第84話 いらっしゃいませ!
食堂の戸に、今日の献立が掛かっていた。
肉と玉ねぎの平焼き。
野菜の汁物つき。
その下に、小さく書いてある。
アルセリア王国、コルナの食堂の味。
ミナは一度立ち止まり、最後の行まで読んだ。
自分で相談して決めた言葉なのに、通りから見えるところにあると、少し落ち着かない。
「読めるかい?」
中からユスフが顔を出した。
「はい。あの、ちゃんと書いてあって」
「そりゃ、書いたからね」
笑われて、ミナも笑った。
レオンと採取へ出かけてから、四日が過ぎていた。
食堂そのものは、二日前に営業を再開している。
今日は、ミナが初めて料理を担当する日だった。
*
厨房では、バスマが玉ねぎの皮をむいていた。
「おはよう。いや、もう、こんにちはだね」
「こんにちは。お願いします」
ミナは袋を置き、前掛けを結んだ。
袖を留め、手を洗う。
試し作りの日に下へ移してもらった大皿は、そのままの場所にあった。
布を掛ける場所も変わっていない。
「昨日は、夕方の船が着いてから増えたよ」
ユスフが、使う材料を帳面と照らし合わせながら言った。
「今日も同じとは限らないが、最初から全部焼かなくていい。待つ人が出たら、客席の方で伝える」
「はい」
今日は、四十人分を用意することにしていた。
平焼きは、一人前に小ぶりなものを二枚。
汁物の野菜は、今朝の仕入れで値段と状態を見て選んだものだった。
ミナが生地をまとめる間に、バスマが玉ねぎを刻む。
肉と炒めて冷ました具を、器へ分けておく。
「これ、全部のせていい?」
「最初は、この器の分だけお願いします。なくなる前に、次を出します」
バスマが頷いた。
慣れた手つきで、使わない分へ蓋をする。
ミナは火を入れる前の鉄板を、掛け直した。
腕と足腰へ薄く魔力を通すと、持ち上げる姿勢が崩れにくかった。
置く場所を確かめ、ゆっくり下ろす。
楽に扱えても、鉄板が軽くなったわけではない。
手を離してから、火の方へ回った。
「汁、見てもらえる?」
バスマが鍋を混ぜながら言う。
匙へ少し取り、ミナは冷まして味を見た。
「もう少しだけ、お塩を。平焼きと一緒に食べるので、このくらいで」
足したあと、もう一度味を見る。
芋の角は柔らかく、葉物にはまだ色が残っていた。
客席で、椅子を引く音がした。
*
「王国の飯って、これかい」
入ってきたのは、袖口に木屑をつけた男だった。
戸の献立を親指で示し、それから厨房を見る。
ミナは背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ」
少し、声が高くなった。
男は気にした様子もなく、入口に近い席へ座った。
「腹にたまるやつかね」
「はい。肉と玉ねぎを入れて、薄い生地で包んで焼きます。汁物もつきます」
「うちの方にも、肉を包んで焼くものはあるけど。何が違うんだい?」
ミナは、包みかけの生地を台へ置いた。
「どんなものを召し上がるんですか?」
「もう少し厚くてな。割ると、香辛料の匂いがする。川上の村にいたころ、よく食った」
「こちらは薄くのばして、表面を少しぱりっと焼いています。今日は香辛料を控えて、炒めた玉ねぎの甘さと、お肉の汁を味わっていただくものです」
言いながら、指で厚さを示した。
「具を入れすぎると破れるので、薄く広げています。その方が、端を食べてもお肉が入るんです」
「なるほど。じゃあ、汁につけるより、そのままか」
「はい。最初はそのまま、食べてみてください。端のところは、汁物につけてもおいしいですよ」
「じゃあ、それを」
給仕の女性が、一人前、と厨房へ伝えた。
男は壁の方へ荷物を寄せ、水を飲み始める。
ミナは鉄板へ向き直った。
ちゃんと話せた。
そう思ったのは、生地を置いてからだった。
「その調子」
バスマが小さく言い、次の生地を差し出してくれた。
*
