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第72話 川を下って

 国境の向こうにも、道は続いていた。


 ミナは、返してもらった書類を両手で受け取った。

 名前と行き先を答える間、指先に入っていた力が、ようやく抜ける。


「サハルまで、炊事の補助ですね」


「はい」


 役人は商会の名簿と見比べ、印の乾いた紙を示した。


「途中でも見せることがあります。しまい込まないように」


 ミナは頷き、手元の小さな袋へ戻した。


 リュネールを出てから、十日余りがたっていた。

 荷の積み替えで半日待ったことも、雨の朝に出発を遅らせたこともあった。晴れた日にはよく進み、今日、商隊はエルディアへ入った。


 検査の終わった馬車から、ゆっくり門を通る。

 向こうにも轍があり、道の端には草が生えていた。

 急に景色が変わるわけではないらしい。


「緊張した?」


 隣へ来たイネスに、ミナは小さく頷いた。


「聞かれることは、わかっていたんですけど」


「初めてだからね。あとは、書類をなくさないこと」


 ミナは袋の留め具を、もう一度確かめた。


     *


 違いに気づいたのは、その日の休憩所だった。


 茶を頼んだ御者へ、店の人が短い言葉をかける。

 ミナは返事をしかけたが、意味がわからず止まった。

 御者が笑って、同じ言葉を返した。


「旅が順調でありますように、という挨拶だよ。この辺りではよく言う」


「今の、もう一度教えてもらえますか」


 聞いたとおりに言ってみる。

 舌が少しもつれた。店の人はゆっくり繰り返してから、共通語で、ようこそ、と言ってくれた。


 盆の上へ置かれた硬貨も、見慣れない模様だった。

 ミナは値札を見て、自分の財布にある金額と比べかける。


「同じ銅色でも、同じ値段じゃないよ」


 イネスが教えてくれた。

 必要な分の両替は、川港でトビアスが窓口を教えてくれるという。


「数字だけ見て、安いと思うところでした」


「私も最初はそうだった」


 運ばれた茶には、細長い葉が一枚浮いていた。

 口に含むと、草の香りのあとに、すっと涼しい感じが残る。


「これも、ここで採れるんですか」


 店の人に尋ねると、裏の鉢を指してくれた。

 大きな畑を思い浮かべていたミナは、思わず笑った。


「すぐ、そこなんですね」


 その葉の名前を、帳面の端へ書いた。

 挨拶は、耳で聞いた音のまま書き留める。あとで読んでも言えるだろうかと、小声でもう一度試した。


     *


 川港へ着くと、馬車の音より、人の声が大きくなった。


 岸に何艘もの船が並んでいる。

 樽が板の上を転がり、袋を担いだ人が、荷車と船の間を行き来していた。

 ミナたちの荷も、ここから船で南へ運ばれる。


 トビアスが船側の者と数を確かめている間に、イネスと食材の受け取りへ向かった。

 邪魔にならないよう壁際へ寄ったミナは、石の柱にある横線を見つけた。

 線の脇には、年を表す数字が刻まれている。


「イネスさん。あれは、何の高さですか」


 手を伸ばしても、一番上には届かない。

 イネスが見上げると、倉庫から出てきた男が答えた。


「川だよ。あの年は、そこまで来た」


 ミナは、今の水面を振り返った。

 階段を何段も下りた先で、船が揺れている。

 もう一度、柱を見た。


「ここも、水の中だったんですか」


「ああ。だから、下には濡れて困るものを置かない」


 男が開けた倉庫の奥には、階段があった。

 上の床に袋が積まれ、下には空の荷車が入っている。

 戸口の板は外せるようになっていた。水が上がる前に、荷車ごと出すのだという。


「印より上なら、平気ですか」


「次も同じ高さとは限らないよ。上流から知らせが来たら、動かす」


 ミナは頷いた。

 柱の線だけでなく、知らせを待つ人もいる。


 受け取った食材を運ぶ道で、今度は建物の床の高さが気になった。

 入口まで数段上がる店がある。荷を上げるための板が、壁に立てかけてある。

 さっきまでは、ただ階段の多い町だと思っていた。


     *


 積み込みの終わりを待つ間、二人は港の食堂へ入った。


 ミナが引いた椅子は、背もたれの下が大きく空いていた。

