第74話 市場で出会った採取人
朝、窓の下を車輪の音が通った。
ミナは目を開け、知らない天井を見た。
船の寝床ではない。揺れてもいない。
枕元の紐へ手を伸ばすと、昨日受け取った鍵があった。
今日は市場へ行く。
起き上がって足を床につけた。少し背中を伸ばすと、それで支度を始められた。
長く歩いたあと、階段を下りるだけでも脚が重かったころを思い出す。昨日も疲れていたけれど、眠ったら、また出かけたくなっていた。
大きな袋と槍は部屋に残した。
小さな肩掛け袋に財布と帳面、手拭いを入れる。水晶も収め、朝食を食べてから下へ下りた。
ナディムは玄関先で、主人と話していた。
「よく眠れたかい?」
「はい。途中で一度も起きませんでした」
「それはよかった。今日は乾物の仕入れを確かめに行くので、その道まで一緒に」
ミナは頷いた。
帰りに曲がる角を、もう一度見ておこうと思った。
*
昨日の青い戸は、朝には開いていた。
その隣の食肉店には、もう客がいる。
店先の鉢には蓋があり、客が指すと、店の男が持ち上げて中を見せた。
「石羽鳥、今日は煮るから硬めのところでいいよ」
「なら、こっちだね。骨もつけるかい」
「鍋が小さいから、割っておくれ」
ミナは通りの端へ寄った。
料理の話だった。
肉屋で何度も聞いたことのある、夕飯を決めるときの話。
客は器を受け取ると、今度は隣の野菜売りへ向かった。石羽鳥の肉が入っていても、誰も覗き込まない。
「砂肝も、ありますね」
「好きな人は、それだけ買いに来るよ」
ナディムに言われ、小さな札を見直す。
自分が持ち帰ったときには、食べるのかと聞かれた部位だった。
ここでは、欲しい人が値段を見て選んでいる。
店の奥から、別の男が包みを持って出てきた。
表の客へではなく、横の通路を通り、羽を束ねている店へ入っていく。
「羽は、そちらへ行くんですか」
「そう。肉とは売り先が違うからね。油や骨を扱う店もある。ただ、私は乾物以外の細かな取引までは詳しくないんだ」
ナディムは荷車を先に通し、ミナと歩き出した。
「知りたいことがあれば、店の手が空いているときに聞いてみるといい」
「はい」
食べ方を知っている人がいる。
部位ごとの使い道を知っている人もいる。
どの店から聞けばよいのか、それだけでも迷いそうだった。
*
乾物の店には、浅い籠が並んでいた。
赤い実。薄く削られた根。紐で連ねた、小さな莢。
知らないものの間に、茶色い巻き物があった。
ミナは足を止めた。
指ほどの長さに切られた樹皮だった。薄い端が内側へ丸まり、表には細かな筋がある。
「これ、お店にありました」
ナディムが振り返る。
「コルナの?」
「はい。果物を煮るときに、少しだけ。おじさんが、小さい箱にしまっていて」
店主に断り、一片を近くで見せてもらった。
甘い香りがした。
火にかけた鍋の湯気まで、思い出せそうだった。
「香巻きね。山側から来たものだよ」
女の店主が籠を寄せる。
ミナは頷き、値札を見た。
それから、籠の中を数えかけた。
「この一束で、そのお値段ですか」
「一本だよ」
「……一本」
もう一度、札を見た。
こちらの硬貨には、まだ慣れていない。財布の中の小銭と、朝食の値段を頭の中で並べた。
計算を間違えたのかと思い、ナディムへ小声で尋ねる。
間違ってはいなかった。
「けっこう、するんですね」
「これは香りのよいところを選んだ品だからね。端の短いものなら、もう少し安くなる」
店主が別の小鉢を示した。
ミナは、食堂の箱を思い浮かべた。
あの中に入っていたのも、こんな短いものだった。
鍋へ入れる前に、店主が一本をさらに割っていた。
たくさん入れると香りが強すぎるからだと思っていたし、実際、そう教わった。
けれど、買うときの値段は知らなかった。
「おじさん、少しずつ使っていました」
