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第73話 サハルに着きました

 最初に見えたのは、川に向かって並ぶ、何本もの柱だった。


 その間に船がいる。

 帆を畳んだ大きなものも、籠をいくつも載せた小さなものもあった。

 岸の階段を荷物が上がり、人が下りてくる。少し高くなった通りには、青や赤茶の日よけが続いていた。


「あそこが、サハルですか」


 ミナが尋ねると、綱を用意していた船員が頷いた。


「そう。今から、あの先へ着ける」


 指された方を見た。

 建物の屋根が、川から奥へ重なるように広がっている。

 近づくにつれて、人の呼び声が聞こえてきた。


 地図の上で、何度も指を置いた町だった。

 けれど、地図にはこんなに船がなかった。色の違う布も、水を跳ねさせながら岸へ寄る小舟も、描かれていなかった。


「ミナ。布、乾いた方からしまってもらえる?」


「はい!」


 返事をしてから、もう一度だけ町を見た。

 荷台の揺れと、船の揺れを足し合わせて、二十日ほど。

 ようやく着いた。


 ミナは袖を直し、炊事場へ戻った。


     *


 最後の昼食に使った器は、もう洗ってあった。


 乾いた布で拭き、数を確かめながら重ねる。

 イネスが道具を収める箱を開けたので、ミナはお玉を渡した。

 この箱のどこに何が入るか、今は迷わずわかった。


「粉の袋は、こちらでよかったですよね」


「うん。口をもう一度結んで。残りは倉庫で使うから」


 袋の外側を払ってから、紐を締めた。

 少し湿っている布だけは別にする。

 自分の包丁を鞘へ収め、前掛けを外すと、急にすることがなくなった。


 港から、板を渡す音がした。

 荷を下ろす順番を、トビアスが確認している。

 ミナは箱の蓋に手を置いたまま、イネスを見た。


「ほかに、何かありますか」


「今はないよ。あんたの荷物を持っておいで」


「……はい」


「その前に」


 イネスが、結び直した粉袋を棚へ寄せた。


「途中から、あんたに任せて休める時間ができた。助かったよ」


 ミナは顔を上げた。

 船では、道具の置き方から教わった。港で買う量も、食事を出す時刻も、自分では決められなかった。


「私、教えてもらってばかりだったので」


「聞いたことを覚えて、次はやってくれたでしょう。そういう人が隣にいると、違うんだよ」


 イネスは、台の上に残った最後の布を取った。


「買い足しに出て、戻ったら下ごしらえが済んでる。ありがたいことなんだから」


 ミナは、外した前掛けの端を揃えた。

 うまく畳めず、一度広げ直す。


「こちらこそ、ありがとうございました」


「うん。サハルでも、ちゃんと食べてね」


「はい」


「そこは心配いらないか」


 ミナが笑うと、イネスも笑った。


     *


 岸へ下りる前に、トビアスと控えを見比べた。


 旅費と、炊事補助の仕事代。

 出発前に払った分と照らし、残った差額を精算する。

 ミナは印の入った紙を受け取り、金額を自分の帳面にも書いた。


「宿には、予定どおり着いたと伝えてある。このあと場所を――」


 トビアスが言いかけ、岸へ目を向けた。

 ミナも、その視線を追う。


 荷を運ぶ人の通り道から離れた場所に、藍色の上着が見えた。

 赤茶の帯。頭に巻いた薄い布。

 こちらへ上がった手を見つけた途端、ミナの口元が緩んだ。


「ナディムさんです」


「ああ。では、一緒に行ってもらえるかな。何かあれば、商会の取次先はこの紙にある」


「ありがとうございます」


 控えをしまい、袋を背負った。

 槍と盾も忘れずに受け取る。

 イネスや御者、護衛の人たちへ挨拶をしてから、板の前に立った。


 ナディムが待っている。

 急ぎたくなったが、下から荷を持った人が来たので、先に通した。


 足を岸へ下ろすと、地面がまだ少し揺れている気がした。


「よく来たね、ミナさん」


 聞き覚えのある声だった。

 ローデンの宿で、香辛料の袋を開いてくれたときと同じ、穏やかな声。


「本当に来ました」


 言ってから、少しおかしな返事だったかもしれないと思った。

 でも、ほかに言葉が出なかった。


 ナディムは嬉しそうに頷いた。


「ああ。ようこそ、サハルへ」


     *


 まずは宿へ向かった。