 壊れているのかと思って隣を見ると、そちらも同じ形だった。


 向こうの席では、茶色い尾を持つ客が座っている。

 尾は背もたれの下から、ゆったり床へ伸びていた。


「……あ」


「どうしたの?」


「これなら、ラグさんも座りやすそうです」


 イネスが椅子を見て、なるほど、と頷いた。


「見送りに来ていた方ね」


「はい。一緒に食べるとき、背もたれのない方を選ぶことがあったので」


 店の中には、普通の椅子も、幅の広い腰掛けもあった。

 客は好きなものを選び、足りなければ店の人が交換している。


 ミナは、椅子の形を覚えておこうと思った。

 水車よりは、うまく描けるかもしれない。


 昼食は、平たいパンと、酸味のある刻み野菜、それに焼いた肉だった。

 隣の席の人が、パンで肉と野菜を包むのを見て、ミナも真似をした。

 欲張って載せすぎた野菜が、一切れ、皿へ落ちる。


「少しずつね」


 イネスの方は、きれいに収まっていた。

 ミナは次の一口を小さくして、今度はこぼさずに食べた。


     *


 船へ渡る板は、足を載せるとわずかにしなった。


 ミナは前の人との間を空け、一歩ずつ進んだ。

 袋は先に渡してある。槍や盾も、船員に指定された場所へ収めた。


 甲板へ移ると、地面とは違う揺れが、靴底から伝わってきた。

 立っているだけなのに、体が少し遅れて動く。


「慣れるまでは、何か掴まれるところにいて」


 船員に言われ、ミナは手すりの内側へ寄った。


 護衛も商会の人たちも、同じ船へ乗っていた。

 荷物の確認が終わると、岸の縄が外される。

 さっき昼食を食べた店が、ゆっくり遠ざかった。


 ミナは手を振りかけ、誰も知っている人がいないことに気づいた。

 けれど、店先を片づけていた人が、こちらへ片手を上げてくれた。

 ミナも、今度はしっかり振り返した。


     *


 船の炊事場で、最初に覚えたのは、置いたものが動くことだった。


 鉢を台へ置こうとすると、イネスが窪みのある方を示した。


「そっちへ。布も敷いて」


 火を使う場所は囲われ、鍋がずれないよう支えがついている。

 水の桶にも蓋があった。

 商隊の分を作る時間と、船員たちが使う時間は、先に決めてあった。


 ミナは棚の縁を見てから、自分の包丁を出した。

 使わない間は鞘へ戻す。まな板の横へ置いたまま、別の作業に移らない。

 いつもの順番を、少し変えなければならなかった。


 夕飯の汁を器へ注ぐときにも、イネスの声がした。


「いっぱいにしない方がいいよ」


「これくらいですか」


「うん。おかわりはできるから」


 ミナがお玉を戻すと、船がゆっくり傾いた。

 器の中の汁が寄り、空けておいた縁の近くまで上がる。


「……本当ですね」


「運ぶときは、もっと動くよ」


 両手で一つずつ運ぶことにした。

 急がず、船の動きを足元で確かめる。

 階段の手前では器を台へ置き、次の人へ渡した。


 自分の食事を取るころには、少しだけ肩が凝っていた。

 ずっと力を入れて立っていたらしい。


「足、固めすぎないで。揺れを全部、止めようとしなくていいから」


 船員の一人に言われ、膝を少し緩めた。

 訓練で、踏ん張り続けないよう教わったことを思い出す。

 同じようにできるかはわからなかったが、さっきより息がしやすかった。


     *


 翌朝、目が覚めると、梁がゆっくり動いていた。


 ミナは一度瞬きをして、船だった、と思い出した。

 寝台から下り、足を伸ばす。

 昨日歩いた港の階段の疲れは、少し残っている。けれど、朝の支度を始めるのがつらいほどではなかった。


 何日も旅をしながら、毎日、自分の仕事ができている。

 ミナは靴紐を結び、立ち上がった。


 朝食のあと、休める時間をもらった。

 船員に配信してよい場所を聞くと、荷物やほかの客を映さず、作業の邪魔にならない内側の腰掛けを教えてくれた。


 水晶を向けた先には、岸辺の家々があった。

 階段が水際まで続き、小舟から籠を受け取る人がいる。


「こんにちは。今は、船に乗っています」


 数字が一になった。

 ミナは水晶を持ち直し、家の並ぶ方へ少しだけ向ける。


