第86話 次の料理を探しに
第86話 次の料理を探しに
帳面の端に、三十八、と書いてあった。
ミナはその数字の横へ、用意した数を書き足した。
四十人分。
残った二人分は、一緒に働いた人たちの夕食になった。
次の頁には、焼く枚数を声に出すことと、包んだ生地を置く場所のことがある。
初めての担当日から二日経って読み返すと、もう一つ、書いておきたいことがあった。
汁物を楽しみに来てくれた人がいた。
川風さんが器を持ち、息を吐いた顔を思い出す。
平焼きの焼き色ばかり気にしていたけれど、あの人は先に汁を飲んだ。
次も、温かいものを一緒に出したい。
ただ、同じ野菜が、同じ値段で買えるとは限らなかった。
*
「汁に入れるなら、ミズカオリは?」
ギルドで待ち合わせたサフィナが言った。
ミナは筆を止めた。
「あの、乾かした葉を売っているものですか」
「そう。葉っぱも使うけど、今なら茎がおいしいよ」
「茎も?」
「柔らかいやつね。大きくなると、噛んでも噛んでも残る」
サフィナは、なかなか飲み込めない顔をしてみせた。
ミナは笑い、それから、ギルドで借りた図鑑を開いた。
葉の縁が細かく波打つ、水辺の草。
薬用の欄には、花がつく前の、十分に育った葉を選ぶとある。
料理については、若い茎葉を食用にする、と短く書かれていた。
「これ、見に行ってみたいです」
言ってから、二人の顔を見た。
「今度の食堂で使うかは、作ってみてからですけど。どんなところに生えているのかも、知りたいので」
「いいよ。船着き場より上の、水路の脇にある」
「あそこなら、午前中に戻れる」
ハーシムが地図へ指を置いた。
「ただ、畑へ水を引いている場所だ。採っていい岸を確認してからだな」
ミナは受付へ向かった。
場所と採取の決まりを確かめ、近くの目撃情報も聞く。
共同で使う水路でも、どこからでも下りていいわけではなかった。
明日の朝に出発する。
採るのは、まず試し作りに使う分。
帰りに食堂へ寄ると、ユスフは採取にかかる費用を尋ねた。
「材料として店へ入れるなら、ただで採ってきたことにはしないよ。まず、使えるものか見てから相談しよう」
「はい。今回は、私が味を知りたいので、少しだけ」
「じゃあ、試作の時間をバスマと決めておいで」
ミナは頷いた。
食べてみたいものと、店で使えるもの。
その間にも、確かめることがあった。
*
翌朝、水路へ向かう道は、荷車の轍が乾いて白くなっていた。
ミナは袋の肩紐を直し、前を歩くサフィナについていった。
畑の間を抜けると、水音が近くなる。
川より狭い流れの両側に、背の低い草が重なっていた。
「そこの石、濡れてる」
ハーシムの声に、足元を見る。
踏もうとしていた石の端だけが、黒かった。
ミナは乾いた土へ足を置き直した。
膝を少し曲げて、低い段を下りる。
足腰へ通した魔力を、平らな場所へ着いてから弱めた。
以前なら、下りた勢いで袋が背中を押した。
今日は片足をついてから次を出せたので、中の器も鳴らなかった。
「帰りは、その根の横から上がろう」
サフィナが指さす。
ミナは振り返り、上へ戻る道を見ておいた。
水際まで寄る前に、水晶を留めた位置を確かめた。
公開配信を始めると、ほどなくして視聴者の数字が動いた。
「おはようございます。今日は、食べてみたい草を教えてもらって、採りに来ました」
〈帰り道:おはよう。今日は料理の材料なんだ〉
「はい。薬草として使うときとは、選ぶ大きさが違うそうなので」
話しながらも、水際では立ち止まる。
サフィナは少し先でしゃがみ、草の間から一本を示した。
「これ。下の方から見てみて」
ミナは葉のつき方を追った。
向かい合う葉と、その次の葉の向き。
茎の筋。
株の根元から、新しい茎が伸びている。
図鑑の絵と照らし合わせてから、サフィナを見る。
