第93話 いつもと違う跡
「北の沢へ下りる道です。前は、こんなところを通っていなかったんですが」
野営場の管理人が、地図へ指を置いた。
ザイードは火の明かりを避け、紙を少し傾けた。
「見たのは、いつだ」
「三日前です。荷を取りに戻った者が、草が広く倒れていたと。その翌日に、私も見ました」
「獣そのものは?」
「見ていません」
ザイードは頷いた。
そばにいた隊員の女性が、日付と場所を書き留める。
「明朝、先に確かめる。アミラたちは、それまで北へ入らないでくれ」
「手前の林も、止めますか」
「今夜、そこを閉じる根拠はない。ただ、朝の見回りで何か出れば変える。出る前に管理の者へ聞いてほしい」
ミナは、自分の地図の端へ小さく印をつけた。
明日の道順は、まだ決め直さなくていい。
先に確かめてもらうのを待つ。
ザイードが顔を上げ、ミナの手元を見た。
「君も、採取の一行か」
「はい。ミナです。サハルから来ました」
「そうか。今日はもう休んでいい。朝の話は、全員に伝える」
言われて、ミナは帳面を閉じた。
地図を見ているうちに、明日のことを、今すぐ全部決めなければならない気がしていた。
「ありがとうございます」
ザイードは軽く頷き、管理人との話へ戻った。
*
テントへ入ると、外の声が少し遠くなった。
敷いた布の上へ膝をつき、寝具を広げる。
頭を起こしたとき、天井へ触れない場所を確かめた。
槍は決めた位置へ置き、小盾と靴は入口のそばへ揃えた。
「ミナ、起きてる?」
外からサフィナが呼んだ。
「はい」
「夜中に外へ出るなら、声かけてね。私、隣だから」
「サフィナさんも、呼んでください」
「うん。おやすみ」
足音が離れた。
今夜の見張りは、ハーシムも含め、慣れた者で交代することになっている。
ミナは見張り役の位置と、何かあったときに集まる場所を思い出した。
横になると、地面の硬さが肩に伝わった。
布の向こうで、誰かが薪を動かしている。
下宿の寝台とは、ずいぶん違う。
しばらくは、小さな音のたびに目が開いた。
それでも、次に聞こえたのは、朝の湯を沸かす声だった。
*
「肩、固まった?」
テントから出て腕を回していると、サフィナが笑った。
「少しだけ。でも、眠れました」
朝露で、テントの表が湿っていた。
すぐ畳まず、朝食と荷物の確認を先にする。
ハーシムは交代のあとに休めたようで、湯を飲みながらアミラと話していた。
ザイードたちが戻ってきたのは、そのころだった。
外套の裾に、濡れた葉がついている。
「北の沢へ下りる区画は、今日は使わない。手前の採取地までなら通れる」
地図が広げられた。
隊員の女性が指した線は、ミナたちが回る予定の端にかかっていた。
「奥の六本は、やめておきましょう」
アミラが言った。
「午前のうちに手前を終えて、町へ戻ります」
「ああ。人数をばらけさせずに進んでくれ」
見つかったのは、複数の獣が沢へ向かった跡だったという。
大きさの違う足跡が重なり、一部は斜面の高いところから下りていた。
何から逃げたのか、ただ水を求めて移ったのかは、まだわからなかった。
「俺たちは沢の上を調べる。林の作業道には、別の見回りを置く」
ザイードが言い終えると、管理人は掲示用の板を出した。
使えない区画と、通れる道が書き込まれていく。
ミナは自分の地図にも同じ線を引いた。
奥の木を見られない分、採れる量は減る。
けれど、依頼そのものがなくなったわけではなかった。
*
テントは、布の表を拭いてから畳んだ。
縫い目のそばには、まだ少し湿り気が残っている。
「帰ったら、もう一度広げます」
ミナが言うと、ハーシムは頷いた。
「そのまま袋へ入れっぱなしにしないようにな」
杭を数え、抜いた場所に忘れ物がないか確かめる。
広げる前と同じ地面へ戻ると、少し寂しかった。
昨夜は、ここが自分の寝る場所だった。
荷物を背負い直す。