最初の皿が客席へ運ばれた。
ミナは鉄板を見るふりをして、少しだけ顔を上げた。
男が平焼きを割る。
湯気へ息を吹きかけ、一口かじった。
咀嚼する。
水を飲まずに、もう一口食べた。
「玉ねぎ、甘いな」
「ありがとうございます」
返事をしてから、肩の力が少し抜けた。
次に来た二人は、献立を見て同じものを頼んだ。
一人は卓の辛味を少し使い、もう一人は何も足さなかった。
好みが違っても、同じ皿を食べている。
ミナは次の四枚を焼いた。
奥のものを手前へ移し、焼き色を揃える。
バスマから受け取る生地は、試し作りのときより丸くなっていた。
それから、しばらく誰も来なかった。
鍋の蓋を少しずらす。
布を畳み直す。
戸の向こうを見てしまい、また鉄板へ目を戻した。
「今のうちに、水を飲んでおこう」
バスマに言われ、ミナは頷いた。
いつ忙しくなるのか、まだわからなかった。
*
川の方で、人の声が増えた。
ほどなくして、四人が一緒に入ってきた。
その後ろから二人。
給仕の女性が、椅子を寄せて席を作る。
「平焼き、四人前。それと、こちらに二人前」
「はい」
ミナは返事をし、鉄板の上を見る。
焼いているのは四枚。
これで二人前。残りは八枚。
「次、あと何枚?」
給仕の声が重なった。
ミナは、いま返したものが何枚だったか、急にわからなくなった。
焼き色。
皿。
包んである生地。
頭の中だけで数えようとして、返事が遅れた。
「包んであるのが四枚。今、残りの四枚を作るよ」
バスマが答えた。
給仕の女性が頷く。
「じゃあ、後からの二人には、少し待ってもらうね」
ミナは鉄板の端から、一枚ずつ皿へ取った。
もう二枚は、少し色が薄い。
「こちらの二枚、もう少しです。先に一人前、お願いします」
「はいよ」
皿が運ばれていく。
次の生地が渡された。
ミナは、誰がどこに座ったのかを追うのをやめた。
焼いているものと、次に置く場所を見る。
「二人前、焼き始めます」
「次も、すぐ渡せるよ」
バスマの返事がある。
汁物をよそう音がして、給仕の足音が客席へ向かう。
一人で頭の中に置いていた数が、声にすると、ほかの人にも渡った。
最後の二人前を出したとき、客席から、いい匂いだから余計に腹が減った、と声がした。
「お待たせしました」
ミナが言うと、男は手を上げた。
「焼きたてなら、待つよ」
そう言ってもらえても、待たせた時間はなくならない。
次はもう少し早く伝えようと、ミナは思った。
*
「間に合った!」
サフィナが入ってきたのは、少し落ち着いてからだった。
後ろにハーシムもいる。
「まだ、ありますか」
わざと改まった声で尋ねるので、ミナは笑ってしまった。
「はい。いらっしゃいませ」
サフィナは空いた席へ座ると、献立を指で叩いた。
「これ、二つ」
「俺の分まで決まったな」
「ほかのものを頼むつもりだった?」
「いや」
短いやり取りのあと、ハーシムが店の中を見回した。
隣の卓では、明日の荷下ろしの人数を相談していた。
戸口で知り合いを見つけた客が、こっちが空いているぞと椅子を引く。
「戻ってきたな」
小さな声だったが、皿を渡す場所にいたミナには聞こえた。
「前も、こんな感じでしたか」
「ああ。座ると、話が長くなる」
「ハーシムもでしょ」
サフィナが言ったところへ、皿が届いた。
彼女はすぐに平焼きを割り、熱さに指を離す。
「中、熱いので」
「うん。今わかった」
慎重に一口食べたあと、目が少し丸くなった。
「……これ、好き。外がぱりっとしてる」
もう一口食べ、ミナへ顔を向ける。
「エルディア味の日も来るからね」
「まだ、その日は決めていません」
「じゃあ、決まったら教えて」
初日の皿が、まだ半分以上残っている。
それなのに次の話をしているのが、ミナには嬉しかった。
*
夕方の光が薄くなるころ、肩から道具袋を下げた客が来た。
短い髪の、日に焼けた女性だった。
