第71話 行ってきます
鍵を外すと、紐がずいぶん軽くなった。
ミナは、何もついていない端を指に巻いた。
いつもなら、服の内側へしまうところだった。
部屋にはもう、自分の荷物がない。
寝台の下も、机の引き出しも確かめた。窓際に干していた布は、昨日のうちに畳んである。
小鍋は袋の中だった。器を重ね、その間へ布を挟んだので、背負っても音はしない。
机の上に、朝の光が四角く落ちていた。
ここで報酬を数えた。依頼の条件を書き写し、姉の手紙を何度も読んだ。
初めて荷物を置いたときより、部屋が狭く見える気がした。
「忘れ物はない?」
廊下から声がして、ミナは振り向いた。
「はい。お世話になりました」
差し出した鍵を、管理人が受け取る。
「箱は下へ置いたよ。帰る日が決まったら、手紙をね」
「はい。お願いします」
預けた箱には、旅に持っていかない着替えと、使い終えた帳面が入っている。
蓋に書いた自分の名前を思い浮かべてから、ミナは部屋を出た。
階段を下りると、台所から湯の沸く音がした。
つい、そちらを見た。
「今日は作らなくていいよ」
「……はい」
「もう食べた?」
「食べました」
「なら、よし」
いつもの朝と同じ聞き方だった。
それが少し嬉しくて、ミナは笑った。
*
ラグは、下宿の外で待っていた。
朝の通りはまだ荷車が少ない。灰色の毛を風になびかせ、ミナを見つけると背を起こした。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「少し早く起きてしまいました」
「それでは、馬車で眠くなるかもしれませんね」
ミナは頷き、袋を背負い直した。
ラグの目が、肩紐から腰の道具へ移る。
「紐の下に――」
「布、挟んであります。昨日、荷物を入れて歩いてみたら、ここが擦れたので」
肩を少し向けて見せた。
ラグは右手を上げかけ、そのまま下ろした。
「では、私から申し上げることが一つ減りました」
「まだありますか?」
「いくつか。ただ、商会に着くまでに全部申し上げると、道を遠回りすることになります」
ミナが笑うと、ラグも口元を緩めた。
二人で歩く道は、見慣れていた。
パン屋の戸が開いている。店先を掃く人が、行ってらっしゃいと声をかけてくれた。
採取へ向かう朝にも通った角を、今日は反対へ曲がる。
「ラグさんのお仕事は、明日からでしたよね」
「ええ。今日、もう一度、組む方たちと話をします」
「ご飯は、どうするんですか」
「そこも決めなくては。ですが、どうぞご心配なく。最近は、鍋底を焦がさずに済む日が増えました」
「……増えたんですか」
「そこを聞き返されるとは思いませんでした」
ラグがわざと困った顔をしたので、ミナはまた笑ってしまった。
自分がいない間にも、ラグは誰かと出かけ、食事をして、帰ってくる。
その話を聞くのは、少し先になる。
商会の前には、すでに馬車が並んでいた。
車輪の横で御者がしゃがみ、別の男が荷台の縄を引いている。
トビアスが紙から顔を上げ、ミナに手を振った。
「おはよう。荷物は一度、あちらへ。イネスが場所を決めてくれる」
「はい」
返事をしてから、ラグを見上げた。
ここまで来れば、あとは自分で行く。
わかっていたのに、少しだけ言葉が遅れた。
「帰ったら、向こうで覚えた料理を作りますね」
「楽しみにしております。私も一品くらい、お返しできるようにしておきましょう」
「食べたいです」
「では、鍋をよく見ておきます」
ラグは目を細めた。
「行ってらっしゃい、ミナさん」
ミナは、肩紐を握っていた手を緩めた。
「行ってきます」
*
イネスは、ミナの袋を見て頷いた。
「ちゃんと一つになったね。重い方はこっち。途中で使うものは手元に残して」
荷台の一角を示され、ミナは袋を置いた。
