第95話 不穏
食堂へ返事を聞きに来た役所の職員に、ユスフは三日分の予定を渡した。
朝と夜の欄には、別々の名前が入っている。
ミナの名前は、翌日の昼の仕込みにあった。
「この時間なら、手伝えます」
前日に自分で確かめてから、書いてもらった名前だった。
午前はサフィナたちと近場へ採取に行く。昼に戻って納品し、食事を済ませてから食堂へ来る。
いつもの担当日ではないので、夕方の調理は別の料理人に任せる。
「夜の分まで残らなくていいからね」
バスマに言われ、ミナは頷いた。
「はい。切っておくものを、教えてください」
「それは明日、届いた野菜を見て決めよう。今日は帰って、明日の支度」
前掛けへ伸ばしかけた手を止めた。
予定を聞きに来ただけだったのに、台の上の玉ねぎを見ていると、つい手を動かしたくなってしまう。
「……では、また明日」
「うん。また明日」
バスマは笑って、玉ねぎの籠を自分の方へ寄せた。
*
翌朝のギルドには、採取地を確かめる人が並んでいた。
掲示された地図を見ながら、ミナは昨日もらった依頼の紙と照らし合わせた。
町の南側、水路を離れた低い丘。
そこは今朝も、採取が認められていた。
「同じところへ行く人、増えたね」
サフィナが受付を振り返った。
ベルサ方面の区画を選べなくなった人が、こちらへ回っているという。
「今日は、葉を採るだけですか」
「うん。根は残して。薬師のところ、乾かした葉はあるけど、生のまま使う分が減ってるんだって」
必要なのは、ミナがこちらへ来てから覚えた薬草だった。
葉の裏に細かな毛があり、雨の後には土がつきやすい。
サフィナに教わっていなければ、袋へ入れる前に強く拭いて傷めていたかもしれない。
「昼までには戻る。増やして受けるのは、今日はやめておこう」
ハーシムが言った。
ミナは依頼の紙を畳み、袋へしまった。
*
丘の手前には、もう二組の採取人がいた。
道に近い株は、ところどころ葉が減っている。
切り口は新しかった。
「ここ、先に採った人がいるね」
サフィナはしゃがみ、残った葉を持ち上げた。
中心には小さな葉が畳まれていた。
「この辺は残そう。向こうの石垣沿いを見てみる」
「日陰になっている方ですか」
「そう。少し育つのが遅いけど、今ならちょうどいいのがあるかも」
ハーシムが先に道を確かめた。
立ち入りを許された範囲の中で、三人は場所を変えた。
石垣に近い株には、傷の少ない葉が残っていた。
ミナは裏側を確かめ、指定された大きさのものを選んだ。
採る前に、袋を置く平らな場所を探す。
柔らかな若葉まで引っかけないよう、一本ずつ手を添えた。
「そっちは、まだあるかい」
道から年配の採取人が声をかけた。
サフィナが立ち上がった。
「あるよ。でも、手前はもう採られてる。あたしたちは奥の列だけ回るね」
「じゃあ、こちらは下の段を見る」
男は連れへ声をかけ、斜面を下りていった。
ミナは帳面の端へ、採った場所を書き足した。
「いつもより、細かく分けるの?」
「次に来たとき、同じところを先に探さなくて済むかなと思って」
「あ、それなら、あの倒れた石も描いといて。草だけだと、伸びたら分からなくなる」
サフィナが指した石を、小さく加えた。
昨日ギルドで見た地図には、そこまで載っていなかった。
林へ入れなくなった人が、こちらへ来る。
こちらで採る人が増えれば、次には別の株を探す必要がある。
閉じられた場所から遠くても、何も変わらないわけではなかった。
必要な葉が揃ったところで、手を止めた。
残りを数え、茎の向きを揃えて包む。
サフィナが持つ分と合わせても、帰りの袋は大きく膨らまなかった。
「これで、足りますね」
「ああ。戻ろう」
ハーシムが道へ目を向けた。
遠くで見回りの二人が、畑仕事の人と話していた。