肩に紐が落ち着くのを待ってから、ミナは歩き出した。
*
午前の林は、昨日より涼しかった。
持ち主の印が映らないよう水晶の向きを確かめ、手元を中心に配信を始める。
「今日は、見られる区画が少し変わりました。現地の方に確認していただいた道を通っています」
細かな場所の説明はしなかった。
文字板には帰り道さんの名前があり、気をつけて、と短く届いた。
最初の木で、ミナは昨日借りた道具を取り出した。
樹脂の下へ先を入れる前に、端の浮いているところを探す。
「そっちは残して。色が濃くても、まだ柔らかいよ」
アミラの声に、手を止めた。
別の塊へ道具の腹を軽く当てると、確かに、さっきより硬い感触があった。
「見た目だけでは、決められないんですね」
「日に当たる側と、陰でも違う。何本か触れば、わかってくる」
ミナは頷き、採れた分を容器へ入れた。
サフィナが番号を確かめて蓋をし、籠へ収める。
二人の間で、昨日ほど容器が行き来しなくなった。
先に次の札を用意しておくと、樹脂のついた手で紙に触れずに済んだ。
「この順番、いいね。手袋が紙にくっつかない」
サフィナが言った。
「昨日、少し破いてしまったので」
「見た。こっそり裏返してたでしょ」
ミナは笑って、次の容器を受け取った。
*
四本目の木へ近づいたとき、アミラが足を止めた。
「ここもか」
根元の草が倒れていた。
幹の採取口より下には、泥が擦れたような跡がある。
ハーシムが前へ出て、地面を見た。
現地の見張り役は、少し離れて周囲を確かめている。
「皆、そこで待ってくれ」
ミナは道具をしまい、サフィナの隣へ戻った。
何の足跡なのか、自分にはわからなかった。
昨日見た沢の話が頭に浮かんだが、同じものとも限らない。
「アミラさん、この木は、前にも採ったんですよね」
「九日前。この列は、私が見た」
「そのとき、幹の泥はありましたか」
アミラは首を傾げた。
「これほど広い跡なら、気づいたと思う。ただ、根元までは書いてないね」
ミナは帳面を開いた。
前回の採取では気づかなかった、と書く。
なかった、と書きかけたところは、直した。
草の倒れている範囲は、作業道の幅より広かった。
人が籠を下ろして踏んだだけなのか、何かが通ったのか。
ミナは考えながら、今立っている場所から見える形を描いた。
ハーシムが戻ってきた。
「いくつか足跡がある。俺だけでは種類を決められない。ここから先は、いったん止めよう」
アミラは迷わず頷いた。
「戻り道の三本は、見ながら帰れますか」
「さっき通った範囲までなら。ただ、時間はかけずに」
見張り役が合図の笛を短く吹いた。
返事が、作業道の向こうから聞こえた。
朝、配置された見回りが近くにいる。
ミナは帳面を閉じた。
地面に近づかなくても、今書けることは書けた。
*
来た道を戻ったところで、見回りの二人と合流した。
一人が一行について歩き、もう一人が跡を確かめに向かう。
帰りに見た三本のうち、採れたのは一本だけだった。
残りは柔らかく、まだ外せない。
ミナは昨日と同じように、採取せず、と書いた。
今日の紙には、それとは別の欄もできた。
立ち入らず、未確認。
採れなかった木と、見られなかった木を分ける。
どちらも容器の中身は増えないが、次に来る人へ伝えることは違っていた。
林の入口まで戻り、アミラが人数と籠を確かめた。
ここで配信を終えると伝えると、文字が届いていた。
〈帰り道:無事に戻れてよかったです〉
「ありがとうございます。量は少なくなりましたけど、採った分は、これから届けます」
ミナは蓋の閉じた籠を見せた。
その横で、サフィナが肩の紐を直していた。
*
野営場へ戻ったところで、ザイードたちと会った。
朝とは別の道から来たらしく、靴には赤茶色の土がついている。
報告を聞くと、ザイードはアミラに木の番号を確かめた。
