第82話 この厨房で作ります
食堂の戸が、開いていた。
見学の日を知らせてもらったのは、レオンと採取の約束をした翌日だった。
指定された午後、ミナが河岸の道を歩いていくと、窓から白い布が揺れていた。
前に見たときは、椅子が重ねてあった。
今は床へ下ろされ、二人の男が机を運んでいる。
戸口には、外した蝶番と工具が並んでいた。
「そこを通るなら、右へ寄ってくれるかい」
「はい」
長い板を持った人が、ミナの横を通った。
木を削った匂いに、濡れた床の匂いが混じっている。
ミナは袋の紐を持ち直した。
「見学と、試し作りのお約束で来ました。ミナと申します」
「ああ、待っていたよ」
帳面を持った男が、奥から顔を出した。
髪には白いものが多く、鼻に掛けた眼鏡を指で押し上げている。
「ユスフだ。店の仕入れや金勘定、働く人たちの予定を見る。困ったら、まず私に言ってほしい」
差し出された手を握る。
掌は、思っていたより硬かった。
「長く倉庫の帳場にいたんだがね。今度は、荷物より腹の減った人が相手だ」
「その方が急かされるよ」
厨房から、女性の声がした。
袖をまくった女性が、拭いていた手を布から離す。
四十歳くらいだろうか。髪をきっちりと布でまとめ、腰には大きな前掛けを巻いていた。
「バスマ。あんたと同じ日に、仕込みと厨房の手伝いに入る予定。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「粉は、これでよかった?」
台の上に、頼んでおいた袋があった。
肉と玉ねぎも、用意されている。
ミナは頷いた。
自分が書いて渡した材料が、別の人の手で揃えられていた。
*
作業の前に、ユスフから今日の手当と、材料の費用について説明を受けた。
試しに作る日にも、働いた分は支払われる。用意された材料は店のもので、ミナが買い取る必要はなかった。
それを確かめてから、厨房を案内してもらった。
火口は二つ。
片方に鍋を掛け、もう片方では平たい鉄板を使える。
水桶の台は取り替えたばかりで、足元にはまだ新しい木屑が少し残っていた。
「ここを通って皿を渡す。食べ終わった器は、向こうから戻してもらう」
バスマが、客席へ続く二つの場所を指した。
ミナは空の皿を一枚持ち、台から鉄板の前まで歩いてみた。
振り向いて皿を置き、それから水桶を見る。
「この布は、こちらに掛けてもいいですか」
「使いやすいところにしてみな」
手を拭いてから粉に触れるまでが、少し近くなった。
棚の上の大皿には手が届かなかったので、それは下へ移してもらった。
何でも、すぐ使えるわけではない。
でも、変えてもいいところがあった。
ミナは手を洗い、持ってきた帳面を、粉のかからない場所へ開いた。
「肉と玉ねぎの平焼きを、作ってみたいです」
「生地で包むんだったね」
「はい。最初は、私がいたお店で作っていた味で。それから、少しだけ違うものも」
味付けだけ、エルディア風。
サフィナの声を思い出しながら、ミナは小さな香辛料の包みを出した。
こちらの市場で買い、香りを確かめてきたものだった。
「この香辛料なら、肉と混ぜる前に、玉ねぎと一緒に炒めるといいよ」
バスマが包みを見て言う。
「油に香りが移る。うちでは、豆を煮るときにもそうする」
「どのくらい入れますか」
「まずは少し。足りない方が直せる」
小皿へ出してもらい、量を帳面へ書いた。
今日の材料は、半分ずつに分けることにした。
*
粉に水を入れると、宿で少量試したときと同じように、初めは少し硬くまとまった。
ミナは、すぐに水を足さなかった。
濡らして絞った布を掛け、その間に具を作る。
玉ねぎを刻む音が、二つになった。
バスマの包丁は、ミナのものより大きい。
同じ大きさに切ろうとしているのが、隣からわかった。
「これくらい?」
「はい。ありがとうございます」
「ずいぶん細かいね」
「大きいままだと、平らにするときに生地を破ることがあるんです」
炒めた玉ねぎを分け、片方へ香辛料を加える。
