第78話 教わる夕飯
帰りの舟では、蟹の包みを足元へ置いた。
ミナが布の端を押さえると、サフィナが自分の籠を少し寄せた。
隙間に収まった包みは、舟が揺れても動かなかった。
「お腹、空いたね」
「はい」
昼に食べたパンは、もう随分前のことに思えた。
ミナは対岸の町を見た。
朝よりも船が増えている。空いたところへ滑り込む小舟も、荷揚げを待って止まる大きな船もあった。
船頭が声をかけ、別の舟から返事が戻った。
櫂が水を押す。
ミナは、岸へ着く前に立ち上がらないよう、膝の上で手を揃えた。
*
ギルドで甲殻を納めたあと、薬草の方は依頼主の薬屋へ運んだ。
店の奥には、乾かした葉を入れる棚が並んでいた。
根を受け取った男は、膨らんだ部分の付け根を確かめ、それから布の底を見た。
「折れたものは、別にしてある?」
「一本、掘るときに細い根を切りました。こちらです」
ミナは小さな包みを開いた。
男は切れたところを見て、頷いた。
「使うところにはかかっていないね。これなら一緒でいい」
揃えられた根を、秤へ移していく。
サフィナが採取地を説明すると、男は帳面へ書き留めた。
「前に届いたのは、泥を落とそうとして強く洗ってあってね。薄い皮まで傷んでいた。今日は、そのまま持ってきてくれたんだな」
「図鑑に、土を軽く払うだけとあったので。残す加減は、サフィナさんに見てもらいました」
男は、まだ土のついた根を持ち上げた。
「このくらいでいい。こちらで使う分から洗える」
ミナは帳面を開き、納品先で確かめたことを一行足した。
汚れていない方がよいと思って、全部洗わなくてよかった。
「次も、この状態で持ってこられるかい。今すぐではないけれど、来週にも要る」
サフィナがミナを見た。
「予定、合わせられそう?」
「はい。帰ってから確認します」
量と日を聞き、まだ返事をしていないことがわかるよう、予定の横に小さな丸をつけた。
受領の紙をもらって外へ出ると、サフィナが籠を揺すった。
「ミナと組むと、納めるところまで楽になるね」
「そうですか?」
「あの根、いつもは店で全部広げ直して、切れたのを探すんだ。今日はどの包みか、すぐ出せたでしょ」
ミナは空になった布を畳んだ。
川向こうで少し時間を使った分が、ここで戻ってきたらしい。
「次は、もう少し早く掘れると思います」
「うん。でも、私が入れ方を覚える方も先ね」
サフィナは、ミナが畳む手を見ていた。
*
借りる台所のことは、出発前に相談してあった。
今日は少し早い夕飯にする。
昼の片づけが終わったあと、店の夕方の仕込みが始まるまで。戻りが遅れたら使えないので、そのときは蟹の脚を三人で分けて持ち帰るつもりだった。
店へ着くと、店主は壁の影を見て、予定どおりだと言った。
使える竈を示し、鍋を一つ出してくれる。
サフィナは、運んできた蟹の脚を台へ並べた。
「今日は、私が先にやるね」
「お願いします」
ミナは手を洗い、隣へ立った。
サフィナは棘の向きを見て持つ場所を変え、脚の間についた泥を落としていく。
「ここを握ると痛いから、こっち。布を使っても、強く押すと突き抜けるよ」
ミナは言われたところへ指を添えた。
採取地で関節は分けてあるが、脚そのものはまだ長かった。
「さらに切りますか」
「茹でる前は、そのままでいい。中の汁が逃げるから」
ミナは包丁へ伸ばしかけた手を戻した。
鍋へ収めることを先に考えていた。
サフィナは脚の向きを交互にして並べた。
一本ずつ入れるより、隙間が少なくなる。
「ほら、入った」
「本当ですね」
水と塩を入れ、火にかける。
サフィナは塩の器をミナへ渡す前に、鍋の中をもう一度見た。
「店で売ってる茹でたのは、もっと塩が強い。私はこのくらいが好き」
ミナは頷いた。
図鑑に載っていなかったことが、また一つ増えた。
*
水晶は、調理台の端へ置いた。
