第77話 川の向こうへ
「その持ち方なら、船に乗るときに引っかからないね」
サフィナが、ミナの荷物を横から見た。
袋の口から出ていた布は収め、槍は手に持っている。盾も、身体から大きく浮かないように締め直した。
食事を一緒にした二日後、三人は船着き場に集まっていた。
今日は川向こうの採取地へ渡る。
サフィナがいつも仕事に使う舟と、その船頭に乗せてもらう予定だった。
対岸は見えていた。
それでも、渡った先の道をミナは知らない。
地図を見ていると、後ろから声をかけられた。
「今日は、そちらへ?」
振り向くと、レオンがいた。
肩には鞄を掛け、杖を持っている。少し離れた桟橋では、測定具らしい箱を船へ運び込んでいた。
「はい。サフィナさんたちと、採取に」
「俺たちは上流だ。岸から少し入ったところを回る」
レオンが、ミナの地図へ目を落とした。
採取地の印よりも、その横に書き足された帰りの時刻を見ているようだった。
「昨日、ギルドで君の納品の話を聞いた。記録がわかりやすいと」
「こちらの名前を覚えるのに、まだ時間がかかっていて……」
「褒められた話だぞ」
横でサフィナが頷いた。
ミナは地図を少し下げた。
「……ありがとうございます」
レオンは、小さく笑った。
「教わったことを、自分のやり方に直すのは大事だ。教える方が、うまく言えるとは限らないからな」
「レオンさんも、教えていらっしゃるんですか」
「王都で一度。バルドさんが講師を育てる話をしていて、自分もやってみようと思った。出発前に、魔法ギルドの講習を一枠引き受けたんだ」
ミナは顔を上げた。
盾の講座で覚えた足の運びを、今でも練習している。
あの講座から、別の人が教える話へも繋がっていた。
「どうでしたか」
「人によって、引っかかるところが違った。君と同じくらいの年の男の子もいたな。火と風を使う、青黒い髪の」
ミナの頭に、一人の顔が浮かんだ。
「キリルさん、というお名前では?」
「そうだ。知り合いか?」
「はい。ローデンで、一緒にお仕事をしました。私にも、魔法を教えてくださって」
王都で冠位に教わるのだと、キリルは言っていた。
本当に、この人の講習を受けていたのだ。
「なかなか筋がいい。風を出すより、止めるところを何度も確かめていた。一度で済ませず、できたときとできないときの違いを聞きに来る」
「キリルさんが」
「ああ。最後には、隣の受講者にも説明していた。あれは伸びると思う」
ミナは、地図を畳みながら笑っていた。
知らなかったキリルの姿なのに、少し想像できた。
口では面倒そうに言いながら、手を動かして見せてくれそうだった。
「今度会ったら、聞いてみます」
「俺も、また見せてもらいたい」
桟橋から、レオンを呼ぶ声がした。
ミナも船頭に手招きされる。
それぞれの舟へ向かう前に、ミナはもう一度礼を言った。
自分が褒められたわけではないのに、足取りが少し軽かった。
*
キリルにとって、その講習は忘れようのないものになっていた。
王都を発つ前、宿の部屋で帳面を開いたときも、最初に出たのは深い溜息だった。
「なんだよ、ビッ、とかギュッ、とかよ……」
講習の題目は、放った術の範囲と勢いを調整することだった。
天災冠が杖を動かすと、細い風が三つの輪を抜け、最後の布だけを揺らした。
手前に下がる薄紙は、ほとんど動かなかった。
『ここでギュッとまとめて、ビッと通す。終わりは、こう、すっと抜く』
見れば、すごいことはわかった。
だが、すごいことしかわからなかった。
『……まとめるのは、どこまでですか』
『このくらい』
指で示された幅はわかった。
そこへ至るまでが、依然としてわからなかった。
結局、キリルは講習のあとも残り、一つずつ聞いた。
レオンは嫌な顔をせず、同じ術を何度も見せてくれた。速度を落としてもらい、途中で止めてもらうと、ようやく魔力の扱いが見えてきた。
帳面には、何度も線を引いた跡があった。
最後の頁だけ、隣の受講者に貸したため、別の筆跡が混じっている。
『お前の説明の方が、わかった』
そう言われたのは、少し嬉しかった。
ただし、自分の説明だけでは、あの術を見せることはできない。
「……すげえのは、すげえんだけどさ」
キリルは帳面を閉じかけて、開き直した。
ミナに聞かれたら、どう説明すれば伝わるだろう。
少なくとも、ビッとギュッだけでは済ませないつもりだった。
*
舟が岸を離れた。
