第87話 帰る前に、もう一皿
「次、三人前です」
ミナが言うと、バスマが六枚の生地を台へ並べた。
「具は、こっちの器で終わり。次を出すね」
「お願いします」
鉄板の上には、先に頼まれた二人前があった。
手前の二枚を返し、奥の焼き色を確かめる。
皿を置く場所には、もう布も器もなかった。
最初の担当日から、一週間。
二度目の厨房は、同じ場所に立っているのに、少し広く感じた。
汁物を温める小鍋から、青い香りが上がる。
バスマが分けておいたミズカオリの葉を加えたところだった。
今日の分は市場で選び、店の材料として仕入れている。
茎の下が硬い束を避けられたのは、自分で採って、切ってみたからだった。
「汁、先に出していい?」
給仕の女性に尋ねられ、ミナは鉄板を見た。
「はい。平焼きは、もう少しかかります」
「じゃあ、そう伝えるね」
器が客席へ運ばれていく。
ミナは次の生地を受け取った。
忙しいのは、前と同じだった。
でも、黙ったまま急がなくてよくなっていた。
*
レオンが来たのは、担当時間が残り一時間ほどになってからだった。
隣には、日に焼けた首へ薄い布を巻いた男がいる。
一人連れていきたいと、昨日、食堂へ知らせが届いていた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げたミナに、レオンが片手を上げる。
「約束どおり、食べに来たよ」
同行した男は厨房を見て、少し驚いた顔をした。
それから、レオンへ目を戻す。
「こちらの方が?」
「うん。採取のことも、いろいろ教わった」
「私の方が、教えていただいたことばかりです」
ミナが答えると、レオンは、そうだったかな、と首を傾げた。
「こちらはファリドさん。今回の調査で、現地の案内と観測を担当してくれた人だ」
「ファリドです。ここの再開は聞いていましたが、来るのは初めてで」
「ミナです。今日は、平焼きと汁物を作っています」
二人は、空いた卓へ座った。
杖はレオンが自分のそばへ収め、ファリドも足元へ袋を寄せる。
通路を確かめてから、給仕の女性が水を置いた。
「仕事では何度も食事を後回しにさせたから。最後くらい、ちゃんと座って食べようと思って」
レオンの声が聞こえた。
「最後だけ、と言われると、明日の朝が心配になりますね」
「明日の分は、もう宿へ頼んだよ」
「それなら安心しました」
ミナは二人分の生地を鉄板へ置いた。
いつもと同じ大きさ。
具の量も変えなかった。
*
先に運んだ汁物を、ファリドが一口飲んだ。
「ミズカオリですね」
器へ目を落とし、もう一度匙を入れる。
「こちらの味だ。王国の料理と聞いたので、もっと知らないものが出るかと思っていました」
「平焼きは、故郷の食堂で作っていたものです。汁に使う草は、こちらで教えていただきました」
皿を渡す台の向こうから、ミナが答えた。
「葉を最後に入れることも、配信を見てくださった方に教わったんです」
「それで、この香りか」
ファリドは頷き、レオンへ器を少し示した。
「上流の観測所でも、よく使います。向こうでは豆と煮ることが多いですが」
ミナは、豆、と覚えた。
今は書けないので、あとで忘れないように、心の中でもう一度言った。
平焼きが届くと、レオンは一枚を半分に割った。
湯気を逃がしてから、端をかじる。
「うん」
それだけ言って、もう一口食べた。
ミナは次の注文へ手を戻したが、耳だけはそちらへ向いていた。
「どうですか」
ファリドが聞いた。
「うまい。……君も、冷める前に食べた方がいい」
「感想は、それだけですか」
レオンは手元の平焼きを見た。
少し考える。
「外が、ぱりっとして、中が」
「ああ。わかりました。食べます」
バスマが、俯いて笑った。
ミナも笑いそうになって、鉄板の端の一枚を返した。
食べ始めたファリドは、今度は質問しなかった。
平焼きを噛み、汁を飲む。
二枚目には卓の辛味を少し足していた。
「この組み合わせなら、昼にもいいな」
その言葉で、ミナの肩から少し力が抜けた。
*
夕方の船から下りた客が、三人入ってきた。
注文を受けたミナは、包んである生地を数えた。
足りない分をバスマへ伝え、鉄板を空ける順番を決める。
客席を見ると、レオンが何か言いかけていた。
けれど、手元へ戻ったミナを見て、口を閉じた。
先に料理を出す。
皿を渡し終え、水を一口飲んでから、ミナは顔を向けた。
「すみません。何か、ご入用でしたか」
「いや。前より、すっとしてると思って」
「……汁物ですか?」
「君の動きが」
「ああ、そちらでしたか」
ファリドが、器を置いて咳払いをした。
笑うのを堪えているようだった。
レオンは少し困った顔をしたあと、厨房の台を指さした。
「次に使う場所が、先に空いている。何をするか周りにも伝えて、返事を聞いてから動いている」
ミナは、バスマを見た。
「前は、焼いている枚数まで、わからなくなりそうだったので」
「今日は、私にもわかるよ」
バスマが答え、残りの具へ蓋をした。
「先に言ってくれるから、こっちも用意できる」
ミナは頷いた。
足腰が楽に動くことも、助けになっている。
けれど、バスマが次の生地を渡してくれるから、自分は焼いていられるのだと思った。
「教えていただいたこと、ここでも使っています」
「それなら、よかった」
レオンが言い、空の皿を見下ろした。
「ところで、もう一人前、頼んでもいいかな」
ミナは目を丸くした。
「同じもので、よろしければ」
「同じものがいい」
「……はい」
返事が、少し遅れた。
褒めてもらった言葉とは別に、もう一度食べたいと思ってもらえたことが、嬉しかった。
ファリドが隣を見る。