この丘では、鳥もいつもどおりに鳴いていた。
*
納品口で包みを開くと、職員が葉の間を確かめた。
「潰れていませんね。これなら、そのまま薬師へ回せます」
ミナは受領の紙を受け取り、採った区画も伝えた。
職員はほかの採取人の記録と並べ、石垣の側へ印をつけた。
「明日ここへ行く方にも、手前の株は休ませるよう案内します」
サフィナが、下の段へ別の組が入っていたことを付け加えた。
その結果は、まだ届いていなかった。
職員は確認待ち、と書いた。
外へ出ると、昼の食べ物を売る声が聞こえた。
三人で豆と卵の皿を食べ、ミナは食堂へ向かった。
午後の分まで動けるように、最後の豆も匙ですくった。
*
「小さな店主、今日は腹の減ったやつがまとめて来るぞ」
食堂の戸を開けると、荷運びの男が言った。
ユスフへ紙を届けに来たらしい。
「何人くらいですか」
「それがな。戻る舟が、まだ決まってなくて」
男が頭をかく横で、ユスフが紙を受け取った。
「確定した班は、こちらだな。残りは決まってから知らせてくれ。今の人数で全員分とは数えない」
「分かった。先に言っておかないと、また売り切れると思ってさ」
「知らせてくれるのは助かるよ。分かっている分からでいい」
ミナは厨房へ入り、手を洗った。
バスマが、皮をむいた根菜を台へ並べている。
今日は別の料理人が、豆と肉を煮込んだものを作るという。
客が来たときに、班ごとの分を温め直して出せるよう、小さな鍋も用意されていた。
「この大きさで、揃えてもらえる?」
夕方を担当する料理人が、根菜を一つ切って見せた。
ミナが普段煮込むときより、少し大きい。
「長く煮ても、形が残るようにですか」
「そう。味は、こっちで最後に合わせる。葉物は別にしておいてくれ」
「はい」
包丁を取り、切ったものを広い器へ移していく。
自分が火を止める料理ではない。
使う人が扱いやすいよう、言われた大きさを守った。
バスマは夜の分の布巾を用意していた。
給仕の女性が、人数の決まった紙を台へ持ってくる。
「最初の班、交代が早まったって。一刻ほど早く来るそうです」
料理人は鍋の中を見てから、ユスフへ顔を向けた。
「煮込みは間に合う。麦の方を先に始めたい」
「では、後の班の分と分けよう」
ミナは切り終えた器を渡し、空いた台を拭いた。
バスマが、その場所へ麦の入った鍋を置く。
いつもの営業前とは違い、仕込みの途中にも予定が動いた。
誰かが声をかけるたび、自分が今どこを空ければいいかを確かめた。
約束した時刻には、野菜の下ごしらえが終わった。
残した葉物の器を示し、切っていない分の数を伝える。
「助かった。あとは、こちらでやるよ」
料理人が、味見の匙を置いた。
「お疲れさまでした」
ミナは前掛けを外した。
もう少し残れば、最初の客へ皿を出すところまで見られそうだった。
でも、今日はここまでと決めていた。
戸口で振り返ると、バスマも荷物を持って出てきた。
「帰ろうか」
「はい」
厨房では、次の人が鍋をかき混ぜていた。
*
同じ日の午後、ザイードはサハルから離れた谷の入口にいた。
砂地には、小さな蹄の跡と、指の長い足跡が重なっている。
この数日、東側の水場や尾根を確かめてきたが、集まっている種類は場所ごとに違っていた。
追ってきた大型の魔物が一頭いる、と考えるだけでは説明がつかなかった。
「上の林にいるはずのものまで、下りています」
隊員の女性が言った。
同行する観測員が、川辺の石へ測定の道具を置く。
ザイードは谷の奥を見た。
枝が、一本折れた。
「測定を止めろ。右の岩まで下がれ」
声を張り上げるより早く、隊員たちが動いた。
観測員が道具を持ち上げる。
その手から紐が滑りかけた。
「それは置いていい。足元を見ろ」