ミナは座ったまま、流れていく町を見た。
サハルへ来た船より、水面がずっと近い。櫂が入るたび、小さな泡が後ろへ残った。
「あそこへ真っすぐ行くわけじゃないんですね」
対岸の舟を寄せられそうな場所を指すと、サフィナが頷いた。
「流される分があるから。帰りは、また少し違う」
船頭は斜め上流へ舟を向けていた。
陸の道なら近く見える方へ歩けるが、水の上には、別の進み方がある。
岸へ着くと、ハーシムが先に下りた。
舟を支える間に、サフィナが荷物を渡す。
ミナも足場を確かめて下り、振り返った。
「帰りも、ここですか」
「うん。昼過ぎに迎えが来る。水が増えたら、上の石段の方。さっき見えた白い柱、覚えてる?」
「はい」
ミナは木立の間から、柱の位置を確かめた。
舟が離れても、慌てて追いかける必要がないように、迎えを逃した場合の連絡先も聞いてあった。
今日の依頼は、根を使う薬草と、棘脚蟹の甲殻だった。
薬草の採取地は、サフィナが何度も来ている。
蟹は乾いた水路の縁にいることがあり、決められた大きさのものが見つかった場合に狙う。そちらは、採れなければ持ち帰らなくてよい条件だった。
「先に草。籠の下へ入れるものから」
サフィナが道を選び、ハーシムが周りを見る。
ミナは二人の間を歩いた。
*
根は、思っていたより横へ伸びていた。
サフィナが土を少し払うと、細い根の先に、指ほどの太さの膨らみが現れた。
ミナは図鑑の頁へ目を移す。
地上の葉と、地下の形を別々に描いた図があった。
「引っ張ると、ここで切れるんだ」
「周りから、掘った方がいいんですね」
土を崩し、伸びる向きを追った。
王国で扱った根とは違うが、先に道を空けてから持ち上げる手順は似ている。
一本目は時間がかかった。
二本目は、最初から広めに土を払った。
「そう。そのくらい」
サフィナが頷いた。
ミナは、途中で折れていない根を布へ載せた。
今日は配信も始めていた。
水晶に映すのは掘った手元で、細かな道筋は映さない。
作業の区切りに文字板を見ると、一つコメントが届いていた。
〈帰り道:根っこって、抜けばいいわけじゃないんですね〉
「はい。途中で切れると、残った分が見つけにくくなるので。これは、使うところが横にあるんです」
根を持ち上げ、曲がっている部分を見せた。
背後からハーシムに声をかけられ、すぐに下ろす。
「二人とも。その窪みの先、動いた」
サフィナの手が止まった。
ミナは根を布で覆い、槍を取った。
*
棘脚蟹は、土と同じような色をしていた。
丸い甲羅の両側から、尖った脚が張り出している。
桶の蓋ほどある身体が、枯れ葉を押して横へ動いた。
ハーシムが盾を前へ出し、二人から少し離れる。
「この大きさなら、条件に合う」
サフィナが言った。
その目は、甲羅の後ろにある暗い穴へ向いていた。
「奥へ追うと、脚を取られるよ」
「ここで止める。ミナさん、右へ抜けそうなら教えて」
「はい」
ミナは、蟹の脚を見た。
ハーシムの盾へ正面から来るのかと思ったが、身体を傾け、低い草の方へ回り込もうとしている。
目へ少し魔力を集めた。
片側の脚が踏ん張る。次に動く側が、一瞬軽くなった。
「右です」
ハーシムが半歩移った。
鋏が盾を叩き、乾いた音がした。
ミナは飛び込まなかった。
盾の向きが変わる先を空け、自分も位置をずらす。
蟹が再び横へ動こうとしたところへ、ハーシムの剣が入った。
脚の付け根を損ない、姿勢が崩れた瞬間、彼は盾で鋏を押さえた。
次の一突きは、甲羅の下へ向けられた。
動きが止まっても、すぐには近づかなかった。
ハーシムが周囲を確かめ、サフィナが穴の奥を見てから、ようやくミナは槍を下ろした。
息は少し速かった。
けれど、腕にも脚にも、まだ余裕があった。
「見やすかった?」
ハーシムに聞かれ、ミナは頷いた。
「動く前に、脚が浮いたので。でも、知らない動きだったら、わからなかったと思います」
「今のは助かった。盾を置く方を、早く決められた」
ミナは自分の右側を見た。
サフィナがいて、その後ろに採った根の籠があった。
蟹だけを見るより、見るものは多い。
それでも、さっき三人がどこにいたかは、思い出せた。
*
甲殻を扱う前に、サフィナが蟹を裏返して見せた。
「内側の膜は残さないでって依頼だけど、脚は別にしていい。持ち帰れる?」
「食べられるんですか」
「うん。胴はほとんど食べるところがないけど、脚は茹でる。ここ、棘の向きに気をつけて」