「香りがよければ、少しで足りるよ」
店主は折れた端を指し、厚さと乾き具合を見せてくれた。
ミナは教わった名前を書いた。
食堂では、ただ「あの茶色い皮」で通じていたものだった。
「これを使って、何を作っていたんだい?」
ナディムに聞かれ、ミナは少し笑った。
「酸っぱい果物を、砂糖と一緒に煮ていました。冷めてから、パンにのせるんです」
「それは、おいしそうだ」
「はい。私は、温かいうちにも少し……」
そこで口を閉じた。
味見の匙を渡してくれた手まで、思い出した。
ナディムは続きを急かさず、並んだ籠へ目を向けた。
ミナも、預かった一片を返した。
「今日は、覚えておきます」
何に使うか決めてから買いたかった。
帰るまでに、買える機会はまだある。
*
ナディムは店主と、注文していた荷の話を始めた。
ミナは邪魔にならないところへ下がり、隣の露店を見た。
葉物と根菜の間に、白緑色の茎が並んでいる。
太いものと、指より細いもの。どちらにも同じ名前が書かれていた。
細い束の方が高かった。
「こちらは、何に使うんですか」
「川葦の芽。皮を取って、中を食べるんだよ」
露店の男が答えた。
ミナは、太い方と細い方を見比べる。
「大きい方が、たくさん食べられそうですけど……」
「何を作るの?」
後ろから声がした。
振り返ると、籠を抱えた少女が立っていた。
ミナより年上に見える。褐色の頬に、額から落ちた黒い髪が一本張りついていた。
太い三つ編みを背中へ払い、青緑の短い上着の袖で額を押さえる。
「まだ、決めていなくて」
「じゃあ、先に食べ方からだね。そっちは煮るとおいしいけど、皮も厚いよ」
少女は男に挨拶し、籠を台へ置いた。
「細いのは、短く火を通す方。柔らかいところを揃えてあるから、残る分も違う」
男が二本持ち上げ、根元を見せた。
太い方の外側は、爪では押せそうにないほど硬かった。
買った重さが、そのまま食べる重さになるわけではない。
芋の皮や骨つき肉なら考えることなのに、初めて見るものだと、先に大きさへ目が行ってしまった。
「炒めても、食べられますか」
「うん。薄く切ってね。初めてなら、こっちを少しでいいと思う」
少女は細い束を指し、それから自分の籠へ向き直った。
「今日の分。こっちは昨日頼まれた長さ。短いのは別にしてある」
男が籠の布をめくった。
ミナは一歩横へ寄った。
少女は買い物に来た人ではなく、納めに来た人だった。
*
男は束を持ち上げ、根元と切り口を見た。
「これなら、昼の仕込みにそのまま回せる。助かるよ」
「長い方は、重ねすぎないで。下が潰れるから」
「ああ。それと、薬屋の頼み、聞いたかい」
「聞いた。でも、あの葉は私じゃ見分けきれない。水路の草ならわかるけど」
「そうか。まだ集まらなくてね」
男は残念そうに言い、数を確かめ始めた。
少女は待つ間に、空いた籠へ落ちた葉を拾った。
ミナが見ているのに気づき、顔を上げる。
「ごめん。説明、途中だったね」
「いえ。お仕事中だったんですね」
「朝に採ったのを持ってきたところ。あなた、料理の仕事?」
「今は採取をしています。料理も、好きですけど」
「討伐のついでに?」
「いえ。薬草や、料理に使うものを採りに行く方が多いです」
少女が、拾った葉を持つ手を止めた。
「薬草も?」
「知っているものだけです。ここでは、まだ何もわからなくて」
「それなら、ギルドで聞いてみたら。採取を主にやる人、欲しがってるよ」
男も、数え終えた束を置いて頷いた。
「獲物を仕留めて持ってくる人はいるんだ。肉も皮も使うからね。でも、頼んだ草を、頼んだ時期に集めてくれる人となると、そう多くない」
「私も、川の仕事が重なると手が回らないし」
少女が付け足した。
ミナは店に並ぶ束を見た。
これだけたくさん売っているのだから、採る人もたくさんいるのだと思っていた。