「前回の採取日は、残っているか」
「町の台帳にあります。九日前です」
ミナも帳面を差し出した。
「今日見た範囲は、こちらです。足跡の種類は、私にはわかりませんでした」
ザイードは絵を見て、隣に書いた時刻へ目を移した。
「木のこちら側から見たんだな」
「はい。地面には、近づいていません」
「それでいい。跡を調べる者が、あとを引き受ける」
隊員の女性が必要なところを写し、ミナへ帳面を返してくれた。
「これ、預けなくていいんですか」
ミナが尋ねると、ザイードは少し笑った。
「まだ君たちの仕事で使うだろう。こちらは写しで足りる」
確かに、町へ戻って納品するときにも必要だった。
ミナは帳面を受け取り、礼を言った。
「見つけたときに止まってくれて助かった。踏み荒らされる前なら、わかることもある」
その言葉で、ミナは少し息を吐いた。
何も突き止められなかったのに、戻ってよかったのだと思えた。
*
ベルサの倉へ着くと、容器は一つずつ開けられた。
受け取りの男が色と硬さを見て、混じった樹皮を確かめる。
落として土がついた分は、別の皿へ移された。
きれいな分とは値が違うと説明され、ミナは頷いた。
「この番号は、空か」
「柔らかかったので、採っていません。こちらの六本は、立ち入りを止めた区画です」
アミラが紙を示した。
男は読み比べ、台帳へ印をつけた。
「なら、全部を同じ日に回り直す必要はないな」
採取した量に応じた分と、確認して記録する仕事の分。
最初に決めた条件どおりに精算され、三人にも報酬が渡された。
ミナは硬貨をしまい、借りていた道具を返した。
「次は、落とさないようにします」
「最初より、手の力は抜けてたよ」
アミラが道具を受け取った。
「また来るなら、違う季節にもおいで。同じ木でも、採れるものの様子が変わるから」
ミナは顔を上げた。
「はい。見てみたいです」
いつ来られるかは、まだわからない。
それでも、次にベルサの名を聞いたときには、あの林と、甘い匂いを思い出すだろうと思った。
*
帰りの船では、サフィナが先に眠った。
袋を抱え、肩を船室の壁へ預けている。
「ミナも休んでいいぞ」
ハーシムに言われ、ミナは帳面をしまった。
今日は、船の中で書き足さなくてもよかった。
必要なことは、林と倉で残せている。
「ハーシムさんは、休まなくて大丈夫ですか」
「サフィナが起きたら、代わる」
ミナは頷き、背もたれへ体を預けた。
荷物の下に、畳んだテントがある。
町へ戻ったら広げることだけ、忘れないようにした。
目を閉じると、昨日の焚き火の音が浮かんだ。
今は、その代わりに船の横で水が鳴っていた。
*
その日の夕方、ザイードは野営場の机へ、二枚の地図を並べていた。
一枚は、今朝歩いた沢沿いの道。
もう一枚には、周辺の採取人や見回りから届いた報告が書き込まれている。
「水場を移っただけなら、この尾根を越える必要はありません」
隊員の女性が指した。
確認できた足跡には、種類の違うものが混じっていた。
すべてが同じ方向へ向かっているわけではない。
だが、以前は通らなかった場所を使い始めた群れが、ひとつではなかった。
「追っているものの跡は?」
「今のところ、見つかっていません」
ザイードは、地図の上から手を離した。
「たまたま見つからなかったのか、いないのか…。まずは水と餌、それに魔力の観測記録を照会する」
サハルでは、先日の調査を引き継いだ者たちが、観測を続けている。
そちらへ送る紙に、確認した場所と日付を記した。
昼に受け取った採取記録の写しも、一緒に重ねる。
「ファリドに届けてくれ。こちらは明日、東側を回る」
返事をした隊員が、紙を筒へ収めた。
野営場の外では、見張りが夜の交代を始めていた。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