教わった箇所を確かめ、ミナは包丁を入れた。
関節で分ければ、長いまま籠へ突き出さずに済む。
サフィナが手元を見た。
「そこ、そんなにすっと外れるんだ」
「間があります。無理に曲げるより、先にこちらを切ると」
切り口を見せてから、次を渡した。
サフィナは自分の刃物で同じ場所を探した。ミナほどすぐには入らなかったが、しばらくすると、脚が離れた。
「本当だ。甲羅も割らずに済むね」
ハーシムが周りを見ている間に、二人で必要な分をまとめた。
薬草と蟹は別の包みにする。
帰りの荷物は増えたが、予定していた重さには収まった。
文字板に、またコメントが出ていた。
〈帰り道:それも、夕飯ですか?〉
ミナは、包んだ脚を見た。
「はい。今日は、食べ方も教えていただきます」
サフィナが横から付け足した。
「茹でるだけだけどね」
「茹でる時間を、まだ知りませんから」
そう返すと、サフィナは少し笑った。
「じゃあ、そこから」
戻る途中、白い柱が木立の向こうに見えた。
ミナは、自分から二人に知らせた。
*
同じ日の午後、上流の調査地で、木が折れた。
最初に見えたのは、枝の間を持ち上がる大きな角だった。
次に、土を掻く太い脚。
岩場へ這い出た巨角蜥蜴は、荷馬車より長い身体をしていた。
その後ろから、もう一体が現れた。
節の重なる黒い胴。鎌のような前脚が、倒れた木を踏み越える。
「鎧百足まで……!」
エルディアの調査員が息を呑んだ。
護衛が盾を上げ、班長が測定具を置いて退くよう叫んだ。
二体は争いながら、岩の斜面を下りてきていた。
その先に調査団がいる。
「皆さん、岩の後ろへ。荷物は置いて」
レオンは杖を持ち替えた。
調査員の最後尾が岩陰へ入るのを見届け、風を確かめる。
魔物の向こうには、木の生えていない崩れた斜面があった。
「あれは、食べられるのでしょうか」
隣の案内役が、レオンを見た。
「……昔の話ですが、巨角蜥蜴の方は、美味だと聞いたことが。もう片方は食べられないと思います! それより、早く――」
「わかりました」
杖の先で、光が細く絞られた。
巨角蜥蜴が口を開けた。
その足元から、白い亀裂が走った。
違う。
岩が割れたのではなかった。
氷だった。
腹の下からせり上がった氷が、太い四肢を呑み込む。尾が地面を叩くより早く、背の上で幾重にも重なった。
開いた顎まで、透き通る塊の中に閉じる。
巨体を包んだ氷山が、斜面に立っていた。
鎧百足が身を反らした。
前脚を引き、凍った蜥蜴から離れる。
その一瞬で、レオンの杖が横へ動いた。
今度は、赤い線が地を囲んだ。
輪の内側から火柱が上がった。
黒い巨体が炎に隠れ、空気が低く鳴る。調査員は思わず顔を覆ったが、熱風は岩陰へ吹き込んでこなかった。
炎は、魔物のいる場所から上へ伸びていた。
硬い甲殻の裂ける音がした。
持ち上がった鎌が崩れ落ちる。
炎が細くなり、消えた。
そこには、炭になった残骸があった。
隣の巨大な氷は、崩れていなかった。
誰も、すぐには動けなかった。
レオンは杖を下ろさず、木立と斜面の上を見た。
さらに待ってから、ようやく息を吐く。
「ほかに動きはありません。怪我をした方は?」
班長が、我に返ったように人数を数え始めた。
全員の返事を聞き、レオンは杖を支えに、一度肩を緩めた。
「戦闘前の測定値は、保存できていますか。今の二術の範囲は、後で記録に加えます」
「は、はい。記録板はこちらに」
「よかった。あの氷には、まだ近づかないでください」
案内役が、氷の中の巨体を見上げた。
そして、すぐ隣の炭へ目を移した。
同じ男が、ほとんど間を置かずにやったことだった。
「……食べられる方を、残されたんですか」
「どちらも止める必要がありましたから。使えるなら、残る方がいいと思って」
レオンは凍った蜥蜴を見た。
甘唐の中に詰まっていた、石羽鳥の肉と豆。
安い切れ端でも、あの少女はおいしい食事にした。
こちらなら、どんな料理になるのだろう。
「ただ、食べてよいかは、詳しい方に確認を。噂だけで誰かに食べさせるわけにはいきません」
班長は頷き、回収の応援を呼ぶよう指示を出した。
運ぶ人数も、解体する場所も要る。
レオンはその相談を聞きながら、氷の高さを見直した。
あの店の鍋には、どう考えても入らなかった。
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