けれど、今朝、ここへ運んできた籠には、一人で持てる分しか入っていない。
「じゃあ、このあたりの川で――」
言いかけたところで、少女が首を傾げた。
「舟は使える?」
「乗せてもらう方なら……」
「それだと、行けないところも多いね」
ミナは頷いた。
船から見た岸には、浅そうなところもあった。けれど、水の色だけで足がつくとは決められないと教わった。
見える範囲だけで、歩いて行ける場所を選ぶことはできない。
「最初は、土地を知っている人と行きたいです」
「うん。その方がいい」
少女は、そこで初めて口元を緩めた。
「私はサフィナ。川辺の採取と、案内をやってる」
「ミナです。アルセリアから来ました」
「遠いね。いつ着いたの?」
「昨日です」
「それで、もう採る場所を探してるの?」
言われて、ミナは少し頬を押さえた。
「今日は、買うつもりで来たんですけど」
「だったら、まずは食べてみなよ」
サフィナは、細い茎の束をもう一度指した。
*
ナディムが、仕入れの控えを畳みながら出てきた。
「買いたいものが見つかったかな」
「はい。それと、採っている方にも会えました」
ミナが紹介すると、ナディムとサフィナは挨拶を交わした。
ナディムは露店の男には馴染みらしく、店に届いた乾物の話を短くした。
「これを少し、買ってみたいんです。でも、宿で料理ができるか、まだ聞いていなくて」
ミナが言うと、男は束へ伸ばしかけた手を止めた。
「なら、決まってからにするかい」
「よければ、うちで試してみるかい?」
ナディムが言った。
「ただ、昼は家内が使うから、時間は相談してからになるけれど」
ミナは考えた。
台所を使わせてもらうのに、材料を買ってから押しかけるわけにはいかない。
「先に、聞いてきます」
「では、店へ戻る途中で確かめよう。私はこのあと倉庫へ行くが、道は途中まで同じだから」
ミナは男へ、また来ます、と伝えた。
サフィナも納品の代金を受け取り、空の籠を抱え直す。
「ギルドなら、この通りの先。広場を右に曲がると、川へ下りる道の手前にあるよ」
ミナは帳面を開いた。
簡単な道を描くと、サフィナが曲がり角へ指を置いた。
「ここ。旗は青と白」
「ありがとうございます。こちらで仕事をする手続きも、聞いてみます」
「私も明日、朝に顔を出す予定。会えたら声をかけて。川へ行く仕事の相談があるから」
ミナは顔を上げた。
「私も、お話を聞いていいですか」
「もちろん。行けるかどうかは、内容を見てからね」
「はい」
サフィナは片手を上げ、人の流れへ入っていった。
空になった籠が、腰の横で軽く揺れていた。
*
ナディムの店で相談すると、午後の台所を使わせてもらえることになった。
ミナは礼を言い、使う時間を確かめた。
油と塩は分けてもらい、その分も払う。作ったものは、家族にも少し味を見てもらうことにした。
市場へ戻る道は、一人で歩いた。
さっきとは反対から曲がり角を見る。
青い戸の前を通り、日よけの下へ入った。露店の男がミナに気づく。
「決まったかい」
「はい。少しだけ、お願いします」
細い茎を紙に包んでもらい、代金を払った。
袋にしまう前に、折れない向きを確かめる。
帰りには、あの茶色い樹皮の前も通った。
甘い香りを、今度は知っている名前と一緒に覚えた。
宿の机で帳面を開く。
食堂で使っていたもの。
今日初めて買ったもの。
その隣へ、教えてくれた人の名前を書いた。
『サフィナ。川辺の採取と案内。明日の朝、ギルド。』
ミナは一行空けて、尋ねたいことを書き始めた。
必要な手続き。知っておく草。持っていく道具。
窓の下では、また荷車が通っている。
昨日着いたばかりの町で、明日、声をかけられる人が一人できていた。
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