じゃあ、相談するところから行ってくる。すぐ着く荷物じゃないだろうし、先に連絡だけでもできるか聞こう」
「ありがとうございます」
ハーシムは手紙を箱の上へ置いた。
その手の甲にも、昨日はなかった擦り傷があった。
「ハーシムさんも、休んでくださいね」
「これを預けたら休む。交代の時間は取ってある」
そう言ってから、窓際の二つに分かれた槍へ目を向けた。
「そっちは、急がなくていい。店も今は、町の修理に使う道具で忙しい」
ミナは頷いた。
新しい槍を選ぶにも、柄を替えるにも、まず自分で持って確かめたい。
今は、それができなかった。
*
午後、扉を叩く音がした。
入ってきたダリヤを見て、ミナは寝台から立ち上がりかけた。
「そのまま」
短く言われ、途中まで浮かせた腰を下ろす。
「今日は、それを言いに来たようなものだ」
ダリヤは同行していた部下から紙を受け取った。
治癒師の話は、すでに聞いているらしい。
「採取は休み。訓練も休み。食堂の仕事も、次の診察で許可が出るまでは休みだ」
「仕込みだけでも……」
「さっきも言ってました」
サフィナが、すぐに告げた。
ミナは膝の上へ手を揃えた。
「座ってできることなら、と思って」
「君の場合、座ったまま次の仕事を見つけてしまうだろう」
ダリヤが椅子を引いた。
上着の裾には乾いた土がついていた。机へ置いた書類の端にも、細かな埃が残っている。
「食堂は、ほかの人に任せてある。君の担当日についても、ユスフと話した。今は町全体で、仕事を組み直しているところだ」
誰かが代わりに働くのだと思うと、申し訳なかった。
でも、その誰かが倒れたとき、自分も休んでほしいと言うだろう。
「……分かりました」
「よし。ただ、ずっとこの部屋にいろという意味ではない」
ミナは顔を上げた。
「少し歩けるようになったら、私の仕事を見に来るかい。もちろん、治癒師の許可を取ってからだ」
「ダリヤ様のお仕事を?」
「壊れた道をどう直すか。届いた物資を、どこへ先に回すか。食堂の注文が増えたとき、台所の外で何が起きているのか。見られるものはある」
ダリヤは書類を揃えた。
「訪ねなければならない家もある」
その声が、少し静かになった。
ミナは、広場の壁に立て掛けられた槍を思い出した。
青い紐が巻いてあった。
「……私も、ご挨拶をしていいでしょうか」
「先方の気持ちを確かめてからにしよう。会いたい人も、今はそっとしておいてほしい人もいるからね」
ミナはゆっくり頷いた。
帰り際、ダリヤは窓際の空になった皿を見た。
「食べられたようで、よかった」
「はい。おいしかったです」
「では、それも伝えておこう。作った者が喜ぶ」
*
夕方、ミナは短い配信を始めた。
水晶はサフィナが机へ置いてくれた。
画面に映るのは、椅子へ座ったミナと、後ろの壁だけだった。
「ご心配をおかけしました。怪我は治療してもらいました。今は、宿で休んでいます」
文字板へ、言葉が増えていった。
無事でよかった。眠れたか。返事はいらないから休んで。
昨日、配信を終えた後のことを心配していた人たちだった。
ミナは一つずつ読んだ。
全部に答えようとすると、サフィナが机の端を指で軽く叩いた。
短くする約束だった。
「腕は、もうあまり痛みません。でも、体はまだ重いので、採取も料理もお休みします」
〈灰ねこ:分かった。知らせてくれてありがとう、こなべさん〉
ミナは少し笑った。
「今日は、作ってもらいました。お魚と、柔らかい麦です。温かくて、おいしかったです」
料理を見せられない配信だった。
それでも、食べられてよかったという文字が届いた。
その中に、マルタからの言葉があった。
〈今度はちゃんと休んでね。ミナ〉
「はい。……マルタも、ありがとう」
少し間を置いて、もう一つ。
〈私も練習してる。話したいこと、たまってるよ〉
ミナは画面へ顔を近づけかけ、椅子へ座り直した。
「私も、あります。元気になったら、また聞いてください」
*
故郷の宿の水晶の前で、マルタは丸い耳を少し起こした。
映像はもう終わっていた。
最後に手を振ったミナの顔を思い出して、ようやく息を吐く。
「話せた?」
食器を片づけに来た母に、頷いた。
「うん。ご飯も食べたって」
「それなら、よかった」
マルタは立ち上がり、椅子を戻した。
盾を支えていた左腕には、今日の練習の重さが残っている。
訓練場では、一度うまく交代できた。
相手の合図を待って盾の位置をずらし、後ろへ下がる。空いた右手を、怪我人役の肩へ添える。
焦って盾を放り出すことも、両手で抱え直すこともなかった。
でも、二度目は早く下がりすぎた。
交代する相手が踏み込む前に、隙間を空けてしまった。
ミナへ話したかったのは、うまくできた一度目の方だった。
今は、二度目のことも覚えておこうと思った。
次に一緒に出かけるなら、たまたまできた一回だけでは困る。
「姉ちゃん、それ持って」
弟が、重ねた皿を差し出してきた。
マルタは両手で受け取った。
「持ちすぎ。二回に分ければいいでしょ」
「姉ちゃんも、よくやるじゃん」
「……今日は分けるの」
半分を台へ残し、台所へ向かう。
明日の練習も、宿の手伝いもある。
その先に、また会って話す日がある。
マルタは皿を置いて、残りを取りに戻った。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