水筒と、身元の書類を入れた小さな袋は持っておく。槍は勝手に積まず、どこへ固定するか御者に聞いた。
護衛の取りまとめをする女が、全員の顔を見ながら話した。
「止まったときも、一人で道を外れないで。用があれば声をかけること。何か見つけたら、近くの者に知らせて。確かめに行くのはこちらの仕事です」
ミナは頷いた。
女の視線が、腰の道具と、小盾に止まる。
「戦ったことは?」
「あります。でも、ここでは炊事の仕事です」
「わかった。合図があったら、まずイネスと一緒にいて」
「はい」
足元を守る位置に盾を置き、荷台の縁へ腰を下ろす。
出発の声が前から伝わってきた。
車輪が動く。
思っていたより大きく揺れて、ミナは慌てて縁を掴んだ。
「最初の溝が深いんだよ」
向かいのイネスが笑った。
ミナも笑い返してから、通りへ顔を向けた。
ラグが、右手を上げていた。
ミナも手を振った。
角を曲がるまで、見ていた。
*
最初の昼休みには、まだ町の屋根が見えた。
パンを配り、朝のうちに茹でておいた卵を数える。
見張りを交代する人の分は、別の籠に残した。
食べ終える前に馬の世話へ戻った御者がいたので、イネスに確かめてから、残りを布で包んだ。
「自分のも食べて」
「はい」
パンを持って腰を下ろすと、手の中で少し潰れた。
さっきまで、いつもの台所があった方向に、細く煙が上がっている。
夕方には、町はもう見えなかった。
その次の朝には、見覚えのない畑ばかりになった。
馬車に乗れる区間もあれば、坂で荷を軽くするために歩く区間もある。
ミナは最初、前の人と同じ速さで歩こうとして、息が上がった。
歩幅を少し狭くすると、坂の途中でも話を聞ける余裕が戻った。
休憩のたびに荷を確かめる御者。
寝る前に必ず靴を脱いで、中の砂を払う護衛。
イネスは、使い終わった布の乾き具合を見て、次の日に使う順を替えていた。
ミナも夜のうちに靴下を替え、湿った方を干した。
姉の手紙を思い出したが、今は少しも大げさだと思わなかった。
三日目、王都へ向かう道との分かれ目で、商隊は南東へ進んだ。
ミナは荷台から道標を見送った。
知らない地名が、これから通る場所になっていく。
*
それから二日後の宿場で、水の音がした。
宿の裏手を流れる水路に、ミナの背丈よりはるかに大きな輪がある。
水を受けた板が沈み、濡れたまま上へ戻ってくる。輪の軸は、そのまま隣の建物へ入っていた。
水車だと気づいても、ミナはしばらく立ち止まっていた。
回るたび、木と木が軋む低い音がする。
「見ておいで。粉を受け取るまで、少しかかるから」
イネスに言われ、ミナは顔を向けた。
「いいんですか」
「扉のところまでね。中へ入るなら、そこの人に聞いて」
戸口には、袋を載せた手押し車が並んでいた。
粉で袖を白くした男に尋ねると、邪魔にならない場所へ案内してくれた。
建物の中でも、軸が回っている。
歯のある木の輪が噛み合い、奥の石へ動きを伝えていた。
上から落ちた穀粒が、石の間へ吸い込まれていく。
「全部、水で動いているんですか」
「今日はな。流れが弱けりゃ、こっちも遅くなる」
男が受け口を示した。
さらさらと、粉が落ちていた。
ミナは、食堂で粉袋を開けたときのことを思い出した。
細かな粉が舞うので、顔を近づけすぎないようにと言われた。
その袋の中身が、今、目の前でできている。
「このまま、パンに使うんですか」
「そのまま使う家もある。もっとふるう家もあるよ。ほら、あちらの婆さんは、いつも自分で分ける」
男の指した先で、年配の女が袋の口を広げていた。
足元の男の子が、小さな空袋を一枚ずつ渡している。
「大きい方じゃないよ。それはお隣の」
「こっち?」
「そう。紐の色を見なさい」
