第80話 小さな来訪者
ナディムの店を訪ねると、帳場の向こうから手を振られた。
「ミナ、ちょうどよかった。採取とあの食堂のことで、話がある」
肉を焼いた日の、二日後だった。
ミナは肩から袋を下ろした。帳面を取り出そうとすると、ナディムが椅子を勧めてくれる。
「店の方の持ち主には会えたよ。建物は、今も前の店主のものだ。ただ、再開の相談には、別の方も加わっていてね」
「別の方、ですか」
「この町の領主様だ」
袋の留め具を、閉じかけたまま止めた。
「……領主様」
「ダリヤ・サハリ様。君の採取の仕事についても、ギルドからお聞きになったらしい。私が君の話をしたら、一度、直接話してみたいと」
何か、間違えただろうか。
納品したものと、受付へ出した紙を順番に思い浮かべる。
「叱られる話ではないよ」
顔に出ていたらしかった。
ナディムが、少し笑う。
「明日の午後なら、お時間が取れるそうだ。私も一緒に行く。都合はどうかな」
「明日は、依頼は入れていません。……あの」
そこで、ミナは膝の上へ両手を揃えた。
「貴族の方への挨拶を、教えていただけますか」
*
領主の館は、市場よりも高い場所にあった。
門をくぐる前から、ミナは昨日教わった言葉を繰り返していた。
名乗る。
時間をいただいたお礼を言う。
お辞儀は、慌てずに。
服は、宿でよく皺を伸ばしたものを着てきた。
靴の泥も落とした。帳面は袋のいちばん取り出しやすいところにある。
それでも、門番へナディムが名前を告げる声を聞くと、背中が硬くなった。
「肩に力が入っているよ」
「はい」
力を抜こうとしたら、今度は肩をどこまで下げればいいのかわからなくなった。
通された部屋には、川と街道の地図が掛かっていた。
長い机の端に、巻いた紙と木の箱が積まれている。窓際では、職員らしい人が書類を揃えていた。
その奥から、一人の女性が立ち上がった。
深い緑の上着の袖口に、細い刺繍がある。
まとめた黒髪に銀色のものが少し混じっていた。ミナを見る目は穏やかだったが、立ち上がる動きには迷いがなかった。
「よく来てくれたね」
ナディムが挨拶をする。
ミナも、その隣で口を開いた。
「ミナと申します。本日は、お時間をいただき、ありがとうございま……す」
頭を下げながら、足を引くのを忘れたと思った。
遅れて片足を動かす。
体が傾き、戻そうとして、膝だけが曲がった。
何かが違う。
わかっているのに、次にどこを動かせばいいのかわからない。
中途半端に腰を落とした姿勢で、ミナは止まった。
小さく、笑い声がした。
「……いえ、失礼。ようこそ、小さな来訪者さん」
ダリヤが、口元へ添えていた手を下ろす。
「まずは、楽に立っておくれ。そのままでは、脚が疲れてしまう」
「す、すみません」
「時間をかけて挨拶を覚えてきてくれたのだろう。ありがとう」
昨日は、できたのだ。
店の帳場で、ナディムに二度も見てもらった。
隣を見ると、彼は笑うのをこらえながら、ちゃんと頷いてくれた。
*
勧められた椅子へ座っても、ミナはしばらく膝を揃えたままだった。
「こちらの暮らしには、少し慣れたかな」
「はい。市場と、ギルドへ行く道は、わかるようになりました」
「それはよかった。私も、知らない町ではまず食べ物を買う場所を覚える」
ナディムが頷いた。
「ミナは、そちらはもう随分と」
「まだ、わからないものの方が多いです」
「では、しばらく楽しめそうだね」
ダリヤは机の紙を一枚引き寄せた。
ギルドの印が見えた。
「薬材の納品状態がよかったと聞いている。採った場所や、持ち帰るまでの扱いも、よく書いてあったそうだ」
「こちらでは、使うところが違うものもあって。サフィナさんに教えていただいたことを、忘れないように書きました」
「見せてもらっても?」
ミナは帳面を開いた。
採取地の略図の横へ、根の形を描いた頁だった。
「この細いところは、途中で切ってしまったんです。ただ、必要なところまでは傷んでいないと、納めた先で教えていただいて」
切れた場所を指す。
それから隣の絵へ移り、土をどちらから掘ったか説明した。
「次は、ここを先に空けようと思っています。引く前に、もう少し横まで見えるようにすれば……」
指だけでは足りず、空いた手で根の曲がり方を示す。
顔を上げると、ダリヤがこちらを見ていた。
「……可愛いこと」