「ミズカオリですね」
「うん。匂いも確かめる?」
許された範囲の株から、葉を一枚だけ取った。
指先で軽く揉むと、青い香りのあとに、少し甘い匂いが残った。
乾いた葉を店先で嗅いだときより、ずっと柔らかい。
「茎は、どのあたりまで使うんですか」
「その株は、ちょっと育ちすぎ。こっちかな」
示されたのは、膝より低い、まだ葉の少ない茎だった。
ミナは大きな株と、交互に見る。
「薬用の葉を採るなら、もう少し待つところです」
「食べるなら、私は今くらいが好き」
サフィナは包丁を持つミナの手元へ、切る高さを示した。
株を残す位置で刃を入れる。
切り口には水気があり、茎の中は淡い色だった。
「同じものなのに、採り頃が違うんですね」
「何にするかで変わるよ。葉だけ欲しい人もいるし」
ミナは図鑑の食用の一行へ、もう一度目を落とした。
間違ったことは書いていない。
けれど、この短い行だけでは、今の茎を選べなかった。
*
岸の上を見ていたハーシムが、道を通る荷車へ片手を上げた。
顔見知りらしい男が、今日は草か、と声をかけて通り過ぎていく。
ミナは刃を収めてから、文字板を見た。
〈舟待ち:それ、うちでは茎を焼いて食べます。葉は別にして〉
「焼くんですか?」
〈舟待ち:油を少し。最後に塩。硬いところは先に取ります〉
「私は汁に入れる方が多いな」
サフィナが水晶の方を向いた。
〈水門番:汁なら葉は最後だよ。ずっと煮ると匂いがなくなる〉
初めて見る名前だった。
「ありがとうございます。茎は先に入れて、葉を後にするんですね」
〈水門番:そう。仕事の交代前に見たら、腹が減った〉
「まだ、切っただけですよ」
ミナが言うと、隣でサフィナが笑った。
焼いたものも気になった。
でも、今日は汁にしてみたい。
教わった食べ方を帳面へ残し、試す順番に小さく印をつけた。
袋へ入れる前に、下の葉を確かめる。
泥のついたものは分け、洗う前の茎を濡れたまま押し込まないように並べた。
「そんなに、揃えて持って帰るの?」
「帰ってから、硬さを比べたいので。大きさがわからなくならないように」
サフィナは、ミナが選んだ茎を覗き込んだ。
「じゃあ、このくらいのも一本。食べられるけど、私は下の方を多めに落とす」
少し育った茎だった。
ミナは別の紐で目印をつけた。
必要な分を採り終えると、まだ朝の涼しさが残っていた。
水を飲み、袋の重さを確かめてから岸を上がる。
体は動かしやすかったが、最後の段では片手を土についた。
汚れた手袋を外して袋へしまう。
町までの道を歩いても、脚に残ったのは、少し使ったという重さだけだった。
*
食堂の厨房を借りられたのは、昼の片づけが済んでからだった。
今日の料理人が残した鍋には、もう蓋がしてある。
ミナたちは、夕方の仕込みに使わない側の台を使った。
「これ、私も家で入れるよ。うちは芋と」
バスマが、洗ったミズカオリを持ち上げた。
ミナは茎を二つに分け、切るときの感触を比べた。
目印をつけた方は、下へ行くほど刃に筋が残る。
「ここ、少し厚く取りますね」
下の硬い部分を除き、柔らかいところを小さく切った。
葉は別の器へ入れる。
薄く切った玉ねぎを炒め、水と芋を加えた。
芋が柔らかくなりかけてから、茎を入れる。
平焼きにも玉ねぎを使うので、今日は汁の方を少なめにしてみた。
試し作りの分量は、二人で味を見られる程度だった。
大鍋にする際の量は、このまま倍にすればいいのか、もう一度確かめるつもりでいる。
「もう、葉っぱも入れる?」
「少し待ってください。先に、茎を」
匙に取って冷ます。
若い茎は、歯を当てるとすぐに切れた。
芋とは違う、軽い歯触りが残る。
育った方も噛めたが、同じ大きさに切ったのに、口の中に長く残った。
「こっちは、もう少し小さくした方がよさそうです」