「腹を空かせすぎないうちに来る、とおっしゃっていましたよね」
「来たときは、そうだったよ」
ミナは笑いながら、給仕の女性へ追加の注文を伝えた。
*
ファリドは食事を終えると、役所へ戻っていった。
翌朝までに、写しを一部届ける仕事があるという。
レオンは追加の平焼きをゆっくり食べ、会計を済ませたあと、外の腰掛けで待ってくれた。
少しだけ、帰る前の挨拶をしたいと言って。
担当時間が終わり、残った材料の確認を済ませてから、ミナはバスマへ声をかけた。
「少し、外へ行ってきてもいいですか。戻ったら、そちらの鍋を洗います」
「行っておいで。熱いうちに水へ入れないよう、置いておくから」
ミナは前掛けを外し、戸を開けた。
川から吹く風が、額に涼しかった。
レオンは立ち上がり、食堂の明かりを振り返った。
「ごちそうさま。来られてよかった」
「こちらこそ、ありがとうございました。お連れの方にも、よろしくお伝えください」
「うん。明日の朝、船着き場で会うから」
その言葉で、帰るのだと、もう一度思った。
「朝、何時ごろですか」
時刻を聞いて、ミナは翌日の予定を思い浮かべた。
サフィナたちと出かける約束がある。
船着き場へ寄れば、待ち合わせには間に合わない。
「仕事があるんだろう。今日、こうして会えたから」
考えていたことが顔に出ていたらしい。
レオンは気にした様子もなく、川上の方を見た。
「俺も、帰ったら報告だ。借りた道具も返さないと」
「壊れたものは、ありませんでしたか」
「傷はついた。だから、どこでどう使ったかも説明する。たぶん、そっちの方を詳しく聞かれる」
ミナは、リゼが道具を手に取る姿を思い浮かべた。
確かに、聞きそうだった。
少し笑ってから、レオンへ向き直る。
「身体強化のこと、教えていただいて、ありがとうございました」
「教えたと言えるかな。君には、だいぶ考えてもらった」
「でも、一緒に確かめてもらえたので。前にできなかったことを、今もできないと思っていたところが、ありました」
荷物を持って歩くこと。
槍を戻しながら、足を運ぶこと。
試してもいい量を、自分で確かめること。
「また、教えてください」
レオンはミナを見て、頷いた。
「ああ。ただ、次までには、もう少し説明がうまくなっておく」
「……お願いします」
「そこは、否定しないんだね」
ミナは慌てて口を開き、それから、二人で笑った。
「向こうからも、来られるときには配信を見に来るよ」
「はい。私も、こちらで覚えた料理を作ります」
その約束をして、レオンは歩き出した。
角を曲がる前に一度振り返り、手を上げる。
ミナも手を振った。
姿が見えなくなってから、厨房へ戻る。
バスマが約束どおり、鍋を台へ置いてくれていた。
「挨拶できた?」
「はい」
袖を留め直し、水を汲む。
明日は採取へ出かける。
来週には、またこの厨房に立つ。
鍋の底を洗っていると、外で誰かが、明日の献立を尋ねていた。
*
翌朝、ファリドは川上へ向かう船を見送った。
レオンの姿が船室へ消え、岸へ渡してあった板が外される。
船が離れていくのを確かめてから、役所へ戻った。
机には、昨日受け取った記録の写しがあった。
測定した場所、時刻、その日の水位。
現地で使った道具の違いも、欄を分けて書き込まれている。
上流の一地点には、細い線が引かれていた。
近隣の観測点に比べ、魔力の測定値の動きが少し大きい。
季節による変化なのか、地形の影響なのか。今の回数だけでは決められない。
レオンとも相談し、次も同じ条件で測ることにしてある。
ファリドは観測の予定表を開き、担当者の名と日付を書いた。
その下へ、水位の記録も照合する、と一行加える。
廊下から、朝の打ち合わせを知らせる声がした。
「今、行く」
ファリドは記録を持って立ち上がった。
*
そのころ、アルセリア王国のとある宿では、セリカが水晶の前に座っていた。
『三十八人分、食べていただけました』
少し前に残された、ミナの最初の営業報告だった。
最後まで見てから、もう一度、嬉しそうに数字を言うところへ戻す。
「また、そこ?」
ニーナが部屋へ入ってきた。
手には、宿で受け取った湯の器が二つある。
「だって、三十八人だよ」
「うん。私も聞いた。三回くらい」
セリカは笑ったあと、少し眉を寄せた。
「ずっと立ってたんだろうな。ちゃんと休んだかな」
「今から記録の中へ言っても、届かないよ」
「わかってる」
湯を受け取り、セリカは机へ向き直った。
開いた手紙の横に、荷を送る便の日程がある。
その下には、途中まで書いた品物の候補があった。
「今度は何を送るの?」
「まだ決めてない。向こうで買えるものなら、荷物になるし」
「服は? ミナちゃんに、あんなに選んでたじゃない」
「寸法、変わってるかもしれない」
ニーナは、自分の外套を椅子へ引っ掛けた。
足元には、セリカが脱いだままの上着があったので、ついでに拾う。
「自分の服も、それくらい気にしたら?」
「それ、まだ着る」
「だから、床から拾ったんだけど」
セリカは礼を言い、候補の一つへ線を引いた。
大きなものは持ち歩きにくい。
割れるものも、届けるまでが心配だった。
「急ぎの荷物?」
「……遅れるのは、嫌だから」
暦の、小さく印をつけた日へ指を置く。
国を越えて川を下る荷は、思ったとおりの日には着かない。
少し早いくらいに届く便を、もう一度確かめた。
今年は、何を欲しがるだろう。
本人に聞けば、きっと『何もいらないよ』と言う。
それで済ませるつもりは、なかった。
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