じゅっと小さな音がして、匂いが変わった。
ミナは、少しだけ顔を近づけた。
「その匂いになったら、長く置かなくていい」
バスマの声で、火から離す。
それぞれの玉ねぎを刻んだ肉と合わせて炒め、塩を入れた。
具は皿へ広げて冷ます。
「温かいうちに包んじゃ駄目?」
「生地が柔らかくなって、扱いにくいんです。汁も、少し落ち着いてからの方が」
布を取ると、生地はさっきよりのばしやすくなっていた。
ミナが一つ包んで見せると、バスマも隣で真似をした。
端を寄せ、口を閉じる。
掌で押して、平たくする。
「あ。出た」
バスマの生地の横から、具が少し顔を出した。
「私も、最初はよく破きました」
「具を欲張ったね」
ミナが頷くより先に、本人が笑った。
次は具を減らし、端を薄くしすぎないようにする。
丸い形は少し歪んでいたが、今度は破れなかった。
*
最初の四枚を、温めた鉄板へ並べた。
思ったより、奥の火が強い。
一枚を返すと、焼き色が片側へ寄っていた。
「奥が早いですね」
「癖があるとは聞いた。場所を替えて使う方がよさそうだね」
鉄板の上で位置を入れ替える。
押したときに生地が戻るのを確かめ、皿へ取った。
次の四枚を包み始めて、ミナは最初の皿を見た。
もう湯気が薄くなっている。
包んで、焼いて、皿に載せる。
次を包んでいる間に、焼いたものが冷めていく。
「先に、全部包んでおけば……」
「待って。あたしの仕事がなくなるよ」
バスマが、手を伸ばした。
「包む方は任せて。厚さを見てくれる?」
ミナは、手の中の生地を見た。
無意識に、次の分まで自分の前へ寄せていた。
「……はい。これくらいでお願いします」
一枚を隣へ置く。
バスマはそれと見比べながら押し、ミナへ渡した。
ミナが焼いている間に、次ができる。
振り向くと、皿も用意されていた。
「四枚ずつでいい?」
「はい。今、二枚空きます」
「じゃあ、これを」
手が、止まらなくなった。
急いで動いているわけではないのに、次のものが必要なところにある。
ミナは鉄板へ向き直り、焼き色を見た。
*
客席の方から、聞き覚えのある声がした。
「戸の修繕は、済んだのかな」
ユスフが答え、続けて水桶と排水の話をする。
ミナが顔を上げると、深緑の上着が見えた。
ダリヤだった。
「領主様」
「そのままで。火を見ておくれ」
慌てて頭を下げようとしたミナを、手で制する。
ダリヤは厨房の入口から、鉄板を覗いた。
「ちょうど、試食の時間かな」
「まだです、ダリヤ様。先にこちらの確認を」
同行してきた職員が、紙を差し出した。
「そう。では、待たせてもらおう」
笑って紙を受け取り、ユスフのところへ戻っていく。
ミナは一枚を返した。
バスマが、隣で小さく笑っている。
「いい匂いの日に来る方だね」
「今日、来られる予定だったんですか」
「再開前に見に来るとは聞いてたよ」
客席では、ダリヤが机の間を歩いていた。
椅子を引いたときの通り道を見て、戻ってきた器をどこへ運ぶか、ユスフに尋ねている。
こちらを見て目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
ミナは、焼きすぎないように鉄板へ視線を戻した。
*
試食には、二種類を半分ずつ出した。
具に火は通してあるが、生地の内側まで焼けているか、一枚を割って確かめる。
玉ねぎの間から、細く湯気が上がった。
修繕をしていた人たちにも、ユスフが声をかけた。
道具を片づけ、手を洗ってから椅子へ座る。
「こっちが、王国の味?」
「私がいた、コルナのお店の味です。もう一つは、バスマさんに香辛料の使い方を教えていただきました」
ミナが説明すると、ダリヤは一口食べ、切った断面を見た。
「中にも、玉ねぎが随分入っているね」
「はい。肉だけより、柔らかくなります」
「こちらは、旅先で知らない料理に出会った気になる」
次に、香辛料を加えた方を口へ運ぶ。
「こちらは……明日も食べたくなる味だね」