 川港から上がる道は広く、荷車が何台も通っていた。

 角を曲がると日よけの下へ入り、急に光が柔らかくなる。

 すれ違う人の衣服には、ナディムの上着に似た細かな模様も、まったく違う鮮やかな縞もあった。


 角のある女が店先で布を選び、尾の太い男が大きな籠を二つ運んでいる。

 その間を、小さな子供が父親の手を引いて歩いていた。

 荷車が近づくと、店の人が声をかける。皆が少しずつ端へ寄り、通り道が空いた。


 ミナも槍を立て気味に持ち、穂先を包んだ布が日よけに触れないようにした。


「疲れていないかい?」


「大丈夫です。歩くのは、少しだけですよね」


「あの坂を上がれば、もうすぐだよ」


 ナディムは、先の建物を示した。

 そこでミナの足が止まった。


 食肉店の札に、知っている名前があった。


「石羽鳥……」


 丸ごとの姿ではなかった。

 肉は部位ごとに分けられ、札も別々になっている。

 端の小さな鉢に入っているものは、砂肝だろうか。

 隣には、ミナの知らない名前もあった。


 店の人が、客の持ってきた器へ一つずつ数えて入れている。

 誰も不思議そうな顔をしていなかった。


「こちらでは、こんなふうに買えるんですね」


「明日なら、ゆっくり見られるよ」


 ナディムの声に、ミナは顔を戻した。


「……はい。まず、荷物を置いてきます」


「あの店の場所は覚えているから、安心して」


 笑われて、少し頬が熱くなった。


     *


 宿では、商会から渡された紙を見せた。


 主人が名前を確かめ、最初に頼んだ数泊分の部屋を案内してくれる。

 ミナは食事の時刻と、夜に戸を閉める時間を聞いた。


「もっと泊まりたい場合は、いつまでにお話すればいいですか」


「できれば二日前には。空きがあれば延ばせるが、先に予約が入ることもある」


 帳面へ書く。

 ナディムは隣で、口を挟まずに待っていてくれた。


 部屋へ袋を下ろすと、背中がふわりと軽くなった。

 窓から、通りの日よけが見える。

 槍を壁際へ立て、盾と袋を寝台の横へ置いた。


 新しい鍵を、空けてあった紐へ通す。

 ここが、今夜帰ってくる場所だった。


 顔と手を洗い、旅の上着を脱いでから下へ戻ると、ナディムが腰掛けから立った。


「今夜、うちで食事はどうかな。家族も、会えるのを楽しみにしている」


「ご迷惑でなければ、ぜひ」


「よかった。たぶん息子が、そろそろ店先まで見に出ている」


     *


 本当に、男の子が店先にいた。


 ナディムを見ると手を上げ、その隣のミナへ目を移す。

 挨拶をするより先に、奥へ振り返った。


「来た!」


「先に、こんにちは、だろう」


 父親に言われ、男の子は向き直った。


「こんにちは」


「こんにちは。ミナです」


 店には、袋や蓋のついた容器が整然と並んでいた。

 乾いた草の香りと、甘い実のような香りがする。

 奥の台では、ナディムの妻が広げた布を畳み、娘が帳面を閉じていた。


「遠くから、よくいらっしゃいました。疲れたでしょう」


「ありがとうございます。お邪魔します」


 娘はミナより少し背が高かった。

 父親とミナを交互に見てから、笑う。


「お父さんの話だと、料理の話が止まらない人って聞いてた」


「あ……つい、いろいろ聞いてしまって」


「止まらなかったのは、お父さんの方よ」


 妻が言うと、ナディムは上着の留め具を外しながら首を振った。


「まだ話していないこともあるんだが」


「今日は本人から聞くから」


 娘に言われ、ナディムも笑った。

 ミナは、持ってきた手拭いを握り直した。

 何から話せばよいのか、少し迷った。


     *


 住まいは、店の上にあった。


 階段を上がる途中から、温かい料理の匂いがする。

 食卓の中央に置かれた鉢には、魚と茄子が入っていた。

 赤茶色の煮汁が絡み、ところどころに細かな香草が見える。

 別の器には、粒のまま炊いた麦が盛られていた。


「運ぶの、お手伝いします」


 ミナが立ちかけると、妻が水の入った杯を前へ置いた。


「ありがとう。でも、今日は座って。もう、ほとんどできているから」


 娘が最後の器を運んできた。

 男の子も匙を配り、父親の分を置いてから、自分の席へ滑り込む。


「どうぞ。熱いうちに」


「いただきます」


 ミナは、魚を少し崩して口へ運んだ。


