第79話 こちらでは、こう食べます
ナディムの店先で、ミナは荷物の紐が結ばれるのを待っていた。
布をかけた籠が二つ、荷車へ載せられていく。
運ぶ男が伝票を受け取り、行き先を確かめた。ナディムが頷くと、車輪が石畳の上を動き始める。
「お待たせ。今日は採取へ行かないのかい」
「はい。昨日までの記録を整理しようと思って。それと、少し伺いたいことがあるんです」
ミナは、袋の紐へ添えていた手を離した。
「河岸に、閉まっている食堂がありますよね。前のご主人が、息子さんのところへ移られたという」
「ああ。サフィナに聞いた?」
「はい。また使う方は、決まっていないんですか」
ナディムは、店の奥へ運びかけていた帳面を台へ置いた。
「私の知る限りでは、まだだね。建物や道具をどうするかも、話がまとまっていないはずだ」
少し間を置いて、ミナを見る。
「気になるのかい?」
ミナは頷いた。
あの店を見てから、二日経っていた。
夜に記録を書き終えると、火の消えた竈を思い出した。
「お仕事から遅く戻ると、温かいものを食べられない日があると聞きました。前は、あそこへ行けたそうで」
「荷運びの者にも、惜しんでいる人はいるよ」
「私も、食堂で働いていたので……使える台所が残っているなら、何かできないのかな、と」
言ってから、少し顔を伏せた。
自分の店ではない。
まだ、その中へ入ったこともなかった。
「毎日できるかとか、そういうことは、わかりません。採取のお仕事も続けたいですし」
「うん。そこは、これから考えることだね」
ナディムの声は、普段と変わらなかった。
「まず、持ち主がどうしたいか聞いてみようか。使う相談ができるのかどうか。君も、どんなことならやってみたいか、考えておくといい」
「お願いしても、いいですか」
「もちろん。返事が来たら知らせるよ」
ミナは礼を言った。
気になっていた場所について、初めて自分の口で尋ねた。
それだけでも、昨日までとは少し違った。
*
宿へ戻ると、主人から伝言を渡された。
レオンからだった。
昼過ぎに、ギルドの通りの肉屋で会えないかとある。店の場所も、簡単に描いてあった。
ミナは、下に添えられた一文を読んだ。
食材のことで相談したい。
*
「よければ、一緒に食べないか」
そう言って、レオンが肉屋の台を示した。
ミナは、台の上の塊を見た。
白っぽい肉に、薄い膜がついている。
見たことのない肉だった。
「これは……」
「巨角蜥蜴。調査中に遭遇した」
名前には、昨日ギルドで聞いた覚えがあった。
上流で大きな魔物が出たが、調査団に怪我人はいなかったという。
「レオンさんが、倒されたんですか」
「ああ。食べられると聞いたので、残した」
肉屋の男が、奥の冷蔵庫から別の包みを出してきた。
魔法で冷やしている庫内から、白い靄が流れた。
「うちで扱ったことのある種類だよ。若い連中は久しぶりに見たって騒いでいたがね。調べて、食用に回せるところを分けてある」
男が台へ包みを置いた。
「こちらが、あなたの取り分から頼まれていた肉です。残りの処理は、話したとおりで」
「お願いします」
レオンは頷き、ミナへ向き直った。
「このくらいなら、運べると思ったんだが」
ミナは二つの包みを見比べた。
「……何人分、作るご予定でしょうか」
レオンも肉を見た。
「二人では、多いか」
「はい。かなり」
肉屋が肩を揺らした。
「元があれだけ大きいと、小さく見えるんですよ」
レオンは黙って頷いた。
ミナには、元の大きさがますますわからなくなった。
*
今日使う分だけ、改めて切り分けてもらった。
残りは肉屋に預け、レオンが宿や調査班と相談することになった。
ミナは肉の切り口を見た。
筋が、思っていたよりはっきりしている。
「焼いて食べられますか」
「この部位ならね。膜を取って、筋を横切るように。厚い塊のまま焼くと硬くなる」
男は使っていない端を示し、刃を入れる向きを教えてくれた。
別の部位は、時間をかけて煮る方がよいという。
「同じ魔物でも、ここで変わるんですね」
「肉は大体そうさ。こいつは特に、脚と背を同じように扱わない方がいい」
ミナは帳面へ、教わった部位の位置と線の向きを描いた。
