第7話 これを、捌いたことがある
読んでいただきありがとうございます。応援いただけるとモチベーションにつながります。
手袋の縫い目は、朝になっても閉じていた。
ミナは親指を曲げ、糸の端を確かめた。
昨日の針しごとの言葉を思い出してから、荷物を持つ。
使う前にも、使ったあとにも見る。
入口の掲示板に、新しい立入禁止の札はなかった。
係員へ登録札を見せ、今日は日帰りだと伝える。
「木漏れ日の採集路だね。戻るときも、ここで札を見せて」
「はい。お昼を過ぎたら、帰り始めます」
石段を下りる。
森の空は、今日も明るかった。
歩いている間に、三人の採集者とすれ違った。
一人は空の籠を持って先へ行き、二人連れは、もう茸の入った袋を提げて戻ってきた。
それぞれの行くところと、帰る時間があった。
声をかけ合って通り過ぎると、また、靴の下の土を踏む音だけになった。
ミナは曲がり角で、来た方を振り返った。
標識は、戻る側からも見えた。
*
昼前には、薬草を数束と、茸を少し採れていた。
食事を取ってから帰ろうと思い、道の脇で袋の口を閉じる。
今日はパン屋で買ったパンを持ってきた。
昨日の薄焼きパンは、もう食べ終えている。
腰の採集袋は、昨日確かめた金具で留めてあった。
重さは、まだ無理なく持てる。
背負い袋には、水と昼食と、料理道具。
ミナは立ち上がり、帰る方へ足を向けた。
道の先で、草が動いた。
風ではなかった。
低い位置で、枝が二本、押し開かれる。
出てきたものは、石のような背中をしていた。
丸いこぶが重なり、濡れた土に似た色をしている。
その下から、太い脚が伸びた。
ミナの膝ほどの高さがある。
喉の辺りが、ゆっくり動いた。
ミナは息を止めた。
岩背ガマ。
講習の図で見た名前が、遅れて頭に浮かぶ。
そこにいるのは、紙に描かれたものより、ずっと大きく感じた。
一歩、下がった。
採集袋が脚に当たり、昨日の話を思い出す。
荷物より、自分が帰る方を先に。
金具へ手を伸ばした。
手袋の指が、教わった場所へかかる。
外れた袋を道の端へ置き、もう一歩、下がる。
ガマが、こちらへ向きを変えた。
喉の下に影ができる。
後ろ脚が縮んだ。
ミナが足を動かすより早く、重い体が土から離れた。
目の前へ、落ちてくる。
ミナは横へよろめいた。
ガマは先ほど立っていた場所へ着地し、土と枯れ葉を跳ね上げた。
近い。
背負い袋の肩ひもを、枝が引いた。
払いのけた手が、留めてあった水晶の側面へ当たる。
小さな光がともった。
ミナは、それを見ていなかった。
今度は走ろうとして、踵が根に引っかかった。
倒れずには済んだが、背中の荷物が揺れ、足を踏み直す。
戻る道は、根の浮いた上りになっていた。
ガマは、その下にいる。
背を向けたら、次にどこへ跳ぶか分からなくなる。
ミナは鞘から、小さな包丁を抜いた。
刃先が震えた。
どこへ向ければいいかも、分からなかった。
*
グレンはギルドの部屋で、遠征用の地図を畳んでいた。
午後から使う資料をそろえたら、昼食にするつもりだった。
机の端に置いた閲覧水晶へ手を伸ばす。
こなべの欄に、光がともっている。
題名がなかった。
開いた画面は、斜めに揺れた。
下草。道の土。
近くに映る、小さな手。
その手が、包丁を持っていた。
息を吸う音が、短く二度聞こえた。
いつもの挨拶はなかった。
画面が少し上を向く。
震える刃の向こうに、岩背ガマの姿が入った。
グレンの手が止まった。
低く沈む胴。
張る後ろ脚。
「こなべさん、避けろ!」
部屋の向こうで、椅子が鳴った。
資料を運んでいた職員が足を止める。
声は、少女に届かない。
グレンは文字板へ指を走らせた。
画面の右には、道の広くなった端が見えている。
そこまで動けば、正面から外れる。
〈灰ねこ:右へ。道の端まで〉
*
手元で、文字板が光った。
ミナは顔を下げかけ、ガマへ目を戻す。
それでも、文字の最初にある名前は見えた。
灰ねこ。
右へ。
息が、喉を通った。
足元を見る。
右には、根のない土があった。