「お店の入口が、川の方にあるんです。さっきも、小さな舟で来た人が買い物をしていました」


〈湯のみ:こんにちは。よく見えるよ。階段の下の方は、水の中なのかな〉


「はい。今、見えなくなりました」


〈湯のみ:水位に合わせて、使う段を変えるのだろうか〉


 ミナは目を凝らした。

 石の色が違うところはあったが、それだけではわからなかった。


「聞いてみますね」


 近くで綱をまとめていた船員に、作業の切れ目を待って尋ねた。

 配信中だと伝えると、男は姿が入らない方に立ったまま、岸を指した。


「そう。水が高ければ、上の段へ着ける。ただ、ここからじゃ足元の深さまではわからない。よそから来た舟は、勝手に寄せない方がいい」


「同じ階段でも、使うところが変わるんですね」


「あの家は、今日は三段目だな」


 ミナは礼を言い、聞いたことを文字板の向こうへ伝えた。


〈湯のみ:なるほど。長い階段には、そういう使い方もあるんだね〉


「はい。港では、水が上がった高さを石に残していました。私より、ずっと高いところに」


 話している間に、さっきの家は後ろへ流れていった。

 次の岸には、枝を水面へ伸ばした木がある。

 その下を、小舟が一艘通った。


 ミナは少し黙って眺めた。


「……船だと、見ている間に次の場所へ行くんですね」


〈湯のみ:忙しいね。こちらまで、少し旅をした気分になったよ〉


 ミナは笑った。

 まだ見せたいものはあったが、そろそろ戻る時間だった。


「また、映してもいい場所があったら。今日はありがとうございました」


 水晶をしまってから、もう一度、岸を見た。

 今度は、自分の目だけで眺めた。


     *


 船は、いくつかの港で荷を下ろしながら、南へ進んだ。


 ミナの帳面には、水車の次に、背もたれの空いた椅子が増えた。

 川へ続く階段も描いた。こちらには、水の高さが変わる、と書き添えた。


 泊まる場所の名前を数えると、サハルまではもう、いくつも残っていない。

 夕方、トビアスが翌日の予定を伝えに来た。


「この先で大きく待たなければ、明日の午後には着く。明日は朝のうちに、自分の荷物をまとめておいて」


 ミナは返事をし、袋の置いてある方を見た。

 長いと思っていた旅にも、最後の夜が来る。


     *


 サハルでは、ナディムが店先から通りを見ていた。


 港から上がってきた荷車が、一台止まる。

 顔を上げたが、いつもの乾物問屋の使いだった。

 受け取った紙を妻へ渡し、自分は袋の口を開けた。


「まだ来ないの?」


 横から覗いていた息子が聞いた。


「船だからな。途中で荷を下ろすし、風や水の具合もある」


「昨日も言ってた」


「昨日と同じ理由だ」


 妻が笑い、広げた乾物を一つ取った。

 割って中を確かめる手は、止めない。


「その子に食べてもらいたい料理の話も、昨日聞いたわ」


「あれは、もう一つ思い出したんだ」


「全部作ったら、何日分になるの」


 ナディムは答える前に、棚の上の手紙へ目をやった。

 商隊の炊事を手伝いながら来る、と丁寧な字で書いてある。

 ローデンで別れたときには、いつか訪ねてくれればと思っていた。

 その、いつかが、もうすぐだった。


「まずは、ゆっくり食事だな」


「まず、本人の予定を聞いてからね。宿も決めてあるんでしょう?」


「もちろんだ」


 奥で帳面をつけていた娘が、父を見て笑った。

 ナディムは咳払いし、受け取った乾物の数を数え直した。


 ほどなく、商会からの使いが来た。

 一つ上流の港から、先に出た小舟が知らせを運んできたという。

 荷船は予定どおり進んでいる。明日の午後、到着する見込みだった。


 ナディムは紙の日付と船の印を確かめ、妻へ渡した。


「明日だそうだ」


「よかったわね。店の方は大丈夫。着くころに行っておいで」


 息子が、すぐに自分もと言いかけた。

 妻に、荷揚げの邪魔になるでしょう、と止められ、少し口を尖らせる。


「じゃあ、ご飯には来る?」


「誘ってみるよ」


 ナディムは頷き、手紙を、濡れない棚の奥へ置いた。

 明日は、便箋に書かれた名前を、本人に呼びかけられる。



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