 知っている香りがした。

 ナディムにもらった小袋を開けたときの、あの香り。

 けれど、口に入れてからの味が違う。

 酸味があり、柔らかな茄子の甘さが続く。辛さは舌に強く残らなかった。


 もう一口、今度は煮汁を吸った麦と一緒に食べた。


「……おいしいです」


 ナディムが妻を見た。

 妻はミナの器を見て、魚の骨に気をつけてね、と言った。


「いただいた香辛料に似ているんですけど、少し違いますね」


「魚に合わせて、配合を変えてあるの。酸味は別に足しているわ」


「香辛料の中に、全部入っているわけではないんですね」


「ええ。あの小袋は、旅先で使いやすいように混ぜたものだから」


 ミナは匙を止めて、鉢を見た。

 同じ家の味でも、料理によって変える。

 小袋で教わったつもりになっていた香りには、まだ先があった。


「何を使っているか、あとで教えていただけますか」


「もちろん。食べ終わったら見せましょうか」


 すぐ帳面を出そうとした手を、ミナは膝へ戻した。

 まずは温かいうちに食べる。


「料理するときも、そんなに書くの?」


 娘に聞かれ、ミナは頷いた。


「覚えていられると思っても、あとで迷うことがあるので」


「私も、買った値段を書き忘れると困る。覚えてるつもりなんだけど」


「数字は、特に……」


 二人で顔を見合わせた。

 男の子が、間からミナを覗き込む。


「ねえ、水車は見た?」


「水車?」


「お父さんが、船に乗る前は宿場を通るって言ってたから。見た?」


「見ました。絵も描いたんですけど……あまり、上手ではなくて」


「見たい」


 ミナは少し困ってから、笑った。


「食べ終わったら、いいですよ」


     *


 帳面を開くと、水車はやはり花のようだった。


 男の子は笑わず、板を一本ずつ指で数えた。

 ナディムの妻が小皿に出してくれた香辛料を見ながら、ミナは別の頁へ名前を書き足す。

 娘が綴りを一つ教えてくれた。


 帰る時刻を確かめて帳面を閉じると、思っていたより長く話していた。


「明日、市場へ行ってみたいです」


「私も朝に用がある。一緒に行こうか」


 ナディムが言った。


「いいんですか」


「途中まではね。そのあとの予定も、歩きながら聞こう」


 玄関で礼を言うと、男の子が階段の上から手を振った。

 娘は、今度は旅のほかの頁も見せて、と言った。


 ナディムに宿まで送ってもらい、道の曲がり角を確かめた。

 明るいうちに見た食肉店は、もう片づけを始めている。

 店の場所を覚えるため、角の青い戸も見ておいた。


     *


 部屋へ戻ると、ミナは窓を少し開けた。


 外はまだ、人の声がしていた。

 旅の袋から水晶を出し、宿で確かめた決まりに合わせて、ほかの客の声が入らないよう窓を閉め直す。

 机の上へ置いて、配信を始めた。


「こんばんは。サハルに着きました」


 しばらくして、文字が出た。


〈灰ねこ:無事に着いてよかった。こなべさん、長旅お疲れさま〉


「ありがとうございます。ナディムさんにも、会えました。ご家族と、一緒に夕飯をいただいたんです」


 魚の料理と、麦のこと。

 港で石羽鳥が売られていたこと。

 話し始めると、伝えたいことが順番を追い越しそうになった。


「それから、イネスさんが――」


 途中で息を吸い、口元を手で押さえた。

 あくびを止めようとして、目に少し涙が滲む。


「……すみません」


〈灰ねこ:続きは、また聞かせてくれ〉


「はい。明日は市場へ行くので、そのお話もできると思います」


 短く挨拶をして、配信を終えた。

 まだ話せていないことは、帳面に残っている。

 イネスに言ってもらったことも、一行だけ書いた。


 それから、姉への便箋を出す。


『お姉ちゃんへ。

 無事にサハルに着いたよ。ナディムさんが迎えに来てくれたよ。』


 書いて、読み返す。

 船の揺れはもうないのに、体のどこかがまだ、旅の途中にいるようだった。


『魚と茄子の料理がおいしかった。今日は眠いので、続きは明日書くね。』


 筆を置いた。

 帳面の明日の欄に、「市場へ行く」と書き足す。


 寝台へ横になる前に、鍵を確かめた。

 窓の外からは、知らない町の夜の音が聞こえていた。



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