第8話 いつもの煮込みです
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朝、手袋を見た。
親指の付け根を広げても、穴は開かなかった。
糸の端も、昨日と同じところにある。
ミナはそれを棚へ置いた。
今日は、はめて出かけない。
窓から見える空は明るかったが、脚には疲れが残っていた。
手首の擦り傷も、袖が触れると少し痛い。
昨日、入口で手当てをしてもらった布を確かめてから、上着を着る。
下宿の管理人は、玄関でミナの荷物を見た。
背負い袋ではなく、空の籠だけだった。
「今日は、どこへ?」
「ギルドです。昨日のガマのことで、窓口へ来るようにと言われたので」
「採集には行かないんだね」
「はい。今日は休みます」
管理人はうなずいた。
「帰ったら、昼もちゃんと食べな」
ミナは籠の持ち手を握り直した。
昨日は途中で、食べようと思っていたパンを食べそびれた。
帰ってから口へ入れたとき、急に空腹になったのを思い出す。
「……今日は、忘れません」
*
ギルドの買い取り窓口には、朝から何人か並んでいた。
ミナは順番を待つ間、掲示板を見る。
昨日歩いた採集路の一部に、確認中の札が付いていた。
別の道は、まだ使える。
自分の報告が、ここに載っている。
文字を読み終えてから、窓口へ向かった。
「ミナさん。昨日は大変だったね」
受付の女性が、手元の帳面を開く。
「脚の傷みはどう? 手首も」
「手首は、少し痛いです。脚は、疲れている感じです」
「今日は休める?」
「はい」
答えると、女性の顔が少し緩んだ。
次の紙を、机へ出す。
「報告してくれた岩背ガマは、昨日のうちに回収できたよ。場所が分かる記録があって助かった」
標識と道を一緒に映したところだった。
あのときは、持って帰れないものを置いていくために撮った。
運ぶ人には、それが必要だったのだ。
「ほかにも、いましたか?」
「今のところ、回収班からは聞いていない。念のため、周りの道も見ているよ」
ミナは小さくうなずいた。
「それで、買い取りなんだけど。背の硬い部分は素材として使える。回収の費用を引いた分を、受け取ってもらえるよ」
紙に、品目と数字が書かれていた。
昨日持ち帰った薬草とは、別の買い取りだった。
差し出された硬貨を見て、ミナは少し迷った。
「あの、身の方は、どうなりますか?」
女性が顔を上げた。
「身?」
「食べるところです」
「……食べるの?」
聞かれて、ミナも相手を見た。
「はい。香草と煮ると、おいしいです」
窓口の向こうで、紙を束ねていた職員の手が止まった。
*
回収したものは、裏の作業場に保管されていた。
ミナは受付の女性について、通路を歩いた。
途中で紹介されたのは、素材の仕分けを担当している男性だった。
袖をまくり、厚い前掛けを着けている。
「食べる地域もあるとは聞いてたが、ここでは肉の買い取りはあまり出ないな」
男は、保冷庫の扉へ手をかけた。
魔道具の灯りが、低くともっている。
「昨日、回収したあとに冷やしてある。背を外したものを確認してくれるか」
扉が開くと、ひんやりした空気が流れた。
作業台へ出されたのは、昨日の岩背ガマだった。
もう、跳ばない。
分かっていても、ミナの足が少し止まった。
太い脚が目に入ると、土が鳴った音を思い出す。
男は、その様子を見た。
「無理に触らなくていい。ここで見えるか?」
「……はい」
ミナは一度、息を吸った。
背の硬い部分は取り外され、身のあるところが見えている。
食堂へ来ていたものに、今度は近い姿だった。
少しずつ、知っている形になる。
「こちらを、料理に使っていました。硬いところは、入れません」
指を伸ばす代わりに、言葉で場所を伝えた。
男が包みを動かして、見せてくれる。
「皮も全部は使わないのか」
「はい。店では、身を煮ていました」
色と状態を、担当者と一緒に確かめる。
持ち帰るなら、食べる分だけ。
それ以外をどうするかは、ここで相談できた。
「どのくらい持てる?」
ミナは籠を見た。
昨日の自分なら、入るだけ欲しいと言ったかもしれない。
ただ、冷やして置ける場所は、下宿でも限られている。
料理できる量も、食べる量もあった。
「今日、食べる分にします。あと、管理人さんにも少し」
男が、包む量を減らした。
「これでどうだ」
持ち上げる。
籠は、無理なく持てた。
「はい。これなら」
