第90話 記録が役に立ちました
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「ああ、この記録。君が書いたのか」
ギルドの窓口で声をかけられ、ミナは振り返った。
肩に空の採取籠をかけた男が、職員の広げた紙を見ている。
知らない顔だった。
「はい。……何か、間違っていましたか」
「いや。わかりやすかったよ」
男は籠を下ろし、紙の端を指さした。
「この道。帰る方から見た岩の形まで描いてあるだろ。帰りに霧が出てさ。行きと違う景色になったから、これで確かめられた」
小さな岩の絵だった。
絵と呼んでいいのか迷うくらい、いびつな線を三つ重ねたもの。
その横には、町へ戻るときには割れ目が見える、と書いてある。
「似ていなくて、すみません」
「見ればわかった。十分だよ」
ミナは紙へ顔を近づけた。
あの日、帰り道で一度立ち止まったことを覚えている。
行きに目印にした白い面が、反対側からは見えなかった。
次に自分が迷わないよう、描き足したものだった。
「それから、奥の若い株。あれはまだ残してきた。手前で足りたから」
男はそれだけ言うと、別の窓口へ向かった。
ミナは、お礼を言うのが少し遅れた。
*
リフナから帰った翌日は、予定どおり休んだ。
布を洗って干し、槍の穂先と盾の留め具を確かめた。
昼には少し眠り、夕方、ユスフへ帰着を伝えに行った。
今日は、サハルのギルドへ報告を持ってきたところだった。
リフナの支所で精算した紙を見せ、往復の行程と採取中に気づいたことを伝える。
そのあとで、職員が別の綴りを出したのだった。
「これまで預かった記録です。道順については、窓口でほかの方にも説明しています」
紙を重ねた綴りに、ミナの字が何度も現れた。
薬草の葉。染料にする実。樹皮を傷めずに持ち帰る包み方。
サハルへ来てから、仕事を終えるたびに渡した写しだった。
「今後、採取地ごとの案内に、一部を写してもいいでしょうか。個人的な予定や、お名前は載せません」
「私ので、よければ」
答えてから、ミナは一枚を指した。
「でも、ここは、サフィナさんに教えていただいたところです。私だけで調べたわけではありません」
「そうですね。同行者のお名前も書いてあります。ご本人にも確かめます」
職員は別の紙へ、そのことを書き留めた。
「道や橋の状態は、使う前にこちらでも確認します。この記録のあとに変わっていることもありますから」
ミナは頷いた。
自分が晴れた日に歩けた道を、雨の日にも歩けるとは言えない。
リフナでも、掘った穴に水が溜まらなかったのは、あの朝に確かめられたことだった。
「わからなかったところは、そのまま残してください」
「ええ。そこも、助かっています」
職員は紙を揃えた。
「見ていないところがわかるので、次の人へ、何を確かめてほしいか伝えられるんです」
*
納品口の方から、小さな台車が運ばれてきた。
乾燥した薬草の箱を受け取りに来た、加工場の女性だった。
職員にミナの名を聞くと、手を止めた。
「細い布で束を分けてくれる子?」
「はい。種類が混ざらないようにしています」
「種類だけじゃないでしょう。こっちは朝、こっちは昼前、とか」
女性は台車の取っ手へ肘を置いた。
「うちに来た分もそうだった。葉が大きい方と、小さい方も分けてあってね。乾かす棚へ出すのが楽だったよ」
ミナは、以前に納めた葉の袋を思い出した。
同じ草でも、重ねると下の葉が曲がってしまう。
大きさの近いものを揃えた方が、包みやすかった。
「あれなら、受け取ってすぐ次の作業に移れるよ」
「……よかったです」
ミナは両手を揃えた。
褒めてもらえるのは嬉しい。
けれど、昨日、帳面につけた小さな印が頭に浮かんだ。
「でも、今回の根は、掘るときに傷をつけてしまって。先に使うものへ分けていただきました」
「傷があると、渡すときに伝えた?」
「はい。薬師さんにも見ていただきました」
「なら、その人は使う順番を決められたね」
女性は手袋をはめ直した。