「ダリヤ様」
書類を持っていた職員が、静かに言った。
ミナは手を止める。
「聞いていますよ。この子は、傷つけずに持ち帰るために、採るときの手順を変えようとしている」
ダリヤの指が、籠の絵の下を示した。
「こちらは、運ぶときに変えたところだね。その手間は、買い取りの際にも評価されたかな」
「はい。状態がいいと言っていただけました。次もお願いしたい、とも」
「そう。それならよかった」
ダリヤは職員にも目を向けた。
「手をかけて持ち帰った人が、次も同じ仕事をしたくなる買い方であってほしいからね」
職員が、短く書き留めた。
ミナは、もう一度帳面を見た。
細い根を一本切ってしまった話まで、ここで聞いてもらうとは思わなかった。
「採取を主にしてくれる人は、まだ少ない。薬草を知っている人でも、運ぶところまで任せられるかは別の話だ。あなたには、土地を知る人と一緒に、これからも働いてもらえたら嬉しい」
「はい。私も、もっと覚えたいです」
今度は、挨拶の言葉を考えなくても答えられた。
*
「さて。食堂の話をしようか」
職員が、別の紙を机に広げた。
建物の簡単な図と、いくつもの名前が書かれた表だった。
「あそこが閉まってから、困っているという声が何度も届いていてね」
川岸で働く人たちは、いつも同じ時刻に食事が取れるわけではない。
船の着く時刻がずれれば、荷を下ろす仕事も遅れる。
市場の食事処が片づけを始めるころに、ようやく手が空く人もいる。
ハーシムの話を思い出した。
部屋では火を使えないから、パンや干したものを食べると言っていた。
「それに、丸一日は無理でも、数時間なら働けるという人がいる。子供を迎えに行くまで。家族が店を見てくれる日だけ。そうした人たちの働く場所にもできないかと考えている」
ダリヤは表を、ミナの方へ向けた。
「建物は、持ち主から借りる相談がついている。厨房と水回りを確かめて、修繕を進めているところだ。再開の準備は、河岸の仕事を取りまとめる者たちとも一緒に進めてきた」
ミナが尋ねたから、急に始まった話ではなかった。
閉じた戸の向こうで、もう人が動いていた。
「料理を作る者。席へ運ぶ者。代金を受け取り、帳面をつける者。仕込みや洗い物を手伝う者。少しずつ集まってきている」
表の一つの欄には、二人の名前が並んでいた。
隣の欄には、別の名前がある。
「日によって、働く方が違うんですか」
「ほとんど日替わりだね。同じ者が何日か入るところもあるけれど」
「落ち着かない店になるのでは、という意見もございます」
職員が言うと、ダリヤは笑った。
「それも面白いじゃないか。今日は誰の料理だろうと、戸を開ける楽しみがある」
「仕入れをまとめる者は必要です」
「そこは、日替わりでは困るね」
すぐに頷いてから、ダリヤはミナへ向き直った。
「店全体を見る者は置く。材料を買う金も、人に払う賃金も、その者が管理する。料理人が毎日変わるからと、毎朝、別の店を一から作るわけではないよ」
ミナは表の端を見た。
給仕の欄にも、仕込みの欄にも名前があるのに、料理の欄だけが空いているところがあった。
「週に一度。夕方から、三時間」
ダリヤの指が、その空白へ置かれた。
「今、ここを担当する料理人が決まっていない」
ミナは空白を見たまま、息を止めた。
*
「ナディムから、あなたが食堂で働いていたことは聞いた。実際に料理を食べた者の話もね」
隣で、ナディムが穏やかに頷く。
「ただ、先に聞いておきたい。ミナ。あなたは、この町で何をしたい?」
「……知らない食材を、見てみたいです」
言ってから、少し考えた。
「見るだけじゃなくて、どこに生えているのかとか、どこがおいしいのかも。自分で採りに行って、教えていただいて。それから、料理を」
机に置いた帳面の端を、指で押さえる。
「食べてもらえたら、嬉しいです」
「料理の仕事が始まったら、採取はどうする?」
どちらかを選ばなければならないのだろうか。
川の向こうで見た根と、開いた紙包みから上がる湯気が、順番に浮かんだ。
「どちらも、続けたいです」
欲張りに聞こえただろうか。
けれど、ダリヤは表を引っ込めなかった。
「では、この空いている時間はどうかな」
「私が……作るんですか」
「まずは、厨房を見て、一緒に働く者たちと話してみてほしい。一度、実際に作ってみよう。鍋の大きさも、出す数も、今までと同じとは限らないからね」