ザイードが前へ出た。
木々の間から現れたのは、灰褐色の硬い毛を持つ魔物だった。
猪に似ているが、肩の高さは人の胸ほどもある。
額から鼻にかけて、岩のような板が重なっていた。
岩額獣。
突進をまともに受ければ、荷車の側板でも砕かれる。
鼻先が土を掘った。
細い木が根元から揺れる。
その向こうには、もう一頭分の影があった。
「奥を見ていろ。こちらへ寄せるな」
弓を持つ隊員へ告げ、ザイードは長柄の鉈を構えた。
幅のある刃の背には、枝を払った傷がいくつも残っていた。
岩額獣が駆けた。
重い足音が、谷に反響する。
ザイードは避ける方向へ、すぐには動かなかった。
自分の後ろを、最後の観測員が横切るのを待った。
牙が近づく。
そこで初めて、左へ踏み込んだ。
体の周囲で魔力が短く揺れた。
鉈の刃が、伸びきった前脚の内側へ入る。
切り抜けた柄を引き戻しながら、ザイードは岩の横へ回った。
魔物の肩が地面へ落ちた。
それでも、止まらない。
土を削り、額を岩へぶつけて向きを変える。
「まだ射つな」
背後で弓を引く音が止まった。
ザイードは、倒れた獣の目を見ていた。
岩と自分の間へ、頭をねじ込もうとしている。
短く息を吐く。
踏み込んだ足が、砂利を押し沈めた。
振り下ろされた刃は、額の板を狙わなかった。
首の横、厚い毛の下へ深く入った。
身を返そうとする重さを柄の角度で逃がし、二度目で動きを止める。
遠くで、矢が木を叩いた。
奥の一頭は、その音から逃れるように斜面を上った。
「追わなくていい。向かった先を記録しろ」
ザイードは刃を抜いた。
足元の血を避け、観測員たちを振り返る。
「全員いるか」
「はい。怪我もありません」
「なら、道具を拾ってこい。二人つける」
若い観測員が、震える手で頷いた。
ザイードは倒れた魔物の前へしゃがんだ。
腹は極端に痩せていない。
今つけた傷のほかに、大きな噛み傷も見当たらなかった。
「餌がなくなって、下りたのでしょうか」
「それだけなら、昨日の水場に残るものがいてもいい」
谷には、普段ここで見ない獣の糞も落ちていた。
一種類が移れば済む話ではない。
この狭い場所で、何種類も餌と水を取り合うことになる。
「ここへ来た理由と、この先へ出る理由は、別になるかもしれんな」
ザイードは立ち上がり、隊員へ下流側の確認を命じた。
*
夕方、野営場にファリドからの報告が届いた。
観測点ごとに並べられた数字には、測定した時刻と川の水位も添えられている。
以前、王国の冠位と調べたときに揺れの出ていた場所だけではない。
その後も測り続けた結果、別の地点でも、それまでの幅を外れる値が出始めていた。
観測員が、地図へ順に印を置いた。
「水位だけでは説明できません。道具を替えて測り直した分でも、同じ傾向が出ています」
「魔物が移った場所との重なりは?」
「あります。ただ、全部ではありません。変化が先か、移動が先かも、まだ」
ザイードは、昼に確認した足跡の場所を指でなぞった。
採取人の記録、巡回の報告、観測員が繰り返し測った数字。
一枚ずつでは小さかった違いが、地図の上で広がっていた。
「原因の調査は続ける。だが、動いたものは、原因が分かるまで待ってはくれん」
机の端から、連絡用の紙を引き寄せた。
確認した谷と、逃げた個体の方向を書く。
まだ見ていない道には、何もいないという印をつけなかった。
「周辺の見張り所へ送れ。ファリドとサハルの役所にも、同じものを」
「討伐隊は、こちらに残しますか」
「ああ。この谷を空けるわけにはいかない」
ザイードは地図から目を上げた。
「調べる者は残す。町へ知らせる者を、先に出せ」
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