冷たい包みを布でくるみ、籠へ入れる。
残りについては、担当者が使い道と引き取り先を調べてくれることになった。
ミナは頭を下げた。
「運んでくださって、ありがとうございました」
「次も倒してこい、とは言わないからな」
男は、包みを置いた台を拭いた。
「まず、遭わずに帰れる方がいい」
「はい」
それは、ミナも同じだった。
*
リゼは、記録を見ていた。
一度目は、最後まで止めなかった。
グレンから届いた、無事に帰った、という言葉を先に読んでいても、少女が身を寄せた場面では、指に力が入った。
二度目は、刃が入るところで止めた。
映像は、見やすくなかった。
水晶が肩ひもに付いているため、少女の動きに合わせて角度が変わる。
木の根が大きく映り、肝心の刃は画面の端にある。
少し戻す。
進める。
刃先が止まった。
柄の向きが、わずかに変わる。
そのあと、通っていた。
リゼは、昨日の紙を引き寄せた。
力を足す前に、入れる場所を見る。
少女が説明していた、魚の下処理。
切れ味を上げるだけの付与なら、あの変化は何なのか。
そもそも、岩背ガマのあの部分へ、小さな包丁を通す。
「刃の方だけじゃない……」
紙の隅へ、一行足す。
入れる場所と向きに、働きが結びついている可能性。
まだ、決めつけるには足りなかった。
少女の技術と、道具の助けを、映像だけで分けることもできない。
けれど、どちらか片方だけを見ていては、分からない。
リゼは記録を先へ進めた。
締め具を使ったあと、少女が座り込む。
手が、また震えていた。
そこでは、もう筆を動かさなかった。
*
「それで、今日は何を作るんだい?」
下宿の管理人は、まずミナの手首を見た。
布が緩んでいないか確かめ、籠の中の包みへ目を移す。
「食堂で作っていた、煮込みです」
「それが、昨日の?」
「はい。食べるところを、分けてもらいました」
管理人は、すぐに包みを開かなかった。
「昼飯を食べてから、支度だね。冷たいものは先にしまおう」
共同台所の保冷箱へ入れ、ミナは残しておいたパンで昼食を取った。
食べている間に、少し眠くなる。
皿を洗ったあと、部屋で横になった。
目を閉じると、土の音を思い出した。
けれど、廊下からは箒の音がする。
窓の外では、荷車が通っていた。
今いるのは、下宿だった。
その音を聞きながら、少しだけ眠った。
*
夕方、共同台所の端を使わせてもらった。
鍋とまな板を置き、配信水晶の向きを確かめる。
今日は火にかける前に、鍋が映る場所を決めた。
題名は「ガマの煮込みを作ります」。
「こんにちは。今日は、採集には行っていません」
配信を始めてから、手を洗う。
用意したものは、ガマの身と、小さな芋と、香草。
塩と、少しの油。
特別な料理ではなかった。
コルナの食堂では、寒い日にも、客の多い日にも作っていた。
文字板が光る。
〈灰ねこ:今日は休めた?〉
「はい。少し、寝ました」
〈灰ねこ:手首は?〉
「昨日よりは、気にならないです。お水にぬらさないようにします」
続いて、別の言葉が届いた。
〈針しごと:こんにちは。手袋の糸、緩んでない?〉
「はい。朝、見ました。穴も、開いていません」
数字が二になった。
ミナは小さく笑い、包みを開いた。
「昨日は、ありがとうございました。今日は、こちらを料理にします」
白っぽい身を、まな板へ置く。
〈灰ねこ:昨日のあれが、こうなるのか〉
「はい。背の硬いところは、入れません」
包丁を取った。
その手は、昨日より落ち着いていた。
身についている薄い膜を確かめる。
刃を寝かせ、身を深く削らないように外す。
指で張りを変えると、包丁がするりと通った。
針しごとのコメントが、しばらく止まった。
ミナは食べやすい大きさに切り分ける。
端の小さな身も、別へ捨てず、同じ皿へ寄せた。
「こちらも、食べられます」
〈灰ねこ:そのくらいの大きさなら、火が通りやすい?〉
「はい。でも、煮すぎると、少し硬くなるので。お芋を先に入れます」
芋の厚さをそろえる。
鍋に薄く油を広げ、表面を軽く焼いた。
水を足して、火を弱める。
沸くまでの間に、使った道具を洗う。
香草の硬い茎を除き、葉をちぎった。
「この煮込み、店主さんは、いつも同じ味にしていました」
文字板へ目を向ける。
「私は、日によって、少し違います」
〈針しごと:味見で直せる?〉
「塩なら。香草を入れすぎたときは、直しにくいです」
〈灰ねこ:入れすぎない方から、だね〉
