第91話 十四歳になりました
新しい鍋は、空っぽなのに、少し重かった。
ミナは柄を握り、持ち上げてみた。
前の鍋と、口の大きさはあまり変わらない。
底は少し厚く、蓋を置くと、縁へ落ち着いて収まった。
「こっちで、いいかい」
店の人に聞かれ、ミナは頷いた。
「はい。こちらをください」
先に調べておいた値段だった。
それでも、財布から硬貨を出すときには、もう一度数えた。
下宿代に残す分と、次の採取に必要な分は、別にしてある。
今日は、この分を使っていい。
店の人が、鍋の中へ蓋を裏返して入れ、紙で包んでくれた。
「いいもの作りな」
「はい。ありがとうございます」
受け取ると、包みの下へもう片方の手を添えた。
帰りには卵と乳、それから、少しだけ蜂蜜を買った。
今日は、十四歳の誕生日だった。
*
下宿の部屋へ戻り、机の上に二つの鍋を並べた。
古い方は、朝のうちに洗って乾かしてあった。
底には、落ちなくなった色が残っている。
柄を直してもらってから気をつけて使っていたが、職人に示された薄いところは、やはり指で触るとわかった。
ミナは新しい鍋の紙を外した。
明るい底に、自分の顔がぼんやり映る。
リュネールでも、旅の途中でも、夕飯を作るときに、いつも使った鍋。
食べるものが少ない日は水を足し、少し余裕がある日は、肉を足した。
新しい土地で買ったものも、この中で煮た。
「……お世話になりました」
小さく言って、相棒の内側へ乾いた布を敷いた。
少し視界が崩れる。
落ちる前の涙をふいたあと、予備の紐と、まだ使っていない包み布を入れてみる。
ちょうどよく収まった。
すぐに処分する気には、なれなかった。
今は部屋に置いておける。
帰りの荷物のことは、そのときに考えようと思った。
隣には、数日前に届いた包みがあった。
国を越えて運ばれてきた紙には、いくつもの印がついている。
見覚えのある字で、誕生日に開けて、と書かれていた。
ミナは椅子へ座り、紐を解いた。
*
中から出てきたのは、青緑色の布袋だった。
片手に載るくらいの大きさで、口を折り返すと、内側に小さな仕切りがある。
縫い目は細かく、底には、もう一枚布が重ねてあった。
端にだけ、白い小花の刺繍が並んでいる。
ミナは、花へ指を触れた。
店先で見たら、きっと値段を見てから、飾りのない方を選んでいたと思う。
畳まれた手紙を開く。
『ミナへ。
十四歳、おめでとう。
服にしようかと思ったけど、次に会うころには、また大きくなっているかもしれないから、今回はこれにしました。好きなものを入れてね。
食堂で働いているところ、記録で見たよ。お姉ちゃんにも食べさせてほしかったな。
忙しくても、ご飯と、休む時間は忘れないで。
手紙には、仕事以外のことも書いてくれると嬉しいです。おいしかったものとか、嫌だったことでもいいから。
また会えるのを楽しみにしてる。
セリカ』
最後の下に、小さく一行あった。
『追伸。買いすぎないように、ニーナが一緒に選んでくれました』
ミナは声を出して笑った。
服屋の前で立ち止まった姉と、その後ろにいたニーナを思い出す。
離れた町でも、同じように二人で店を覗いてくれたのだろうか。
櫛と、髪をまとめる紐を持ってきた。
袋の仕切りに一つずつ入れる。
口を閉じると、白い花が表に残った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
手紙は袋へ入れず、机の上に広げておいた。
返事は、今日のことが全部終わってから書きたかった。
*
夕方、使う時間を確かめてから台所へ下りた。
買ったばかりの鍋は先に洗い、湯を沸かして、もう一度すすいである。
配信を始め、卵を器へ割った。
「今日は、甘いものを作ります」
木の匙で卵をほぐし、乳を少しずつ混ぜる。
