第102話 町の明日を作る人
宿の階段を、自分の足で下りた。
一段ずつ。手すりに指を添えて。
下まで着いて振り返ると、思っていたよりも高かった。
「上出来だ。帰りも、それくらいゆっくりでいい」
入口で待っていたダリヤが言った。
隣には書類鞄を持った職員がいて、外には小さな馬車が止まっている。
ダリヤが見舞いに来てから、三日が過ぎていた。
治療を受けた左腕は、もうすっかり塞がった。指を伸ばしても、肘を曲げても痛まない。
体の重さも薄れてきたが、長く立っていると、膝の裏が頼りなくなる。
今日の外出は、短い時間だけ。
移動は馬車を使い、途中で必ず休む。
治癒師と決めた約束を確かめてから、ミナは靴紐を結び直した。
「本当に、ご一緒してもいいんですか」
「見せられない話をするときは、そう言うよ。分からないことは、後で聞いてくれればいい」
差し出された手を借り、馬車へ乗る。
今日は採取袋も、盾も持っていない。
膝に置いたのは、水筒と、小さな記録帳の入った鞄だった。
補助帯を入れた箱は、昨日、王国へ向かう荷物に預けられた。
リゼには、ギルドを通じて損傷と発送予定を先に知らせてもらっている。
直るかどうかは、まだ分からない。
腰の軽さに慣れないまま、ミナは窓の外を見た。
*
最初に止まったのは、荷を置く倉庫の前だった。
戸口には板が重ねられ、脇に車輪の外れた荷車がある。
誰かが落とした釘を、少年が桶へ拾い集めていた。
ダリヤが下りると、職人らしい男が図面を広げた。
「材は足りません。倉庫の戸を先に直すなら、川側の仮柵は明日以降になります」
「戸口を塞いだまま、荷は出せるか?」
「横からなら。ただ、車が入らないんで、手で運ぶことに」
「雨は?」
「奥へ寄せれば、今夜の分は守れます」
ダリヤは頷き、別の職員へ顔を向けた。
「仮柵のない区画を、今夜も人で見張る場合は?」
「交代を増やす必要があります。昨日も、休みを後ろへずらした者がいます」
少しの間、誰も話さなかった。
ミナは倉庫の戸を見た。
片方が斜めに下がっている。重そうで、開け閉めするたびに人手がいるだろう。
「仮柵を先に。倉庫には荷運びの応援を回そう。濡らせない品を移すところまで、今日中に頼む」
指示を聞いた職員が、紙に名前を書き足した。
職人は板を数え直し、二枚だけ別にした。
「戸の補強は、これで一晩持たせます」
「助かる。明日、改めて直す時間を決めよう」
少し離れた椅子に座って待ちながら、ミナは記録帳を開いた。
板が足りない、と書きかける。
その下に、見張る人の休み、と書き足した。
馬車へ戻ってから、ダリヤが尋ねた。
「何か気になったかい?」
「柵を直すと、見張りの人が休めるんですね」
「見張りをなくすわけではないけれど、人数や立つ場所を変えられる。眠れていない者を、いつまでも立たせてはおけないからね」
「戸を直すことと、別々に考えていました」
「私も、聞かなければ分からないことがある。だから、こうして回る」
ダリヤは窓の外へ目を向けた。
板を運ぶ二人の職人が、道を渡っていった。
「全部を今日直せるなら、悩まなくて済むのだが」
その言い方は、少し疲れていた。
ミナは記録帳を閉じ、鞄へ戻した。
*
次の家の前で、馬車は静かに止まった。
ダリヤが先に下りた。
ミナは膝に置いていた手を握り、開いた。
青い紐を巻いた槍を持っていた、見張りの人。
その家族が、会ってもよいと言ってくれたのだと、出発前に聞いていた。
「無理に話そうとしなくていい」
ダリヤに言われ、ミナは頷いた。
水晶は鞄の中で、電源を切ってある。
迎えてくれたのは、髪を後ろでまとめた女性だった。
目の下が少し赤い。
部屋の隅には、手入れされた靴が揃えてあった。
ダリヤは椅子へ座る前に、深く頭を下げた。
「このたびは、心からお悔やみを申し上げます」
女性は一度唇を結び、それから頭を下げ返した。
ミナも、隣で頭を下げた。
顔を上げると、女性がミナを見ていた。
「広場に、いたのね」
「はい。……川の方から来る人を、案内していました」
「そう」
短い返事の後、しばらく何も言えなかった。
何かを伝えたいのに、自分の見たことが、どれも痛いものに思えた。
「あの人の名前は、ナセルというの」
ミナは顔を上げた。
「ナセルさん」
「ええ」
女性は部屋の隅の靴へ、一瞬だけ目を向けた。
「道で人に声をかけられると、なかなか帰ってこない人だったわ」
小さく息を吐く。
笑いかけたようにも見えたが、すぐに口元を押さえた。
ミナは膝の上で指を揃えた。
「戻ってきた人たちは、奥へ案内しました。私がいた場所では、みんな、そちらへ進めました」
言ってから、それ以上のことは足さなかった。
町の全部を見ていたわけではない。
ナセルが最後に何を考えたかも、知らない。
「……教えてくれて、ありがとう」
女性はそれだけ言い、目を伏せた。
ダリヤが、そっと話を引き取った。
今、家に来てくれる人はいるか。
食事や買い物で、困っていることはないか。
必要な手続きには担当者が改めて伺うこと。今日、すべてを決めなくてもよいこと。
「何が必要なのか、まだ、うまく考えられなくて」
「今は、それで構いません。こちらからまた、ご都合を聞きます」
隣の職員が、連絡先を書いた紙を置いた。
女性はそれを、卓上の小箱の下へ挟んだ。
帰るとき、ミナはもう一度、頭を下げた。
扉が閉じた後もしばらく、その場から足を動かせなかった。
*