「はい。今日は、まだ足せるくらいにします」
芋へ木の串を通した。
あと少しで、柔らかくなりそうだった。
ガマの身を入れる。
汁が静かに揺れ、白い身が鍋の中へ沈んだ。
香草を加え、塩をひとつまみ。
火を見ながら、待つ。
配信の中は、静かだった。
昨日聞こえていた息の音の代わりに、鍋の蓋が小さく鳴る。
*
グレンは、自分の台所で芋を切っていた。
今日は、昨日より少し薄くそろった。
切り直すものを脇へ分け、ミナの鍋の音を聞く。
昨日、画面を開いたときには、間に合うかどうかも分からなかった。
声を出してしまい、文字を送って、動く姿を見るしかなかった。
今は、少女が火を弱めている。
少し待てば、食事になる。
それだけのことに、ほっとした。
グレンは切った芋を鍋へ入れた。
こちらには乾燥茸がある。
ガマの代わりにはならないが、今夜の夕飯にはなる。
*
リゼの机には、包丁の記録を写した紙があった。
今、画面に映っているのは鍋だった。
その少し前、薄い膜を外した手つきを、覚えている。
押し切ってはいなかった。
張りを変え、刃の向きを変え、通るところを探していた。
昨日の一手だけなら、偶然と言えるかもしれない。
だが、料理の中でも、同じことをしている。
そして、働きを助ける線が、あの小さな刃の付け根へ収められている。
リゼは紙をそろえた。
王都へ持っていく鞄を、作業台の下から出す。
仕事の資料とは別に、折れない場所へ入れた。
*
「できました」
ミナは鍋の蓋を開けた。
香草の匂いが、湯気と一緒に上がる。
小皿に身を一つ取り、火の通りを確かめてから味を見る。
芋も、柔らかくなっていた。
塩を、ほんの少しだけ足す。
管理人の分と、自分の分を器へよそった。
「味、どうでしょうか」
管理人は、水晶に映らない側で器を受け取った。
最初は汁を、少し。
それから、身を一口食べる。
「……思ってたより、普通の煮込みだね」
ミナは、相手の顔を見た。
「変わった味がしますか?」
「いや。食べやすいよ。これが、あのガマなんだね」
「はい」
「芋にも味が入ってる。パン、出そうか」
ミナの肩が、少し下がった。
「お願いします」
管理人は器を持って、帳場の方へ戻っていった。
台所の端で、ミナも椅子へ座る。
汁を飲む。
香草は、強すぎなかった。
身はほぐれ、芋と一緒に食べると、よく知っている味がした。
「おいしいです」
〈灰ねこ:よかった〉
〈針しごと:管理人さんにも、食べてもらえたね〉
「はい。食堂では、こんなふうにしていました」
器を見る。
昨日は、怖かった。
それは、今日おいしく食べられたからといって、消えることではない。
また採集路で見かけたら、先に距離を取る。
できれば、遭わずに帰る。
けれど、受け取った身は、ちゃんと料理にできた。
店主に教わったものを、今日も一つ作れた。
ミナはパンをちぎり、汁につけた。
「今日は、ご飯を食べられました」
〈灰ねこ:うん。明日も、そうしよう〉
器の向こうで、配信水晶が静かに光っていた。
*
配信を終えたあと、グレンは自分の鍋を洗った。
今日は、底を焦がさなかった。
布で水を拭き、乾かす場所へ置く。
机には、王城から届いた案内状がある。
しばらく前に受け取り、日程は確認していた。
半年に一度の、冠位会議。
各地での活動を報告し、必要な情報を共有する。
遠征で来られない冠持ちの報告は、別の形で届くこともあった。
全員が同じ部屋へそろうとは限らない。
グレンは遠征路の報告書を、順に重ねた。
王都までは、馬車で数日。
出発は明後日だった。
持ち物を書き留めていると、閲覧水晶へ短い文が届く。
リゼからだった。
「会議のあと、少し時間ある? あの包丁のことで」
グレンは、机の端を見た。
今日使った包丁は、洗って台所へ戻してある。
この数日で、話題になる道具が増えた。
テント。鍋。手袋。
そして、あの小さな包丁。
返事を送る。
「あるよ。記録も見た?」
「見た。料理しているところも」
グレンは少し考え、それから書いた。
「俺も、聞きたいことがある」
以前なら、報告が終われば、次の仕事へ戻るだけだった。
同じ顔ぶれと会っても、話すのは遠征か、依頼のこと。
今回は、会議が終わってから話すことが、一つ増えていた。
名も知らない見習いと、夕飯と、包丁の話だった。
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