蜂蜜を加えて味を調えると、薄い黄色になった。
〈帰り道:お菓子だ。今日はそっちなんですね〉
「はい。新しい鍋で、最初に何を作ろうかと思って」
文字が一つ、増えた。
〈灰ねこ:こなべさん、その鍋、買い替えたのかい?〉
ミナは顔を上げた。
「気づきましたか。前のは底が薄くなって、柄も少し緩んでいたんです」
鍋を傾けず、蓋だけを持って見せた。
「直していただいたんですけど、次は買い替えも考えた方がいいと言われたので。今度のは、少し重いです」
〈灰ねこ:その大きさなら、旅にも持っていけそうだね〉
「はい。いつもの袋にも入ります。それと……」
ミナは蜂蜜の器を脇へ寄せた。
「今日で十四歳になったので。少し、奮発しちゃいました」
文字板が静かになった。
ミナは卵の液を漉し、小さな器へ分けた。
鍋の底へ敷いた布の上に器を置き、湯を注ぐ。
火を弱め、蓋をしたところで、文字が続けて届いた。
〈帰り道:お誕生日おめでとうございます!〉
〈灰ねこ:十四歳、おめでとう。良い一年になるといいね〉
〈こぐま:おめでとう。飯もしっかり食えよ〉
〈夕餉係:自分への贈り物なんですね。素敵です〉
「ありがとうございます」
返事をしている間にも、別の名前が増えた。
ミナは少し頬を熱くしながら、台の上へ手を揃えた。
「夕飯は、先に食べました。これだけではないので、大丈夫です」
*
バルドは、送った文字を確かめてから立ち上がった。
「なあ」
隣の部屋で、妻が繕い物をしていた。
針を持ったまま、顔だけを向ける。
「十四歳の女の子は、何をもらうと喜ぶ」
「誰の話?」
「ミナだ。今日、誕生日だと」
「それは、おめでたいね」
「ああ。で、何がいい」
妻は針を布へ休ませた。
「その子によるでしょう」
「それがわかれば、聞いてない」
「うちの子たちが十四のときは、あなた、何を贈った?」
バルドは考えた。
長男のときも、次男のときも、欲しいものを聞いた覚えがある。
どちらも、食べ盛りだった。
「肉は喜んだ」
「外国まで生肉を送る相談なら、私にはわからないよ」
「そういう話じゃなくてだな」
背後の水晶から、ミナの声がした。
火を強くしすぎると、なめらかにならないのだという。
「料理の道具は、どうだ」
妻が少し笑った。
「自分で気に入った鍋を買った日に、また鍋を?」
バルドは口を閉じた。
それから椅子を引き、妻の向かいへ座った。
「……もう少し、相談に乗ってくれ」
*
グレンの机には、贈り物の候補が並んでいた。
濡れても中身を守れる袋。
夜道で足元を照らす、小さな灯り。
軽く、丈夫で、長く歩いても疲れにくいもの。
どれも役に立つ。
それは間違いないのだが、読み返すと、依頼へ送り出す前の装備点検に見えた。
配信を見終えたあと、まだ工房にいたリゼを訪ねた。
話を聞いた彼女は、机へ工具を置いた。
「今日だったの?」
「俺も、さっき知った」
「……そう」
リゼはグレンの紙を受け取り、上から順に見た。
「誕生日のお祝いよ。遠征の支給品じゃないの」
「そう思って、聞きに来たんだ」
「なら、本人がいつも手に取るものがいいわね。小さくて、細かな調整ができて、使うと負担が減るような」
グレンが黙ってリゼを見た。
彼女も、途中で口を止めた。
「……補助具になりそうね」
「ああ」
二人で紙へ目を落とす。
「調理器具なら、どうだろう」
「包丁は除いてね」
「もちろんだ。あれに見劣りしないものを探す話にはしたくない」
リゼは指先で机を軽く叩いた。
「そもそも、道具の性能で張り合う必要はないでしょう」
「それも、わかってはいるんだが」
魔物への対処を相談するときより、話が進まなかった。
リゼは新しい紙を取り、まず『おめでとう』と書いた。
「これが先ね。品物は、明日になっても選べるわ」
*