馬車は、木陰のある小さな庭へ入った。
ダリヤが使う役所の脇だという。
「ここで休憩だ」
ミナは長椅子に座り、水筒の蓋を開けた。
今日は、あまり歩いていない。
それでも、肩が重かった。
「何を言えばよかったのか、分かりませんでした」
ダリヤはすぐには答えなかった。
職員から受け取った杯を持ち、隣へ腰を下ろした。
「一度会って話しただけで、できることは多くない」
庭の外を、荷車が通っていった。
「明日も、その次の日も、あの家では暮らしが続く。そのとき必要になる助けを、途切れさせないようにしたい」
ミナは、水筒を両手で持った。
食堂を閉めた後のことを思い出した。
店主のいない台所で、どの鍋から片づければいいのか、分からなくなった日があった。
食べるものはあった。
でも、何を作りたいのかは浮かばなかった。
「私も……少し、覚えがあります」
ダリヤは静かに頷いた。
続きを促さず、杯の水を飲んだ。
しばらくして、職員が遠慮がちに近づいてきた。
「ダリヤ様。次の打ち合わせですが」
「少し待ってもらおう」
「いえ、皆さん先に昼食をと。ユスフさんからも、食べる人数を早く決めてほしいと」
ダリヤが、ほんの少し目を丸くした。
「それは、こちらが返事を待たせているな」
ミナの肩から、わずかに力が抜けた。
*
食堂へ着いたときには、昼の忙しい時間を過ぎていた。
入口の札には、今の営業時間が書き直されている。
中では、作業着の人たちが三つの卓を囲んでいた。
眠そうに匙を動かしている人。隣へ紙を広げ、食べながら相談している人。
「紙は皿の向こうに置いて。汁、飛びますよ」
バスマの声がした。
ミナは懐かしいものを聞いたような気がした。
何日か来なかっただけなのに、入口で立ち止まってしまう。
「あら。今日はお客さん?」
「はい。お邪魔します」
「じゃあ、こっち。座っててね」
台所へ向かいかけていた足を、卓の方へ向け直した。
ダリヤに見られていることに気づき、ミナは背筋を伸ばした。
「何も、していません」
「うん。今のところは」
隣の職員が咳払いをした。
少し笑っていた。
出てきたのは、ひよこ豆と青菜を合わせた温かい麦飯だった。
砕いた木の実が散らされ、小皿に酸味のある漬け野菜が添えてある。
「今日は煮汁がよく出たから、麦に吸わせたの」
バスマが言った。
ミナは一口食べ、もう一度皿を見た。
麦の中まで、野菜と肉の味が入っている。
「豆は、後で混ぜたんですね」
「崩れちゃうからね。別に炊いてあった分を使った」
「私、こういう使い方はしていませんでした」
「じゃあ、元気になったら一緒に作ろう。今日は食べ方の練習」
漬け野菜を少し混ぜると、口の中がさっぱりした。
ミナは匙を止めずに頷いた。
ユスフが帳面を持ってきたのは、ダリヤが半分ほど食べた頃だった。
「明日の昼ですが、作業組が増えます。同じ時刻に来られると、席が足りません」
「食べる場所を増やす?」
「食器と運ぶ人も必要になります。まず、来る時間を二つに分けられないかと」
職員が手元の紙を開いた。
ダリヤは匙を置き、作業場所ごとの人数を聞いた。
ミナは、台所の鍋へ目を向けた。
人数が増えたら、大きい鍋を使う。
自分なら、最初にそう考える。
けれど、料理ができても、座る場所がなければ食べにくい。
一度に人が抜ければ、止まってしまう仕事もある。
「ここの組は、交代で来てもらおう。戻る道も近い。遠い組には、先に時間を知らせて」
話が決まると、ユスフが帳面へ線を引いた。
明日の食堂の動きが、少しずつ決まっていく。
ミナは残りの麦飯を食べた。
空になった皿は、卓の端へ寄せるだけにした。
*
宿へ戻ったのは、日が傾くより前だった。
ダリヤはこの後、役所で報告をまとめるという。
「王国へも、こちらから正式に伝えることがある」
「グレンさんたちに、ですか」
「彼らにも。そして、彼らを送り出す国にも」
ダリヤは、職員の抱えた書類へ目をやった。
「誰が何を確かめ、誰の判断で動いたのか。助けてもらったことも含めて、記録を残す必要がある」
配信の文字板で見ていた名前が、急に遠い場所の人のものに思えた。
それでも、ミナが道を尋ねたとき、答えてくれたのは同じ人だった。
「私からも、お礼を伝えたいです」
「それは、君の言葉で伝えるといい」
馬車を下りるとき、ダリヤが手を貸してくれた。
「今日、何か覚えたかい?」
ミナは少し考えた。
「板をどこに使うかで、休める人が変わること。ご飯を食べに来る時間も、仕事のうちだということ」
「うん」
「それと……私が知らない料理が、まだ、ここにもありました」
ダリヤの目元が緩んだ。
「そこは、帰ってきたらしいな」
ミナも、小さく笑った。
階段は、帰りの方が少しつらかった。
手すりを使って上がり、部屋へ入ると、すぐに椅子へ座る。
無理をしなかったつもりでも、今日はここまでだった。
記録帳を開く。
採ったものも、売ったものもない一日だった。
それでも、書いておきたいことはいくつもあった。
ナセルという名前。
明日の交代の時間。
食堂で食べた、豆の入った麦飯。
最後の行に、元気になったら教わる、と書いた。
窓の下で、店じまいをする音がした。
板を引く音と、明日の約束を交わす声。
ミナは記録帳を閉じ、夕食の時間まで、少し横になることにした。
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