レオンが横から覗く。
「氷で止めたあとも、いろいろあるんだな」
「氷、ですか」
「傷めずに残せると思って」
肉屋は、包みを閉じる手を止めた。
「運ぶ方は、大仕事でしたけどね」
「それは、聞きました」
レオンが少しだけ視線を落としたので、ミナは続きを尋ねるのをやめた。
*
いつもの食事処は、ちょうど昼の片づけに入るところだった。
空いていれば台所を借りたいと尋ねると、店主は二人の持ってきた包みを見て、中身を聞いた。
巨角蜥蜴だと答えると、眉が上がった。
「ああ、昨日から話になってるやつか。今日も、前と同じ時間までならいいよ」
薪の代金を払おうとすると、レオンが先に財布を出した。
「今日は俺から誘った。そこは持たせてくれ」
「では、お料理は私が」
ミナは包みを受け取った。
店主にも味を見てもらうことにして、必要な分を確かめる。
レオンは夕方から、調査の記録をまとめる仕事があった。
その前に食べ終えられるよう、今日の料理は薄切り肉の鍋焼きに決めた。
玉ねぎを切り、肉の膜を取る。
包丁を斜めに入れ、教わった筋の向きを横切った。
断面は、切る前に想像したより滑らかだった。
「配信しても、よろしいですか。お名前やお顔を出すかは――」
「今日は手元だけで。調査の話は、まだ公開できないこともあるから」
「わかりました」
ミナは水晶を置き、映る範囲を確かめた。
レオンはその外側に腰を下ろし、卓上の水差しから杯へ水を注いだ。
*
「今日は、巨角蜥蜴のお肉を分けていただきました。こちらの肉屋さんに、扱い方を教わっています」
配信を始め、切った肉を皿へ並べる。
薄くした一枚の端を、指で広げて見せた。
「この部位は、筋を横切るようにすると、焼いても食べやすいそうです」
文字板に、名前が出た。
川風。
初めて見る名前だった。
〈川風:サフィナから聞いて来たよ。それ、巨角蜥蜴? ずいぶんいいところを貰ったね〉
「サフィナさんのお知り合いですか」
〈川風:川下の船具屋で修繕をしてる。あの子が使う舟の道具も、うちへ来るんだ〉
ミナは、少し顔を水晶へ近づけた。
「サハルの方なんですね。初めまして、こなべです」
〈川風:よろしく。あの子が、蟹を茹でる先生をしたって言ってたよ〉
サフィナが誰かに話してくれた。
その人が、今、自分の手元を見ている。
通りですれ違っていても、気づかないかもしれない人だった。
「はい。おいしかったです。殻の開け方は、私も少しお手伝いしました」
〈川風:そこも聞いた。自分が教わったところまで、ちゃんと話してたよ〉
ミナは笑った。
今度会ったら、お礼を言おうと思った。
*
ナディムから教わった香辛料を、小皿へ取った。
今日は肉の味を知りたいので、使う量は控えめにする。
塩と一緒に肉へ馴染ませようとしたところで、また文字が届いた。
〈川風:うちでは、酸っぱい果実の汁を少し使う。そこの店にも、置いてないかな〉
ミナは店主へ尋ねた。
魚に添えるための果実があるという。
一つ買わせてもらうと、店主は半分に切って、小皿へ載せた。
「この肉にも使うよ。全部かけると酸っぱくなるから、少しずつね」
ミナは小さな肉を一枚、別の皿へ移した。
「まず、一切れで試してみます」
汁を少し加え、塩と香辛料を馴染ませた。
もう一枚には、果汁を使わずに同じ下味をつける。
鍋へ油を引き、二枚を離して置いた。
表面の色が変わり、縁が少し縮む。
裏返すと、香辛料の香りがふわりと上がった。
〈舟待ち:川上の実家では、その香辛料は焼いたあとだったな。先に入れると父が焦がすからかもしれないけど〉
また、見慣れない名前だった。
「そういう使い方も、あるんですね」
〈川風:うちは先。家ごとに違うね〉
ミナは三枚目を取った。
今度は塩と果汁だけにして、香辛料を残す。
同じ町の人が、同じ食べ方をするわけでもなかった。
サフィナの塩加減も、売っている蟹とは違っていた。
火が通った肉を小皿へ分け、焼き終えた三枚目に、残した香辛料を少し振る。
それぞれを切り分け、レオンと店主の前へ置いた。
「左から、果汁なし、果汁あり、香辛料を最後に加えたものです」
自分の皿にも、同じ順で並べた。
*
最初の肉は、噛むと弾力があった。
