第96話 慧眼
王都セントリアへ戻ったレオンが、最初に机へ置いたのは、土産の包みではなかった。
革紐で束ねた調査記録。
観測点を書き込んだ地図。
現地の担当者と、今後も確かめる項目を取り決めた紙。
窓から差す光は、まだ机の端まで届いていない。
帰還を知らせたばかりのレオンの外套には、旅の埃が残っていた。
「詳しい報告は、休まれてからでも」
記録を受け取る役人に言われ、レオンは椅子へ座った。
「残してきた確認事項だけ、先にお願いします。帰り道の間にも、向こうでは観測を続けていますから」
共同調査の予定は終えていた。
持参した道具も役立ち、当初見込んでいた日数より余裕を持って、必要な地点を回ることができた。
ただし、すべてに答えが出たわけではなかった。
レオンは、一枚の紙を上へ出した。
「この観測点です。近くの地点より、魔力の値の動きが大きい。道具の故障は確かめましたが、地形や季節によるものかは、滞在中の記録だけでは判断できませんでした」
「継続の観測は?」
「担当を決めてもらっています。条件を揃えて測ることと、周辺の変化も記録すること。結果は、現地の役所でも確認する手順です」
役人が頷き、筆を動かした。
「周辺の変化、というのは」
「水や植生、それに魔物です。揺れが続いたり、範囲が広がったりするなら、生息域へ影響する可能性があります」
レオンは、そこで一度言葉を切った。
「俺が出発した時点で、広い範囲の移動を確認したわけではありません。そこは、分けて書いてください」
記録を取る手が止まり、書き足された。
最後に確認した日付も、横へ添えられる。
自分がいたときの様子を、今も同じだと言うことはできない。
帰途についた後に増えた記録は、こちらの束には入っていなかった。
「こちらからも、現状を照会します。関係する冠位の方々には、本日中に要点を回してよろしいですね」
「お願いします。測定の詳しいところは、別の紙にまとめてあります」
レオンは束の端を示した。
説明のために開いていた手を下ろすと、ようやく肩の重さに気づいた。
「……あと、持ち出した道具の返却先を教えてもらえますか。借りたときより箱が増えてしまって」
役人が机の横を見た。
調査用の箱の上に、小さな包みがいくつも載っていた。
「それも観測の資料ですか」
「そちらは香辛料です。混ぜないようにはしてあります」
役人が少し笑い、別の係を呼んだ。
*
サハルの午後は、川から吹く風が涼しかった。
ミナはギルドの外の腰掛けで、帳面を開いていた。
隣にサフィナが座り、ハーシムは柱のそばに立っている。
明日受ける依頼を決める前に、三人の予定を確かめていた。
水晶を置く場所は、受付で聞いてある。
通る人の顔や、ほかの依頼の紙を映さないよう、向きを手元へ寄せた。
「昨日は、夕方の料理を作る方のお手伝いをしました」
配信を始めて少し経つと、文字板に名前が並んだ。
〈川風:早い時間にも開いてたの、それか〉
「はい。見回りの方や、荷の仕事をしている方の分だそうです。私は野菜を切るところまででしたけど」
〈灰ねこ:自分が仕上げない料理の準備か〉
「いつもより大きく切ってくださいって、教えてもらいました。長く煮ても崩れないように」
サフィナが帳面の端を覗いた。
「それも書くんだ」
「次にお手伝いするとき、同じにできるので」
「あたしだったら、次に食べに行く日を書くなあ」
「それは、こちらです」
ミナが別の頁を開くと、サフィナが笑った。
次の担当日を、そのまま指さしていた。
ギルドの戸が開いたのは、そのときだった。
「採取へ出る予定の方は、新しい案内を確認してください」
職員が紙を持ち、掲示板へ向かった。
近くにいた冒険者たちが集まる。
ハーシムも、柱から離れた。
「俺が見てくる。まだ依頼は決めるなよ」