ミナは、そちらへ足を出した。
包丁を握った手を体の近くへ引き、もう一歩、動く。
ガマが跳んだ。
土が鳴った。
肩へ、枯れ葉が当たる。
さっきまで正面にあった岩の背中が、今は横にある。
ミナは木の幹へ手をついた。
息を吸う。
足は、まだ自分を支えていた。
「……避けられた」
声は小さかった。
ガマは、すぐには跳ばなかった。
重い背中を持ち上げるように、前脚を突っ張っている。
後ろ脚を、体の下へ引き直した。
その脇に、白っぽい皮が見えた。
こぶのある背と、柔らかい腹の間。
太い脚の付け根へ、皮が折れている。
ミナは、その形を見た。
厨房のまな板。
仕入れの籠から出された、重い体。
硬い背中を下にしても、転がらないように布を敷いた。
脚を動かすと、同じところへ皮が重なった。
「……知ってる」
包丁を握る指が、少しだけ形を変えた。
「これ、捌いたことがある」
*
「……捌いた?」
グレンは画面を見つめた。
岩背ガマは、採集路で時折見かける魔物だった。
硬い背を避けて対処する知識はある。
だが、あの小さな包丁で、怯えた見習い、しかも採取人が近づいていい相手ではない。
〈灰ねこ:距離を取って。次も、横へ〉
言葉を送る。
画面の揺れが、少し変わった。
少女が、後ろへ下がっている。
道の端から、根を避けられる場所へ移ろうとしていた。
その手の刃先が、先ほどより下がった。
ガマが、向きを直す。
少女の方へ。
「だめだ。その包丁じゃ――」
*
逃げる道は、まだ先にあった。
ミナはそちらへ体を向けかけた。
ガマの腹が沈む。
また、跳ぶ。
背を向けるのをやめた。
木の根の向こうへ一歩ずれ、両足を置き直す。
重い体が浮いた。
ミナは幹の側へ身を寄せた。
ガマは、すぐ脇へ落ちた。
前脚の片方が、張り出した根を踏む。
岩の背中が傾き、体を支え直すために脚が開いた。
近すぎた。
もう一度跳ばれたら、次に避ける場所がなかった。
ミナは、白い皮の重なりを見た。
食堂で、刃を通した場所。
手が動いた。
刃先が、硬い縁に止まる。
違う。
店主の声を思い出すより先に、柄を握った指が、角度を直していた。
刃先が、重なった皮の下へ収まる。
そこで、抵抗がゆるんだ。
力を足してはいなかった。
厨房で何度も覚えた感触が、指に戻ってきた。
刃が通った。
ミナはすぐに手を引き、幹の陰へ下がった。
ガマの体が沈む。
太い脚が土を掻いたが、背中は持ち上がらなかった。
*
「……切った?」
グレンは水晶へ顔を近づけた。
画面には、土と根が大きく映っていた。
少女の動きに合わせて傾くため、刃が入った瞬間は、端にしか見えていない。
それでも、通ったことは分かった。
ガマは跳べなくなっていた。
だが、脚がまだ動いている。
喉も、膨らんだ。
〈灰ねこ:まだ近づかないで。動いてる〉
文字を送った。
少女の息が聞こえる。
次に映ったのは、小さな道具入れだった。
包丁とは違う、細い締め具。
少女がそれを取り出す。
画面が下を向いた。
背を支えられなくなったガマの姿が、横から入る。
*
ミナは、すぐには手を伸ばさなかった。
脚の動きを見た。
体を返そうとしても、傷めた側が支えられない。
前へ出ようとするたび、同じところで沈んでいる。
もう、跳べない。
それでも、まだ生きていた。
食堂へ来るものの中には、息のあるものもあった。
店主は、動けないからといって、手順を飛ばさなかった。
長く苦しませず、食べるために処理する。
教わったところまで、自分で確かめる。
ミナは幹の側から、ガマの頭を見た。
目の後ろに並ぶ、小さなこぶ。
大きさは違っても、並び方は知っていた。
包丁の刃を拭き、道具を持ち直す。
動く脚から離れた側で姿勢を取った。
まず、締める。
それから、細い締め具を通す。
厨房で使うときと同じ、短い動作だった。
太い脚の動きが止まった。
ミナは道具を抜き、少し離れて、もう一度確かめた。
喉も、動かなかった。
*
グレンは、送ろうとしていた文字を止めた。
魚を締める処理なら、見たことはある。
同じような手順を使う猟師も知っている。