思っていたほど癖は強くない。香辛料の奥に、肉の脂の甘さが残った。
二つ目を食べ、ミナはもう一度皿を見た。
酸っぱい料理になるのかと思ったが、それほどではない。
飲み込んだあと、口の中に残る感じが少し軽かった。
「私、果汁を使った方が好きかもしれません」
小声で言うと、レオンは一つ目をもう一口食べた。
「俺は、こちらも好きだ。肉の味がよく残る」
三つ目を口へ入れると、今度は香りが先に来た。
鍋で焼いたものより、香辛料そのものの匂いがはっきりする。
「同じ粉なのに、違いますね」
「俺は最後に振った方がいいな」
レオンは言い、店主へ皿を寄せた。
店主は食べ比べてから、果汁の入った二つ目を指した。
「パンと一緒なら、私はこれだね。焼いた玉ねぎも合うと思う」
ミナは水晶へ戻り、食べた感想を伝えた。
「一緒に食べている方とは、好きなものが少し違いました。香辛料を後から加えると、香りがよくわかりますね」
〈舟待ち:それそれ。実家の匂いだ〉
〈川風:果汁の方も気に入ってもらえてよかった。自分の分も焼きたくなったよ〉
ミナは、小皿へ残った果実を見た。
お店で聞かなければ、魚に使うものだと思ったままだったかもしれない。
「教えてくださって、ありがとうございます」
*
残りの肉には、塩と少しの果汁を使った。
香辛料は別添えにして、食べるときにも選べるようにする。
先に玉ねぎを焼いて皿へ移し、空いた鍋で肉を焼いた。
重ねずに並べ、焼けたものから取り出す。
レオンが、小皿を一つ持ち上げた。
「こちらは、何も振っていない分?」
「はい。お肉の味が好きと仰っていたので。途中で足すこともできます」
「ありがとう」
その返事は、少し柔らかかった。
焼き上がった肉を、玉ねぎと一緒にパンへ挟む。
ミナは一口食べた。
甘くなった玉ねぎと、弾力のある肉がよく合った。
果汁を使っても、知らない肉の味が消えるわけではなかった。
向かいでは、レオンが食べかけのパンへ香辛料を足していた。
一口目と二口目で、変えてみるらしい。
「どちらが、お好きですか」
「……もう少し食べてから決める」
ミナは笑い、自分の分へも少し足した。
文字板に、新しい行が増えた。
〈川風:この辺で店をやってるの? 仕事帰りに食べに行きたいな〉
ミナの手が止まった。
少し遅れて、パンを皿へ置く。
「いえ。今は、台所をお借りしているだけです」
〈川風:そうだったか。じゃあ、今日は自分で作るかな〉
ミナは、借りている竈の方を見た。
もうすぐ、店主の仕込みに戻す時間だった。
「もし、どこかでお出しすることがあったら……配信でも、お知らせします」
〈川風:うん。そのときはぜひ〉
大きな約束をしたつもりはなかった。
けれど、口にしてから、胸が少しだけ忙しくなった。
*
配信を終え、使った道具を片づけた。
レオンは、夕方の打ち合わせへ向かう支度をしていた。
ミナが料理の記録を見直していると、隣で足を止める。
「店を開く話があるのか?」
「まだ、何も決まっていません。使われていない食堂があって、今日、ナディムさんに相談したところです」
ミナは、布を畳む手を止めた。
「知らない方に、食べに行きたいと言っていただいたのは……少し、びっくりしました」
「食べたいものがあれば、俺も店を探す」
レオンは、空いた皿へ目を落とした。
「今日は、招いてよかった」
「お肉を、ありがとうございました」
「こちらこそ。また時間が合えば」
彼は店主にも礼を言い、通りへ出ていった。
仕事へ向かう背中を見送ってから、ミナは帳面を開いた。
巨角蜥蜴の肉。
筋を横切る向き。
果汁は少し。香辛料は、焼く前とあとで香りが違う。
書き終えて、次の行へ筆を移した。
川風さん。サハルの船具の修繕をする方。
舟待ちさん。川上のご実家では、香辛料をあとから。
食材の名前ばかりだった頁に、教えてくれた人の名前が並んだ。
ミナは、空白を少し残した。
また来てくれたら、聞いてみたいことがあった。
仕事が終わるのは、いつごろなのだろう。
温かいものを食べたいのは、その時間なのだろうか。
*
調査団の作業場へ戻ると、長机には午前の記録が並んでいた。
レオンは外套を椅子へ掛け、測定器の留め具を外した。