「そうだね。よそったとき、長い筋が出ない方が食べやすい」
バスマの言葉を書いてから、最後に葉を加えた。
湯気と一緒に、朝の岸辺で嗅いだ香りが上がる。
平焼きも、小さいものを一枚だけ焼いた。
二つに分け、汁と交互に食べてみる。
「……これなら、平焼きの味もわかります」
ミナが言うと、バスマはもう一口、汁を飲んだ。
「葉は、もう少し少なくてもいいかもね。最後の方、結構香る」
自分の器へ戻り、ミナも飲んだ。
確かに、葉が集まったところは香りが強かった。
最初の一口だけでは、気づかなかった。
「次は、これより少なくします」
「切るところまでは、私がやっておけるよ。葉を入れるのも、小さい鍋へ分けてからにしたら? 全部に入れて、三時間置くより」
ミナは、初営業の日の鍋を思い浮かべた。
最初の客と、最後の客。
同じ時刻に食べるわけではない。
「そうします。出す分を温めるときに、葉を入れていただけますか」
「いいよ。器に分けておけば、入れすぎないしね」
頼むことが決まると、書く内容も変わった。
自分が思い出すための印だけでなく、バスマが見てわかる量と順番を書く。
ユスフには、使えた重さと、取り除いた部分を見せた。
「次の分も、自分で採ってくるのかい」
「市場のものも見てみます。四十人分なら、今日よりずっと必要なので」
「その方がいい。採りに行く時間も含めて、比べてみよう」
採取へ行ったから、全部を自分で集めなければならないわけではなかった。
明日は市場で、切り口と茎の太さを見て選べる。
*
洗い物を終え、食堂の外へ出ると、レオンが通りを歩いてきた。
同行する調査員と、紙の束を見ながら話している。
ミナに気づき、足を止めた。
「今日は、店の日だったかな」
「試し作りです。次に使いたい草を、採ってきたので」
「もう、次の献立か」
レオンが笑った。
調査員へ先に行ってもらい、紙を袋へ収める。
「俺も、そろそろ帰り支度だ。こちらへ渡す記録を揃えている」
ミナは、畳んだ前掛けを持ち直した。
「もう、帰られるんですか」
「あと数日はいる。残りの確認と引き継ぎが済んだらね」
レオンは、調査員が向かった先を見た。
「測った場所は、向こうの担当者が引き続き見てくれる。俺が帰った後の数値もないと、比べられないから」
「続けて、記録するんですね」
「ああ。今、一度測って終わりにはできない」
ミナは頷いた。
調査で何を測ったのか、その詳しいことまではわからない。
でも、一度だけではわからないことがあるのは、少しわかった。
レオンがいなければ、採取の日に、今の自分の動き方を確かめることもなかった。
厨房で鉄板を動かすときにも、あの日の言葉を思い出す。
お礼を言おうとして、ミナは食堂の戸へ目を向けた。
「帰る前に、ここへ来てもらえませんか」
レオンが、入口の献立を見た。
「今度は、私の担当する時間に。次も、平焼きを作る予定なんです。今日試した汁物も、一緒に」
「それは、食べてから帰りたいな。いつ?」
日時を伝えると、レオンは予定の紙を出した。
上から指で辿り、一つの行で止める。
「この日の夕方なら、空いている」
「よかったです」
「普通に食べに来ていいんだよね。俺だけ違うものを作ったりしなくていい」
「はい。あの、ほかのお客様もいらっしゃるので、少しお待たせするかもしれません」
「それなら、腹を空かせすぎないうちに来よう」
ミナは笑った。
初めて会ったとき、食事を探していた姿を思い出した。
見送ってから、帳面を開く。
仕入れの予定の下へ、小さく書き足した。
レオンさんが、食べに来る。
その一行を見て、明日、市場へ行く時間を少し早めた。
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