「まだ食べられる?」
「はい。一人前でよろしいですか」
「お願い。……こなべさん、だよね」
ミナは顔を上げた。
女性が、少し照れたように笑う。
「川風。船具の修繕をしてるって書いた」
「川風さん!」
思っていたより、大きな声が出た。
客席の方へ顔を向けてから、ミナは少し声を落とした。
「来てくださったんですね」
「今日だって記録で言ってたから。仕事が片づいたんで、寄ってみた」
名前を知っている。
何の仕事をしているかも、少し知っている。
けれど、声を聞くのも、顔を見るのも、初めてだった。
川風は席へ座り、道具袋を足元へ置いた。
指に、小さな擦り傷がいくつかあった。
「汁物、あります」
ミナが伝えると、彼女の顔がほころんだ。
「それ、楽しみにしてた」
器を両手で受け取り、先に汁を一口飲む。
長く息を吐いた。
文字板には出てこなかった顔だった。
ミナは、その顔を見てから、平焼きを皿へ移した。
*
三時間が終わるころには、外は暗くなっていた。
最後の客が代金を払い、袋を肩へ掛ける。
戸を出る前に、厨房へ振り向いた。
「次にあんたが作るのは、いつ?」
「来週の、同じ曜日です。夕方から、今日と同じ時間に」
「じゃあ、仕事が早く終わったら来るよ」
戸が閉まった。
ミナは、返した挨拶のあとも、少しそこを見ていた。
「お疲れさま」
バスマの声で、振り向く。
台には、二人前の材料が残っていた。
全部は売れなかった。
途中で待たせた人もいた。
汁物の量を、最初の数人には少し多くよそってしまい、後で器と匙を使って揃え直した。
ユスフと数を確かめ、残った材料の扱いを相談する。
今日は残りを焼いて、店で働いた人たちの夕食に回すことになった。
売った数と、店で使った分は、別々に帳面へ書かれた。
「来週も、ひとまず同じ数で見よう。初日だけではわからないからね」
ユスフが言った。
「次は、焼き始めるときに、何人分か先に伝えます」
「それがわかれば、客席でも話しやすいよ」
給仕の女性が頷く。
バスマも、包む分をまとめて置く場所を、もう少し広く取ろうと言った。
ミナは、二人の言葉を書き留めた。
*
片づけを終えてから、ユスフに断り、空いた卓の端で短く配信を始めた。
客はもういない。
水晶の向こうへ映るのは、ミナと、自分用の小さな器だけだった。
「今日、初めての担当日が終わりました」
話してみると、声が少し掠れていた。
思っていたより、たくさん声を出したらしい。
〈夕餉係:お疲れさまでした。平焼き、出したんですね〉
「はい。三十八人分、食べていただけました」
数字にして言うと、客席で見た顔が順番に浮かんだ。
「少し残りましたし、お待たせしてしまった方もいました。でも、バスマさんが包んでくださって、給仕の方も、待つ時間を伝えてくださって」
器の中の汁を、匙で少し混ぜる。
「一人だと、焼いている枚数まで、途中でわからなくなりそうでした」
〈川風:ごちそうさま。温かい汁があるの、助かった〉
ミナは、文字を見て笑った。
今度は、その言葉を言う顔がわかった。
「来てくださって、ありがとうございました」
〈川風:次は仲間にも声をかけるよ〉
「はい。……あまり一度に来られると、お待たせするかもしれませんけど」
言ってから、自分でも笑ってしまった。
厨房の奥では、バスマが最後の布を干していた。
ユスフは明日の担当者に渡す紙を揃えている。
明日は、別の人がこの火を使う。
ミナにも、採取の仕事がある。
「来週も、ここで作ります」
水晶へ向かって、そう伝えた。
配信を終えて、残っていた汁を飲む。
少し冷めていたけれど、野菜は柔らかく、喉を通ると、ほっとした。
ミナは帳面の最後へ、一行だけ書き足した。
次に作る日を、聞いてもらえた。
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