川沿いで使ったものと、少し離れた斜面で使ったもの。番号を確かめ、記録の横へ置いていく。
「もう、照合に入れますね」
エルディアの調査員が、交換用の部品を箱へ戻しながら言った。
「以前は、器具の調整だけで日が暮れたこともありました」
「出発前に、よく見てもらいましたから」
留め具は、こちらの工具でも外せる形に揃えてあった。
予備の部品には、交換する順番を書いた小さな紙が添えてある。今日も一つ取り替えたが、作業を止めた時間は短かった。
リゼに渡されたときは、ずいぶん細かく分けたものだと思った箱だった。
今は、使った場所へ戻すだけで、残りの数までわかる。
採取した試料を収める容器も、水分を保つものと乾いたまま運ぶものを取り違えずに済んだ。必要な道具を探して荷物を全部広げることがない。
道中も、現地へ着いてからも、調査は驚くほど順調だった。
もちろん、川も地面も予定通りにはならない。
それでも、道具の都合で諦めずに済む仕事が増えていた。
「頼りになる方々ですね」
「ええ。本当に」
答えてから、レオンは少し笑った。
男性の冠位の中では、自分がいちばん若い。
先輩たちに教わることは、以前から多かった。
ただ、最近は教わる中身が少し変わってきた気がする。
*
たとえば、グレンだ。
王国を発つ前、仕事の話を終えて帰ろうとしたところを、何度か引き止められた。
『飯は食ったか』
まだだと答えると、皿が出てくる。
店から取り寄せたものではない。本人が作ったものだった。
初めて知ったときには、料理をする時間がどこにあるのかと思った。
いつ会っても忙しそうで、そもそも食事をしているところさえ、ほとんど見た覚えがなかったのだ。
出されたものは、うまかった。
そう言うと、グレンは満足そうに頷いてから、塩は強くないか、肉は硬くないかと聞いてきた。
『失敗することはないんですか』
『あるぞ。そういうのは俺が食ってる』
どうやら、こちらに出てくるまでに選別されているらしい。
バルドも、よく新人の話をするようになった。
講習を始めたと聞いて見に行けば、質問をする者が途切れず、終わってからもなかなか帰れないでいた。
あの大きな手に、小さな盾を持っていることもある。
『それで受けるんですか』
『俺が普段使うものじゃ、初めて持つ連中には重すぎるからな』
そう言って、盾を持ち上げる高さから確かめ直していた。
あれを見て、自分も一度、教える側に立ってみようと思ったのだった。
オルヴェンは、帰りが早くなった。
以前なら、夕方から始めた仕事の話が、そのまま夜まで続いた。今は区切りをつけ、残りは翌日にしようと言う。
出発前、廊下ですれ違ったときもそうだった。
『顔色は悪くないね。よく眠れているかい』
何かの術式に必要な確認かと思い、少し詳しく答えてしまった。
すると、オルヴェンは笑った。
『いや、元気ならいいんだ。向こうでも、休めるときには休みなさい』
それだけだった。
以前より、目が優しくなった気がした。
*
「レオン殿。こちらの値ですが」
呼ばれて、記録へ目を戻す。
午前の二つの測定地点で、差が出ていた。
器具の状態を確認し、測った時刻と、水際からの距離を照らし合わせる。
明日、もう一度確かめたい場所が決まった。
必要な道具を書き出したところで、調査員の腹が鳴った。
「……失礼しました。昼を食べそびれまして」
レオンは筆を止めた。
さっき食べた肉の、温かさと香りを思い出す。
ミナは、同じ肉でも少しずつ味を変えて、一つずつこちらの感想を聞いていた。
グレンも、皿を出したあとには、あんなふうに返事を待っていたのかもしれない。
「先に、何か食べてきてください」
「ですが、照合がまだ」
「俺は食べてきました。その間に、こちらをまとめておきます」
調査員は一度机を見てから、礼を言って席を立った。
レオンは、残った記録を手元へ寄せた。
夕飯には、預けてある肉を皆で食べられるよう、相談しよう。
自分では、まだあのようには作れないが。
温かいうちに食べてほしいという気持ちは、少しわかった。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