オルヴェンが誕生日を知ったのは、家族との夕食を終え、配信の記録を見たあとだった。
「十四歳の子への贈り物で、相談があるんだが」
居間へ戻って言うと、孫が顔を上げた。
「何が好きな子?」
「料理が好きだね。よく、工夫を教わっている」
「じゃあ、おじいちゃんが教わった料理を作ってあげたら?」
オルヴェンは、返事をしかけて止まった。
「……今は、遠い国にいるんだ」
「会ったときに、でもいいんじゃない?」
それは、考えていなかった。
食べさせてもらうことばかり、楽しみにしていた気がした。
「そうだね。まず、練習が要りそうだ」
「味見するよ」
オルヴェンは笑った。
明日の予定を思い浮かべ、台所を使える時間を家族に尋ねた。
*
鍋の蓋を取ると、湯気の向こうに、淡い黄色が見えた。
ミナは火から下ろし、少し待ってから器を取り出した。
軽く揺らすと、表面が柔らかく動く。
匙を入れたところは、思っていたよりなめらかだった。
「できました」
小さくすくい、息を吹きかける。
卵と乳の味のあとに、蜂蜜の香りが残った。
「……おいしいです」
〈夕餉係:新しい鍋、最初からいい仕事をしましたね〉
「はい。でも、前のより冷めにくいので、火から下ろしたあとの時間も、少し変えた方がよさそうです」
言ってから、ミナは笑った。
誕生日でも、覚えることが一つ増えた。
〈帰り道:前の鍋は、どうするんですか?〉
「今は、布を入れています。蓋をすると、ちょうどいいんです」
配信の終わりまで、お祝いの言葉が届いた。
初めて見る名前もあった。
いつもは記録で見ています、と添えてくれた人もいた。
ミナは一つずつ読み、ありがとうございます、と答えた。
いつもより何度も同じ言葉を言ったのに、足りない気がした。
「来年も、何か作れたらいいなと思います」
どこの台所にいるかは、まだわからない。
でも、この鍋は持っていくつもりだった。
*
配信を終えると、台所の入口から管理人が顔を出した。
「今日、誕生日だったの?」
ミナが頷くと、おめでとう、と笑ってくれた。
「言ってくれたら、夕飯に一品つけたのに」
「いえ。今日は、これを作りたかったので」
もう一つの器を示した。
一人で食べきるには少し多かったから、よければ食べてもらうつもりでいた。
「お時間があれば、一緒にどうですか」
「お祝いされる人から、もらっていいのかしら」
「食べていただけると、嬉しいです」
管理人は匙を取りに行き、小さな卓の向かいへ座った。
器を持ち上げると、まだ温かいね、と言った。
二人分の匙の音が、台所にした。
*
部屋へ戻ったミナは、机の上の手紙をもう一度読んだ。
それから新しい紙を出した。
『お姉ちゃんへ。
贈り物、ありがとう。白い花が可愛くて、すごく気に入ったよ。櫛と髪の紐を入れたの。ニーナさんにも、ありがとうって伝えてね。
今日は、自分で新しい鍋を買ったよ。古い方も、まだ部屋に置いてあるからね。
最初に甘いものを作ったら、うまくできたよ。今度、お姉ちゃんにも作るね。』
そこで一度、筆を止めた。
採取の報告も、食堂で作った数も、書こうと思えばいくらでもあった。
けれど今日は、ほかに伝えたいことがあった。
『配信で誕生日だと言ったら、たくさんおめでとうって言ってもらえたよ。
私が思っていたより、いろんな人が見てくれていたみたい。
今日は、嬉しかった。』
書き終えて、青緑色の袋を手に取った。
口を開けて中身を確かめる必要はなかったが、もう一度、白い花を見たかった。
明日は、サフィナにも見せよう。
新しい鍋を乾いた布で包み、いつもの場所へ収めた。
隣には、古い鍋も置いてある。
十四歳の最初の日は、まだ少し、終わってほしくなかった。
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