第85話 離れた町でも
盾が、半歩前へ出た。
ラグは右手の剣を引き、空いた場所へ足を運んだ。
飛び込んできた魔物の爪が、盾の表面を擦る。
受けた男の踵が土へ沈んだが、後ろへは下がらなかった。
「今だ」
短い声に合わせ、ラグは剣を出した。
幅のある刃が、盾の横から伸びる。
魔物が体勢を戻すより先に斬り抜け、振り切った剣を自分の前へ戻した。
背後で弦が鳴る。
もう一頭が倒れた。
「奥、動きなし」
弓を持つ女の声を聞いても、ラグはすぐには剣を下ろさなかった。
耳を動かし、茂みの音を拾う。
風で枝が擦れた。
それ以外に、近づく足音はなかった。
*
リュネールの外れを通る街道で、荷馬車を脅かす魔物の目撃が続いていた。
今日の依頼は、被害が出た区間の確認と、必要な討伐だった。
ラグと組んだ二人は、ギルドの紹介で集まった冒険者だ。
互いの武器と、戦うときに立つ場所は、出発前に確かめてある。
それでも、動いてみなければわからない癖があった。
「二頭目、こっちへ来る前に落としてくれたな」
盾役の男が言うと、女は矢筒を確かめながら頷いた。
「あなたが少し左へ寄ったから、見えた。次も、あれくらい空けて」
「わかった」
男が、ラグの剣へ目を向ける。
「そっちも、よく届くな。それ」
「長さの分、戻す場所も要りますが」
ラグは右手で握りを直した。
剣の根元には厚みがある。いざというときには、そこを使って相手の攻撃をそらせる。
だが、今日はその前に盾が入った。
「さっき、受けに行こうとしただろ」
男に言われ、ラグは頷いた。
「癖ですね」
「あの位置なら、俺に任せてくれ。そっちの剣が止まらない方が助かる」
「では、次はもう少し遠慮なく」
「全部押しつけろとは言ってないぞ」
「ええ。私も報酬をいただく身ですので」
男が笑った。
ラグも口元を緩め、剣を拭った。
左の上腕から先は、今もない。
剣を選び直しても、持てる道具が一つ増えたわけではなかった。
両手で斧を使っていたころのように振れば、戻しが遅れる。
守るために剣を止めれば、その間、前へ出せない。
だからこそ、今の一手を、誰が受け持つか。
自分の剣が届くところばかり見ていた頃より、周りの足音を聞くようになっていた。
*
その後、街道から少し離れた斜面で、もう一頭を見つけた。
こちらを見て、低く身を伏せる。
盾役が前へ出て、弓の女が横へずれた。
ラグは、盾の陰へ入りすぎない位置で止まった。
魔物の脚が土を蹴る。
「受ける」
声がした。
今度は、自分の剣をそちらへ向けなかった。
盾が傾く。
弾かれた魔物の脇へ、一歩で入った。
短く斬る。
刃を戻し、相手の足が止まったのを見てから、もう一度踏み込む。
終わったとき、右肩に余計な力は残っていなかった。
「今の方が、よかった」
盾役が息を吐いて言った。
「ええ。こちらも、よく見えました」
ラグは答え、剣を下ろした。
以前の自分なら、一人で片づけることもできただろう。
そう考える癖は、まだなくなっていない。
けれど今は、隣の盾があったから出せた剣を、もう一度覚えておきたかった。
*
町へ戻り、報告と報酬の受け取りを済ませるころには、店先の灯りが増えていた。
武具屋で、剣帯の留め具を見てもらった。
歩いていると、鞘が少しずつ前へ寄ってくる。
「右だけで抜き差しするなら、ここが動かない方がいいな」
「走ったあとにも、同じ場所にいてくれると助かります」
「剣に言い聞かせるより、革を締め直す方が早い」
「私も、ようやくそう思うようになりました」
店主は笑いながら、留める位置を調整した。
夕食は、帰り道の店で買った。
焼いた肉と、柔らかく煮た根菜がある。
「肉、切っておくかい」
「お願いします。空腹の客に優しい、よい店ですね」
「切る前から褒めたって、おまけは増えないよ」