だが、この魔物に。
あの位置へ、ためらわずに。
「……そこが、分かるのか?」
問いかけは、部屋の中へ落ちた。
水晶から、小さな声が聞こえた。
「食べられる方の、ガマです」
グレンは、息を吐くのを忘れた。
*
言ってから、ミナは座り込んだ。
脚に力が入らなかった。
袋から小さなまな板を引き出す。包丁をそこへ置こうとして、手が震えていることに気づいた。
刃を下へ向けないよう、両手で置いた。
道具を手放すと、指先の震えは、もっとよく見えた。
水晶の文字板が光っている。
そこへ目を向けて、ようやく、配信していることに気づいた。
「あ……」
視聴者は、一。
灰ねこの名前が、何度も並んでいた。
「灰ねこさん」
〈灰ねこ:怪我は?〉
ミナは袖を見た。
木に寄ったとき、手首を擦っていた。
薄く赤くなっている。
「少し、擦りました」
〈灰ねこ:ほかは。噛まれてない?〉
「噛まれてないです。転んでも、いないです」
答えてから、息を吸った。
うまく吸えなくて、もう一度、ゆっくり吸う。
「……怖かったです」
〈灰ねこ:うん。今は、道具を置いたまま休もう。周りを見られる?〉
ミナは顔を上げた。
草むら。来た道。
別のものが動く気配はなかった。
ガマも、動かなかった。
「見えます。ほかには、いないと思います」
〈灰ねこ:分かった。まず手を休めて。その魔物に遭ったことは、入口へ戻ったら報告しよう〉
「はい」
手袋の親指を見た。
昨日直した縫い目は、開いていなかった。
袋を置いた場所も、道の向こうに見える。
取りに戻る前に、ミナは水を飲んだ。
*
ガマを、そのまま持って帰ることはできなかった。
ミナは体の大きさを見て、背負い袋を見た。
料理なら、何人分にもなる。
でも、道具も採ったものもある。
今の脚で、これを加えて石段まで歩くのは無理だった。
「……持てないです」
〈灰ねこ:うん。今日は、帰る方を先にしよう〉
ミナは、道と標識が一緒に映るよう水晶の向きを変えた。
遭遇した場所と、倒した魔物の記録を残す。
係員に場所を伝え、運べる人に相談する。
食べられるものでも、自分で全部持って帰らなくてよかった。
道具をしまうときには、指が少し動くようになっていた。
採集袋を拾い、重さを確かめる。
留め具は、外したときのままだった。
「昨日、練習しておいて、よかったです」
〈灰ねこ:うん〉
ミナは紐を留めた。
今度は、すぐ帰るための荷物だった。
「教えてくださって、ありがとうございました」
立ち上がる。
膝が少し頼りなく、最初の一歩は、ゆっくりになった。
*
入口の係員へ報告が済み、配信が終わるまで、グレンは水晶を閉じなかった。
少女は、擦った手首を見てもらった。
魔物のいた場所を地図で示し、記録も渡している。
採集路の確認に、人を送るという返事が聞こえた。
そこで、ようやく、いつもの声になった。
「街まで戻れました。今日は、もう帰ります」
〈灰ねこ:うん。下宿で休もう〉
光が消えた。
グレンは椅子の背へ寄りかかった。
目の前の地図が、まだ畳みかけのままだった。
「……大丈夫だったんですか」
部屋の入り口から、職員が声をかけた。
昼食に出たと思っていた人まで、こちらを見ている。
「ああ。戻れた」
「グレンさんが、あんな声を出すの、初めて聞きました」
グレンは水晶へ目を落とした。
確かに、叫んだ。
届かないと分かっている声で。
「少し、危ないところだったからな」
「遠征先の映像ですか?」
「いや。見習いの採集者だ」
職員の視線が、水晶へ動いた。
「救助の配信ですか?」
「普段は、料理を見てる」
答えてから、グレンは少し黙った。
今日も、食材の扱いを見た。
ただ、その前に、生きた魔物を包丁で止めた。
あの刃の通り方。
締め具を取ったときの、迷いのなさ。
思い出すほど、順番がおかしかった。
「……料理、ですか」
職員が聞き返す。
グレンは額へ手を当てた。
「そのはずなんだが」
カクヨムでも連載中です。
人物紹介やシーンの挿し絵も掲載しています。