バスマの肩が、少し下がった。
「うちの味が混じってますからね」
「それがいい」
修繕をしていた男は、香辛料の方を指した。
ユスフはもう一方を食べてから、こちらなら辛いものが苦手な人にも出せると言った。
「香辛料は、辛くないものを使っています。でも、匂いは少し強いです」
ミナが答えると、ユスフは頷き、紙へ書き直した。
どちらが好きかは、分かれた。
全員が同じ方を選ぶわけではなかった。
「二つとも出す?」
バスマに聞かれ、ミナは厨房を振り返った。
具を入れた皿が二つ。違いがわかるよう、片方の布だけを折ってある。
「最初は、一つにしたいです」
口に出してから、続けた。
「焼くところに慣れるまで、間違えないように。最初の日は、コルナの方で。こちらの味も、別の日に出してみたいです」
「では、私は二度来る理由ができたね」
ダリヤが言った。
ミナは少し笑って、頷いた。
「汁物もつけたいんです。遅くなっても、温かいものを食べたいという方がいて」
「野菜なら、仕入れに合わせて相談しよう。ずっと同じ値段では買えないからね」
ユスフの言葉に、帳面を開く。
するとダリヤが椅子を寄せて、隣から覗き込んだ。
「今日は、何を書いているの?」
「鉄板の奥が、先に焼けることと。四枚ずつ、包んでいただくことです」
「もう、この店の帳面になってきたね」
そう言って、そっと頭を撫でられた。
ミナは筆を持ったまま、少し首を縮める。
「……字が、曲がります」
「おっと、失礼」
すぐに手が離れた。
けれどダリヤは、席を戻さず、続きを楽しそうに見ていた。
*
食べ終えた皿を下げるとき、ダリヤはバスマにも声をかけた。
「仕込みを手伝ってくれて、ありがとう。働く時間は、無理がないかな」
「この日なら、上の子が下の子を見てくれます。他の日を増やすなら、相談させてください」
「もちろん。続けられる形で頼みたい」
修繕をした人には、使って初めて気づく不具合が出たら、また相談させてほしいと伝える。
皿を運んでくれた職員にも礼を言った。
ダリヤを見送ってから、ミナたちは台を拭き、道具を洗った。
使った粉と、残った粉を量る。
今日は何枚できたか、ユスフが帳面へ記していく。
「大きさが揃えば、一人前の量も決めやすい。値段は、汁物と合わせてもう一度計算しよう」
ミナは、少し小さく作ってしまった一枚のことを伝えた。
ユスフはそれも書き足し、次の紙を出した。
働く時間と、給金についての紙だった。
客へ料理を出すのは、夕方からの三時間。
その前の仕込みと、終わったあとの片づけにも時間が要る。
今日試してみた分を踏まえて、バスマと一緒に、何時に入ればいいか確かめた。
給金は、仕込みと片づけも含めたものだった。
食材と薪を、ミナの財布から買う必要はない。
今日の分として、最初に説明された額の硬貨が差し出される。ミナは数を確かめ、両手で受け取った。
「採取で、町を離れるときは、先にご相談します」
「頼むよ。こちらも、予定を変えるときは早めに話す」
ユスフが、勤務表を広げた。
領主の館で見たものに、いくつか書き込みが増えている。
料理の欄は、一つ空いたままだった。
ミナは、その隣の名前を読んだ。
バスマ。
給仕の欄にも、会計の欄にも、人の名前がある。
ここに自分の名前が入ったら、隣の人が生地を包んでくれる。
焼いたものを、客席まで運んでくれる人がいる。
ミナは顔を上げた。
「週に一度、こちらで作らせてください」
バスマが笑った。
「うん。一緒にやろう」
ユスフが筆を差し出す。
ミナは、名前を書く場所を確かめた。
採取の依頼を初めて受けた日にも、こんなふうに筆を持った。
あのときは、必要な葉を、必要な状態で持ち帰ると約束した。
今日は、この厨房へ来て、食事を作る約束をする。
ミナ。
書き終えて筆を上げると、空いていた場所が、一つ埋まっていた。
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