「では、食べたあとにも申し上げましょう」
店の女が、声を上げて笑った。
頼めば、できることがあった。
自分で工夫して済ませることもある。
どちらか一つに決めなくても、暮らしていけるようになってきた。
部屋へ戻ると、ラグは水晶を台へ置いた。
新しい記録があった。
*
『今日、初めての担当日が終わりました』
見慣れない卓の前で、ミナが話していた。
少し声が掠れている。
だが、疲れきった顔ではなかった。
『三十八人分、食べていただけました』
ラグは、持ち上げかけた匙を止めた。
「それはまた」
最初に一緒に食べたときの鍋を思い出した。
自分の分まであるのかと聞いたこと。
食べられると知らなかったものを、あの小さな手が迷わず扱っていたこと。
画面の中で、ミナが一緒に働く人の名前を挙げた。
包んでくれる人。料理を運び、待っている客へ声をかける人。
ラグの知らない顔が、彼女の一日の中に増えていた。
そのうちの一人に、自分も会ってみたいと思った。
同時に、あの卓の向かいには、今は座れないのだとも思った。
切ってもらった肉を口へ運ぶ。
うまかった。
ミナなら、この根菜に何を合わせるだろう。
そんなことを考えながら、続きを見た。
『来週も、ここで作ります』
ラグは、ゆっくり頷いた。
「ええ。楽しみにしています」
記録なので、返事は届かない。
それでも、言わずにはいられなかった。
食器を片づけたあと、明日の買い物を書いた紙へ、豆を一つ加えた。
自分も一品、お返しできるようにしておく。
見送った朝の約束は、まだ残っている。
*
マルタの盾が、木の棒を受けた。
音は大きかったが、足は動かなかった。
そこで安心しかけ、すぐに肩越しに後ろを見た。
「下がるよ」
「左、空いてる」
後ろの仲間が答える。
マルタは半歩だけ下がり、盾の向きを変えた。
「そこで止めよう」
練習を見ていた年配の冒険者が、手を上げた。
故郷へ戻ってからも、マルタは町の練習場へ通っていた。
王都で教わったことを、帰っただけで上手に使えるようになったわけではない。
後ろに立つ人が違えば、歩幅も、声を出す早さも違った。
「今、右手は何をしていた?」
聞かれて、マルタは自分の手を見た。
盾の内側へ添えていた。
「……押してました」
「受けるだけなら悪くない。治療へ移るなら?」
マルタは、右手を離した。
盾を持ったまま、回復もできるようになりたい。
そう思うと、何もかも同時に始めたくなる。
けれど、盾が動いているところへ誰かの手を引き込めば、ぶつけてしまう。
「代わって、って言います。返事を聞いてから、下がります」
「では、そこまでやろう」
次は、後ろの仲間が前へ入る役になった。
「右から入るよ」
「お願い。私、左へ抜けるね」
声を交わして、場所を替わる。
盾を下ろして振り向くと、治療する相手までの道が空いていた。
マルタはそこで、ようやく息を吐いた。
強い盾を持つ人になりたかった。
今は、その盾を下ろすところにも、覚えることがあった。
*
家へ戻ると、母親から桶を渡された。
「先に靴の泥を落として。それから、食堂の卓を拭いておくれ」
「ただいま、より先にお仕事?」
「お帰り。卓をお願い」
「はあい」
マルタは笑い、戸口の脇へ盾を置いた。
実家の宿は、今日も客を迎える準備をしていた。
卓を拭いていると、弟が盾のそばでしゃがんでいた。
表面についた傷を指でなぞっている。
「それ、今日ついた傷じゃないよ」
「じゃあ、魔物?」
「それは、練習」
「なんだ」
「練習、大事なんだから」
弟は聞いているのかいないのか、盾を持ち上げようとした。
マルタは布を置き、そばへ行った。
「持つなら、こっちに手を入れて。振り回さないでね」
両手で支えながら持たせる。
弟は顔の前まで上げ、すぐに下ろした。
「見えない」