ミナは、客の座っていない食堂を思い出した。
重ねられた椅子。
光の入っていた窓。
「三時間、ずっと作るなら……その前に、下ごしらえが必要です」
「そうだね。そこも含めて、働ける時間を相談しよう」
職員が、隣の欄を示した。
「仕込みを手伝う者は、この日にも入ります。営業中の補助もいます。お一人で客席まで見ていただくお話ではありません」
「採取に行く日と重ならないようにできますか」
「あらかじめ日を決めれば。遠くへ行く予定ができたときも、早めに相談していただければ調整します」
質問するたびに、空白の周りにいる人たちが見えてきた。
ミナが作っている間にも、誰かが皿を運ぶ。
次に使う器を洗う人がいて、代金を受け取る人もいる。
それでも、そこへ自分の名前を書いていいのか、すぐには頷けなかった。
「あの。私は、まだ十三で。こちらの国の料理も、知らないものが多くて」
「知らないものを、知らないまま出そうとはしないだろう?」
「それは、しません」
今度は、すぐに答えた。
ダリヤが微笑んだ。
「年齢や、どこの国から来たかで、その席を閉ざすつもりはない。あなたの仕事を聞いたうえで、尋ねているんだ」
机の向こうから、まっすぐに目が合う。
「夢の第一歩を、ここで踏み出してみる勇気はあるかな?」
胸の奥が、大きく鳴った。
いつか、自分の料理を食べてもらう場所を持ちたい。
そう思ったことはある。
けれど、いつかという言葉の中には、日付も、開ける時刻もなかった。
目の前の紙には、その両方を書き込める場所がある。
ミナが返事を探していると、ダリヤはふっと肩の力を抜いた。
「……少し、大層なことを言ってしまったね」
ナディムが、横で笑った。
「引き受けてくれるとしても、帰国するまででいい。あなたの旅を、ここで終わらせようという話ではないよ。こちらも、人探しは続ける」
「帰るときは、早めにご相談をお願いします」
職員が付け加える。
その言い方がいつものギルドと少し似ていて、ミナはようやく息をつけた。
「給金や食材の費用も、試しに作ってもらう前に説明する。お願いしたあとで、善意だったことにはしないからね」
ダリヤは立ち上がり、ミナの椅子の横へ来た。
「気持ちが決まったら、またおいで。決まらなくても、あなたなら歓迎だ。今日、聞けなかった話もある」
温かい手が、頭へそっと触れた。
ミナは反射的に背筋を伸ばしたが、その手は、髪を一度撫でて離れていった。
「返事を急がせるつもりはないよ」
ミナは、膝の上で握っていた指を開いた。
「……厨房を、見せていただきたいです」
ダリヤの顔が明るくなる。
「そうか。では、早速明日にでも――」
「ダリヤ様。修繕の立ち会いと、担当者の予定を先に」
「ああ、そうだった。私が決めれば全員動けるわけではないね」
少しも不機嫌にならずに言い直す。
「日が決まったら、知らせよう」
*
帰りの挨拶では、足を動かすことを考えなかった。
両足でしっかり立って、お礼を言ってから頭を下げた。
「ああ、ミナ」
戸口で、ダリヤに呼び止められる。
「採取の仕事も、引き続き頼むよ。あなたの記録は、ここで働く人たちの宝になる」
袋の中には、さっきまで見せていた帳面がある。
書き損じた線も、切ってしまった根の絵も、そのままだ。
「はい。次も、ちゃんと書きます」
今度のお辞儀は、途中で止まらなかった。
館を出ると、川からの風が頬に当たった。
坂の下に、店の屋根と行き交う人が見える。
「どうだった?」
ナディムに聞かれて、ミナは少し歩いてから答えた。
「最初は、脚の動かし方がわからなくなりました」
「うん。それは見ていたよ」
「でも、今は……何を作ればいいか、考えています」
笑いながら答えると、ナディムも笑った。
まだ、引き受けると決めたわけではない。
厨房を見て、一緒に働く人たちに会って、できる量を確かめたい。
そのときに聞くことを、ミナは頭の中で並べた。
鍋はいくつあるだろう。
皿は、どのくらい温かさを保てるだろう。
仕事帰りの人は、何時ごろから来るのだろう。
あの空白に名前を書くなら。
戸を開けて入ってきた人に、温かいものを出したかった。
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