ミナは頷き、開いていた予定の頁を押さえた。
紙を留める音の後、職員の説明が聞こえてきた。
ベルサの林より先の谷で、複数の魔物の移動が確認されたこと。
指定された林道へは入らず、帰着の際も案内された道を使うこと。
いつもと違う場所で獣や魔物を見たら、追わずに場所と時刻を知らせること。
「ザイード隊長のところからか」
掲示を見ていた男が尋ねた。
職員が頷く。
「討伐隊は谷で対応を続けています。周辺の見張り所にも連絡が回っています」
「なら、向こうは任せておけばいいな」
「あの谷なら、町から随分あるしなあ」
男たちは地図を見直し、別の依頼について話し始めた。
職員は、町の外で働く人も出発前に案内を確認するよう、もう一度伝えた。
ハーシムが戻ってきた。
「明日の場所は、今のところ対象に入っていない。ただ、朝にも確認しよう」
「はい」
ミナは、出発前、と帳面へ書いた。
ベルサの木へ戻る予定は、もともとない。
けれど、掲示を見ずに昨日と同じ道を選ぶことは、やめておこうと思った。
*
グレンの水晶から、職員の声が途切れ途切れに聞こえていた。
昼過ぎに届けられた書類が、机の右側にある。
レオンの帰還報告の要点だった。
魔力の観測値の揺れ。
継続した場合に考えられる、生息域への影響。
報告には、調査当時の日付が記されている。
今、水晶の向こうで読み上げられたのは、昨日起きたことだった。
グレンは筆を置いた。
棚から地図を出し、机の上の紙を片側へ寄せる。
エルディアの街道と主な河川を記した広域図だった。
サハルは載っている。ベルサもある。
だが、林の中の谷は、小さな線に埋もれていた。
〈灰ねこ:こなべさん。今の案内は、どの谷のことか分かるか?〉
水晶の向こうで、ミナが文字板へ目を落とした。
『私には、まだ。サフィナさんなら……』
顔が画面の外へ向く。
少し待つと、別の声が答えた。
『ベルサの林から東へ回ったところ。あたしたちが樹脂を採った場所とは違うよ』
〈灰ねこ:その谷から流れる水は、どこへ出る?〉
『えっと。地図、借りた方が早いかな』
グレンは返事を待ち、紙へ地名だけを控えた。
線を引くには、まだ足りなかった。
*
ミナは受付で、配信に映してもよい案内図があるか尋ねた。
職員は、採取人へ配っているものを一枚出してくれた。
「こちらなら。ただ、更新があれば変わりますから、今日の案内だと伝えてくださいね」
「ありがとうございます」
腰掛けへ戻り、三人で紙を広げた。
ミナは水晶の向きを下げ、端を手で押さえた。
「今日、ギルドで配られている地図です」
サフィナが、小さな谷を指した。
「ここから、この沢。下で別の流れと一緒になる」
〈灰ねこ:その合流までに、急な崖や滝はあるか?〉
「上の方は知らない。下は、雨の少ない時期に歩いたことあるよ。岩は多いけど、崖にはなってない」
分からない場所は、指を止めたままにした。
ハーシムが横から覗く。
「合流した先なら、俺も通った。荷車は無理だが、岸を歩けるところはある」
短い間があった。
〈灰ねこ:町へ向かう道と交わるのは、どこだ?〉
サフィナの指が、紙の下へ移った。
「この辺。川岸に作業小屋があるから、そこへ行く道が……」
そこで指が止まった。
ミナも、その場所を知っていた。
川沿いを歩いたとき、舟から降ろした荷を積み直していたところだ。
町の中心ではない。けれど、そこで働いた人たちは、夕方には町へ戻ってくる。
「ここまで、来るんですか」
口にしてから、水晶へ顔を向けた。
〈灰ねこ:来ると決まったわけじゃない。俺には今の水量も、途中の足場も分からない〉
次の文字が続いた。
〈灰ねこ:ただ、谷から出たものが通れるなら、町の外縁までつながる。距離があるだけでは、除いていい道にはならない〉
ミナは紙の上を見直した。