「もちろん、傷が少ない方がいい。でも、底へ隠されるより、ずっといいよ」
台車が動き出した。
ミナは今度こそ、すぐにお礼を言えた。
*
職員と記録を並べると、同じ場所の紙が二枚あった。
採れた束の数も、作業にかかった時間も違っている。
「この日は、あまり量がありませんね」
「はい。ただ、雨のあとで、奥まで入っていません。ここに書いた石のところで戻りました」
ミナが地図を示すと、職員は二枚目を少しずらした。
「では、草が減ったと数えるわけにはいきませんね」
「その先は、見ていないので」
紙を並べただけで、全部がわかるわけではなかった。
同じ場所へ行っても、歩いた範囲や、探したものが違う。
ミナは椅子へ座り直し、聞かれた順に思い出した。
リフナの記録では、低い区画に若い株が多かったことを確かめられた。
以前からそうだったかと聞かれて、それはわからないと答える。
「こちらは支所にも照会します。最近、川沿いの報告をまとめてほしいと、調査担当から頼まれているので」
「何か、あったんですか」
「今は、場所ごとの違いを確かめているところです。立ち入りの条件が変わる場合は、依頼板でも知らせます」
ミナは頷き、帳面を閉じかけた。
「あの。今の、奥まで行かなかったことも、写しに足していいですか。地図だけだと、見落とすかもしれないので」
職員が筆を差し出してくれた。
ミナは日付の下へ、一行だけ書き足した。
*
その日の夕方、下宿の台所で、短い配信をした。
使ってよい時間のうちに、夕飯と明日の朝の分を用意する。
鍋には芋と豆が入り、端から小さな泡が上がっていた。
「今日は、記録がわかりやすかったと、言っていただきました」
ミナは木の匙で底をゆっくり混ぜた。
「私がいないところで、ほかの採取人さんが使ってくださっていたそうです」
〈帰り道:料理の記録かと思った。採取の方も残しているんですね〉
「はい。次に同じ失敗をしないようにと思って、書いていたんですけど」
岩の絵を思い出すと、少し笑ってしまった。
「あまり上手に描けなかった目印も、わかったって」
〈やまみち:それなら、ちゃんと役目を果たしたね〉
「はい」
〈やまみち:自分が帰ったあとにも、仕事が役に立っているんだね〉
ミナは文字を読み直した。
自分が下宿で寝ていた日にも、誰かはあの道を歩いていた。
今も、あの葉が加工場の棚へ広げられているのかもしれない。
「……そうですね」
返事をしてから、鍋へ視線を戻した。
豆が一つ、ふっくらと割れていた。
匙で少し潰し、汁へ混ぜる。
それだけで、薄かった汁にとろみがついた。
〈帰り道:そのくらいの量でも、潰すと変わるんだ〉
「全部だと重くなるので、少しだけです。残りは、そのまま食べます」
鍋からよそうとき、柄の付け根が小さく鳴った。
ミナは手を止め、熱い鍋を台へ戻した。
布越しに持ち直し、中身を器へ移す。
食べ終え、洗って冷ましてから確かめると、柄にわずかな遊びがあった。
旅へ出る前より、動く幅が大きい気がした。
翌日、市場で道具を直している店へ持っていった。
職人は留め具を締め直してくれたが、底を指でなぞってから、ミナへ見せた。
「ここも、だいぶ薄くなってる。次に緩むようなら、替えることも考えな」
ミナは代金を払い、小鍋を両手で受け取った。
買い物の覚え書きに、鍋の値段を調べる、と加えた。
*
それから二度、食堂の担当日が巡ってきた。
間には採取へ出かけ、納品をし、布を洗う日があった。
毎日、同じ仕事をしていたわけではない。
けれど、食堂へ入ると、バスマが先に布を差し出してくれるようになった。
「今日はこっち。昨日、全部洗って変えたから」
「ありがとうございます。粉は、前と同じ袋ですか」
「そう。でも、少しずつ水を足してね」
ミナは手を洗い、前掛けを結んだ。
食堂の鍋と鉄板は、使う前に一つずつ確かめる。
家で使う小鍋と違って、持ち上げるにも、置く場所にも気を配る大きさだった。
その日の献立は、豆を混ぜた小さな肉団子と、芋や玉ねぎを煮込んだ汁物だった。
その日の客に、川風さんがいた。