「うん。私も、最初はそうだった」
自分の背に合った盾なのに、向こうを見るのが難しかった。
王都では、後ろを見る余裕もなくなった。
弟から盾を受け取り、壁へ戻す。
「今も練習してるの?」
「してるよ。今日も、できないところがあった」
言ってみると、少しも格好悪い気はしなかった。
*
夕方には、厨房を手伝った。
母親が、大きな鍋を混ぜている。
旅先で何度も思い出した、家の煮込みの匂いだった。
「ねえ。私が小さい鍋で作ると、味が濃くなっちゃうの、やっぱり水が減るから?」
「同じ時間、蓋を開けて煮ているからじゃないかい。肉の大きさも違うだろう」
「同じくらい柔らかくしたくて」
「柔らかさは、時計だけ見てもわからないよ。途中で一つ、確かめてごらん」
マルタは匙で具を取った。
湯気へ息を吹きかけ、噛んでみる。
「もう少し?」
「うん。まだ、そこは硬い」
帰ったら聞いてくると、ミナに約束したことだった。
一度聞けば終わると思っていたのに、確かめるたびに、別のことが出てくる。
ミナなら、こういう話を楽しそうに聞くのだろう。
客の食事が済み、片づけも終わってから、マルタは水晶を見に行った。
ミナの配信は、もう終わっていた。
残された記録を開く。
見慣れない壁を背に、友達が笑っていた。
「ほんとに、お店だ」
マルタは膝を抱えかけ、やめた。
前掛けをまだ外していなかった。
三十八人分。
その言葉を聞いて、自分の家の食堂を思い浮かべた。
椅子を一つずつ数え、何度くらい人が入れ替わったのだろうと考える。
すごい、と声が出た。
記録の中で、誰かが次は仲間にも声をかけると書いていた。
ミナは嬉しそうだった。
「私も、食べたいなあ」
すぐに出かけられる距離ではなかった。
宿の手伝いも、練習の予定もある。
次の旅へ使うお金は、自分でも貯めている途中だった。
マルタは、机から紙を一枚取った。
*
ミナへ。
最初に名前を書くと、その次の言葉は、すぐに出てきた。
食堂のお仕事、おめでとう。
三十八人分って聞いて、うちの椅子を数えちゃった。
マルタは笑いながら、続きを書いた。
自分も、宿で働いていること。
盾の練習で、今日はうまく交代できたこと。
でも、最初は右手まで盾へ押しつけてしまっていたこと。
うまくできたことだけを書かなくてもよかった。
二人で、そう約束していた。
母親の煮込みの話も書く。
水の量だけでなく、蓋を開けている時間と、肉の大きさを見ているらしい。
自分も、小さい鍋でもう一度作ってみるつもりだ。
最後の行で、少し迷った。
また、一緒に採取へ行こう。
それも書きたかったが、今日、いちばん思ったことは別だった。
いつか、私もその食堂のお客さんになりたい。
書いてから、頷く。
そのために、次の旅の準備も、少しずつ進めればいい。
紙を折ろうとしたところで、母親に呼ばれた。
「マルタ。明日の朝、パンを受け取ってきてくれる?」
「うん。手紙も出してくる!」
*
リュネールでは、翌朝、ラグがギルドの依頼板の前に立っていた。
昨日の盾役が、紙を一枚示す。
「少し遠い採取地までの護衛だ。泊まりになる。どうだ?」
ラグは行き先と日数を読み、同行する人数を尋ねた。
採取をする者が二人。荷を運ぶ者が一人。
弓の女にも、声をかけてあるという。
「食事の当番は、これからですか」
「そこから聞くのか?」
「大事なことですので」
男が笑い、ラグへ紙を渡した。
帰り道の予定まで確かめてから、ラグは頷いた。
「お引き受けします」
今度ミナに会ったら、話せることがまた一つ増える。
その前に、豆を焦がさず煮るところからだった。
ラグは依頼を受ける窓口へ、昨日より少し馴染んだ剣を提げて歩いていった。
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