男の子は、赤い紐と青い紐を並べて確かめた。
待っている人たちは、その間にも畑や家族の話をしていた。
パン屋で順番を待つ声と、少し似ていた。
外では水車が回り続けている。
ミナはもう一度、粉の落ちるところを見た。
「お水が少ないと、皆さん、待つんですね」
「ああ。だから、急に大袋を持ってこられても困るんだ」
男は笑って、次の袋を引き寄せた。
*
粉を積み終えると、宿へ戻るまで少し時間があった。
イネスに戻る時刻を確かめ、ミナは同じ商隊の御者と、通りの店を見た。
木の匙。紐を通した小さな飾り。布を張り替えた椅子。
食べ物の店ばかり探していた目が、今日は別のものにも止まる。
御者は、棚に並んだ木彫りの鳥を二つ持ち上げた。
「どっちがいいと思う?」
「贈り物ですか」
「娘に。前の旅では馬を買ったからな」
丸い鳥と、尾の長い鳥だった。
ミナが迷っていると、御者は丸い方を指でつついた。
「こっちは、うちの鶏に似てる」
「じゃあ、そちらがいいと思います」
鳥は小さな布に包まれた。
御者が自分の袋へしまうのを見てから、ミナも棚へ目を戻した。
姉には、丈夫そうな髪留めがよいかもしれない。
ラグには何がよいだろう。大きめの匙を見つけ、持ち手の形を眺めた。
値札を見て、買い物に分けたお金を思い出す。
まだ、サハルにも着いていない。
「買わないのかい?」
「今日は、見ておきます」
店の人は、ゆっくり選びな、と頷いた。
ミナは匙を元の向きに戻した。
帰りに何を持っていくか考えるのは、料理だけではなかった。
*
宿へ戻ると、イネスが夕食の準備を始めていた。
「どうだった?」
「水車の中まで見せてもらいました。粉になるところも」
「音、大きかったでしょう」
「はい。水が少ないと、挽くのも遅くなるんですね」
「だから、次に買える場所まで足りるか、先に聞いておくんだよ」
イネスは粉袋の口を結び直した。
今日買った分を全部使うのではない。次の宿場まで持っていくものもある。
ミナは袋を乾いた台へ寄せ、手を洗った。
今夜は、宿で分けてもらった白豆と塩漬け肉を使うという。
イネスが煮ている間に、ミナは葉物を洗い、傷んだ部分を取り除いた。
流れてくる水へ手を入れると、さっきの大きな輪を思い出した。
鍋の支度が済んだあと、許可をもらって、水晶を自分の手元だけに向けた。
配信を始めても、しばらく数字は零だった。
その間に、帳面へ水車の絵を描いてみた。
丸い輪に板を描き足すと、花のようになった。
数字が一になり、少しして文字が来た。
〈帰り道:こんばんは。その絵は何ですか?〉
「こんばんは。水車です。今日、近くで見せてもらったんです」
文字板が、しばらく静かになった。
〈帰り道:なるほど。花かと思いました〉
「……板が、たくさんあったので」
ミナは絵を見下ろし、少し笑った。
水の流れる向きを、横へ矢印で書き足す。
「粉を挽いていました。水が、あんなに重そうな石まで動かすんですね」
〈帰り道:うちの近くにもあります。毎朝うるさいくらいですが、そう言われると、よく働いていますね〉
誰かにとっては、毎朝聞く音なのだ。
ミナは、窓の外を見た。
ここからでも、水音が少し聞こえた。
「ミナ、こっちをお願い。取り分けようか」
イネスに呼ばれ、ミナは顔を上げた。
「はい!」
水晶へ向き直る。
「夕飯の時間なので、今日はここまでにします。また、お話しますね」
配信を止め、帳面を閉じた。
寝る前には、今日見た鳥と、水車小屋で袋を分けていた紐の色も書いておきたい。
台には、十六人分の器が並び始めていた。
ミナは前掛けを確かめ、湯気の立つ鍋のそばへ戻った。
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