店主には手元だけを映すと伝えてあり、サフィナも説明することを引き受けてくれた。
ハーシムは映らない側で、パンと器を並べている。
「今日は、棘脚蟹の脚を茹でています。採取にご一緒したサフィナさんに、教わっています」
サフィナが、鍋の蓋へ手を添えた。
「まだ取らないよ。煮立ったところだから」
ミナは頷き、火を少し整えた。
待っている間に、帰りに買った玉ねぎを切る。
もう一つの小鍋には、店から分けてもらった炊いた麦が入っていた。
しばらくすると、文字板が光った。
〈夕餉係:今日は教わる側なんですね。そちらの蟹は初めて見ます〉
「私も、今日初めて扱いました。食べられるのは、主に脚だそうです」
サフィナは画面を覗き、少し声を大きくした。
「よく似た別の蟹もいるから、棘だけ見て同じだと思わないでね」
「いつもと声、違うね」
席からハーシムが言った。
「遠い人に話してると思うと、つい」
「普通の声でも、届きますよ」
ミナが言うと、サフィナは小さく咳払いをした。
そのあと鍋について話す声は、川辺で聞いたものに戻っていた。
*
茹で上がった脚は、土色から赤茶色へ変わっていた。
サフィナが一番太いものを取り、冷ましてから関節を外した。
中まで火が通った身を確かめ、細い串で取り出してみせる。
「最初は、そのまま食べてみて」
ミナは小皿に分けてもらった身を口へ入れた。
歯を入れると、ほろりとほどける。
塩のあとに甘さがあった。
「……おいしいです」
「でしょ」
サフィナは、自分でも一口食べた。
食べ慣れていても、嬉しそうな顔をするのだと思った。
ハーシムも脚を一本取った。
串を入れ、少し動かす。
出てきたのは、小さな身の欠片だった。
もう一度入れる。
今度は何も出てこなかった。
「今日は、手強いね」
「さっき倒したでしょ」
「あのときは、剣が入ればよかった」
真面目な顔で言うので、サフィナが笑った。
ミナも笑いながら、まだ手をつけていない脚を一本取った。
「こちら側を少し開けたら、押し出せませんか」
サフィナに殻の薄い側を聞き、台へ置く。
包丁の刃先を継ぎ目へ入れ、殻の端を少しだけ外した。切り屑が身へ入らないよう、小皿へ移す前に確かめる。
反対側から串を押すと、長い身が抜けた。
「あ、取れました」
ハーシムが、手元の脚と見比べた。
「その入口を、一つお願いしてもいいかな」
「はい」
「それ、次から私もやろう」
サフィナが身を乗り出した。
ミナはもう一本、ゆっくり殻を開いた。
*
茹で汁を少しすくって、味を確かめた。
蟹の香りがする。
これだけで飲むには塩が強いが、水を足せば、麦と一緒に煮られそうだった。
「この汁も、使っていいですか」
「うん。うちでは残ったら野菜を煮るよ」
サフィナの返事を聞き、ミナは目の細かい布で汁を濾した。
水を加えた小鍋へ、炊いた麦と玉ねぎを入れる。
麦が温まってほどける間に、三人で残りの身を取り出した。
サフィナは、時々つまんだ。
ハーシムは、取れた分を見てから我慢した。
「食べても、大丈夫ですよ。そのまま食べる分もありますから」
「じゃあ、これだけ」
彼が取ったのは、きれいに抜けた一番長い身だった。
鍋の麦が柔らかくなったところへ、ほぐした蟹を加える。
身を煮すぎないように混ぜ、刻んだ青い香草をほんの少し散らした。
サフィナに勧めてもらった、川魚の汁物にも使う葉だった。
器へよそうと、麦の間に白い身が見えた。
〈夕餉係:最初から身が入っていると、冷めないうちに食べられますね〉
「はい。殻を取っていると、少し時間がかかるので」
ミナが顔を上げると、ハーシムも頷いていた。
その手元には、まだ一本だけ脚が残っていた。
*
竈を空け、道具を洗って戻した。
店主が夕方の仕込みを始める横を通り、三人も客席へ移る。
配信は、出来上がった器を見せてから終えた。