舟具の修理を終えたところらしく、髪を後ろで短く束ね、窓際の席へ座っている。
「今日は、これもらっていい?」
指したのは、卓に置いた酸味のある香辛料だった。
肉団子を一つ割り、少し振る。
「うちでは、これに揉んだ葉を足すんだ。冷めた弁当にもね」
「煮る前に、ですか」
「私は食べるとき。母は、玉ねぎと一緒に火にかけてた」
ミナは鍋の中を見た。
玉ねぎを炒めるときに香りを移せば、卓で振るのとは違う味になるだろうか。
「何の葉を使うんでしょうか」
教わった名前を聞いて、バスマが棚へ顔を向けた。
「それなら、明日の料理に使う分があるよ。味を確かめるだけなら、あとでユスフに聞こう」
川風さんは最後の肉団子を食べ、手を振った。
「王国のご飯に余計なこと言ったかな」
「いえ。教えていただけて、嬉しいです」
ミナが答えると、隣の卓から男が口を挟んだ。
「俺は今のままでも好きだぞ。そっちも食ってみたいがな」
「はい。そちらも、なくさないようにします」
返事をすると、バスマが笑った。
「まだ試してもいないのに、もう注文が入ったね」
*
営業を終えてから、ユスフに使う分を量ってもらった。
残っていた肉団子を三つと、煮汁を小鍋へ移す。
玉ねぎを炒める油へ、香辛料を少し。
香りが立ったところで煮汁を加え、最後に刻んだ葉を混ぜた。
いつもの煮込みより、少し酸味がある。
けれど、芋と玉ねぎの甘さは残っていた。
肉団子を一つずつ分けると、バスマが二口目をゆっくり噛んだ。
「こっちで知ってる香りなのに、ちゃんと今日の煮込みだね」
「強すぎませんか」
「最初は少し。食べ終わると、もう一口欲しくなる」
ユスフは食べたあと、使った材料の量を見た。
「次に出すなら、まず少ない鍋からだな。いつもの味を食べに来る人もいる」
「はい。最初は、二つの鍋に分けるのはどうでしょう」
同じ肉団子と芋を使い、一方だけ香りを変える。
それなら、初めての人にも選んでもらいやすい。
「注文を取る方が迷わないよう、書いておこう」
ユスフが紙を出した。
ミナは材料の分量を書き、香辛料を入れる順番も書き添えた。
「これなら私がよそっても、わかるね」
バスマが紙を覗き込んだ。
ミナは筆を止め、それから笑った。
「今日も、そう言っていただけました」
「今日も?」
「いえ。この前、ギルドで」
説明すると、バスマは、なるほどね、と残りの肉団子を食べた。
「じゃあ、油へ入れる順番も書いて。さっき、いい匂いがしたところ」
ミナは頷いて、行を足した。
*
帰り支度をする前に、翌日の料理人が使う台を拭いた。
疲れてはいたが、膝を曲げて下の棚を確かめても、立ち上がる足は動いた。
最初の日のように、椅子へ座ったまま動きたくなくなるほどではなかった。
「明日の分まで、やらなくていいよ」
バスマに言われ、ミナは布を畳んだ。
「はい。ここで終わります」
水を飲み、二人で戸締まりを確かめた。
通りへ出ると、川の風が、火のそばにいた頬へ当たった。
下宿へ帰ってから、ミナは帳面を開いた。
薬草の記録のあとに、教わった葉の名前と、肉団子の分量を書く。
川風さんの家の食べ方、と、最初に添えた。
次の頁をめくると、白い紙はあと少ししかなかった。
サハルへ着いたばかりのころに書いた、見慣れない素材の名前。
市場の値段。
ハーシムに注意された帰りの時刻。
途中からは、食堂で作る人数も加わっている。
新しい帳面も買わなければならない。
ミナは覚え書きへ書き足してから、今の帳面の表紙を撫でた。
端が少し丸くなり、紐をかけた跡がついていた。
中を開かなければ、何を書いたものか、自分にしかわからない。
ミナは表紙の内側へ、サハル、と書いた。
その下に、最初の日付を入れる。
最後の日付を書く場所は、まだ空けておいた。
読んでいただきありがとうございます。評価、レビュー、応援コメントなどいただけますとモチベーションにつながります。よろしくお願いいたします。
カクヨムでも掲載しておりそちらでは各エピソードの挿し絵等も掲載しています。