自分が歩くなら、休憩する場所と、帰りの時刻を考える。
荷車なら、橋と道幅を確かめる。
そのどちらでもないものが、今まで使わなかった場所を通るとしたら。
「ザイード隊長がいるのは、こっちだよね」
サフィナが谷の入口へ指を戻した。
〈灰ねこ:ああ。そこで対応してくれる人がいるのは心強い。だが、そこを通らずに動くものまで、全部止められるとは限らない〉
ミナは、ベルサで渡された地図を思い出した。
入らないようにと言われた線は、人が守る約束だった。
魔物が、その線の内側に留まるわけではなかった。
文字板へ、川風の名が出た。
〈川風:あの作業場、今朝も人はいたよ。仕事で寄った〉
ミナの手が、紙の端を少し強く押さえた。
〈灰ねこ:こなべさん。確かめに行かなくていい。まず、その経路を守備の責任者に確認してもらってほしい〉
「……はい」
ハーシムが頷いた。
「俺から話す。地図は、そのまま借りていこう」
*
受付の職員は、ハーシムの説明を最後まで聞いた。
それから、地図に示された沢を確かめた。
「町の側でも巡回は増やしています。ただ、私のところでは、この岸をどこまで見ているかは分かりません」
奥の係へ声をかけ、守備隊との連絡を頼む。
ミナは、ほかの来訪者が映らないよう、水晶を自分へ向けていた。
「何頭もこちらへ来ている、と確認されたわけではないんですね」
「はい。今、見てくださっている方から、通れる道かもしれないので確認してほしいと」
「分かりました。目撃の報告とは分けて伝えます」
職員は紙へ書き、もう一度顔を上げた。
「その方は、こちらの地形に詳しい方ですか。それとも、魔物の移動を扱うお仕事を?」
ミナは答えかけて、止まった。
灰ねこさん。
最初にテントの張り方を教えてくれた人。
包丁を持つ手が震えていたとき、避けろと言ってくれた人。
自分が、その人の助言を信じる理由は、いくつもあった。
けれど、それをこの場で全部話しても、職員が確かめたいことへの答えにはならない。
「遠征で、人を率いるお仕事もされている方です。ただ、お名前は……」
文字板へ目を向けた。
*
グレンは、開いた地図の端に文鎮を置いた。
すでに見張りがいれば、それでよかった。
地図にはない崖や深みがあり、通れないと分かるなら、その情報がほしかった。
だが、確かめる相手へ届かないまま、可能性だけを配信へ残すわけにはいかなかった。
自分の机にあるのは、古い広域図と、昼過ぎに届いた報告の写し。
向こうには、道を歩いた人と、今の町を守る人がいる。
判断に必要なものは、まだ分かれていた。
グレンは文字を入れた。
〈灰ねこ:こなべさん。必要なら、俺の名を伝えていい〉
水晶の向こうで、ミナが小さく息を吸った。
グレンは続けた。
〈灰ねこ:アルセリア王国の冠位、グレンからの照会だ。守備を預かる人につないでほしい。身元の確認にも応じる〉
*
ミナは、届いた文字を読み直した。
それから受付へ向き直った。
「アルセリア王国の、グレンさんです。冠位の……万象冠の方です」
職員の筆が止まった。
「万象冠、グレン様?」
「はい。守備を預かる方につないでほしいと。身元の確認にも応じる、と言ってくださっています」
サフィナがミナを見た。
ハーシムは一度、水晶へ目を向けたあと、職員の返事を待った。
受付の職員は、手元の紙を揃えた。
「か、確認を取ります。少し、お待ちください」
奥へ向かう足音が、さっきより速かった。
ミナは、水晶を両手で支え直した。
文字板には、いつもと同じ名前が残っている。
灰ねこ。
その向こうで今、どんな顔をしているのだろう。
ミナは、地図を広げる大きな手を思い浮かべた。
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