窓から差す光は、まだ明るかった。
少し早い夕飯でも、匙を持つ手は止まらなかった。
「こっちは、すぐ食べられる」
ハーシムが麦粥をすくった。
サフィナが、彼の小皿に残った脚を指す。
「そっちは?」
「あとで、落ち着いて」
ミナは、蟹の味が染みた麦を噛んだ。
身だけのときより、香りが口の中に長く残る。
柔らかい麦の中で、蟹の身が少し違う歯触りをしていた。
「この食べ方も、好きかもしれません」
「私は、そのままの脚も捨てがたいな」
サフィナは言って、麦粥も続けて食べた。
器の底が見え始めたころ、ハーシムが窓の外を見た。
荷車が一台、港の方へ下りていく。
「仕事のあとで、こういうものが食べられると助かるね」
「普段は、何を召し上がるんですか」
「戻る時間によるかな。夜の荷揚げに合わせた護衛だと、店が閉まっていることもある。買っておいたパンと、干した肉か果物で済ませる日もあるよ」
ミナは匙を止めた。
遅く帰った日に、温かい鍋があるのは嬉しかった。
下宿の台所を使えたことを、改めて思い出した。
「宿で、作ったりは?」
「煮炊きのできない部屋なんだ。朝になれば店が開くから、それでいいかと思ってしまう」
「前は、河岸の食堂が遅くまでやってたんだけどね」
サフィナが言った。
「舟の仕事の人も行ってた。船が遅れた日でも、何か温かいものが残ってたから」
「今は、やっていないんですか」
「うん。店を切り盛りしてた人が腰を悪くして、息子さんのところへ移ったんだ。建物はあるけど、そのまま」
店主が仕込みの手を動かしながら、話に加わった。
「あそこは、親父さんと奥さんが交代していたからね。一人で朝から夜まで開けるのは、なかなか続かないよ」
ミナは台所を見た。
自分たちが食べ終わる前から、次の客のために鍋が動いている。
開いている店には、その時間に働いている人がいる。
コルナの食堂で当たり前だったことを、今は客席から見ていた。
*
店を出るころには、影が長くなっていた。
ハーシムは途中の角で別れた。
結局、最後の脚も自分で食べ終えていた。
サフィナの帰る道と、ミナの宿へ戻る道は、港の手前まで同じだった。
昼の荷揚げが落ち着いても、川にはまだ船が見えた。
水を入れた桶を運ぶ人の間を抜け、二人は細い通りへ入った。
「あそこ。さっき話した店」
サフィナが指した建物には、木の看板が掛かっていた。
文字の一部が日に焼けて薄くなっている。
戸は閉じ、軒下には誰もいなかった。
ミナは、少し歩みを緩めた。
窓の内側に積まれた椅子が見えた。
もっと奥には、暗い台所がある。斜めに入った夕日が、竈の縁だけを照らしていた。
「小さいころ、ここの汁物に入ってる豆が嫌いでさ」
サフィナが言った。
「母さんの器へ、こっそり移してた。すぐ見つかったけど」
「今は、お好きなんですね」
「うん。いつからかな」
サフィナは看板を見上げ、少し首を傾けた。
この場所には、自分の知らない食事の記憶があった。
豆を残した子供や、遅く帰ってきた護衛が、同じ机に座っていたのだろう。
ミナはもう一度、窓の奥を見た。
コルナの店を閉めるときも、使い終えた道具を一つずつ片づけた。
火のない竈は、見慣れているはずなのに、違うものに見えた。
「ミナ?」
「……はい。すみません」
呼ばれて、窓から離れた。
サフィナは急かさず、道の脇で待っていてくれた。
宿へ帰ったら、今日の根のことを書いておこう。
蟹の茹で方も、忘れないうちに。
ミナは袋の紐を持ち直し、隣へ並んだ。
角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
閉じた戸の前を、仕事帰りらしい男が二人、通り過ぎていった。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




