第69話 サハルへ行きます
旅へ持っていくものを寝台へ並べると、寝る場所がなくなった。
ミナは扉の前から、もう一度眺めた。
着替え。雨を避けるための布。前掛けと、手を拭く布。
小鍋の中には器を重ねてある。
採取の道具と帳面を置いたところで、端に残っていた隙間も埋まった。
これを全部、自分で持つのだろうか。
まだ袋へ入れてもいないのに、肩が少し重くなった気がした。
*
商会で昼食を作った翌日、足の疲れはほとんど残っていなかった。
ミナは近い採取地での仕事を挟みながら、旅の準備を続けていた。
ギルドでは身元の書類を頼み、商会には、サハルの宿について尋ねた。
トビアスが使ったことのある宿なら、泊まるために必要な金額がわかった。
最初の数泊分は、商会からの連絡で部屋を頼めるという。
「その後も泊まるなら、向こうで延ばせるか聞いて。到着が遅れた場合の連絡は、こちらから入れる」
「ナディムさんのお店を訪ねる間、そこに泊まれればと思います」
差し出した宛先を見て、トビアスは宿との位置関係を教えてくれた。
川港から、市場の方へ上がる途中にあるらしい。
ナディムからの返事は、まだ届いていなかった。
手紙と本人が途中ですれ違うこともある、と聞いた。
店を訪ねられても、必ず本人に会えるとは限らない。
ミナは、店の宛先とは別に、宿の名前を書いた。
夕方、部屋でお金を分けた。
出発までに使う分。
商会へ払う分。
サハルでの宿と食事、それから、帰るために残す分。
仕事が見つからなければ、長くはいられない。
買い物も、何でもできるわけではなかった。
けれど、商会の仕事代を差し引いた数字で数え直すと、帰る分を残しても、最初に考えた滞在はできそうだった。
市場で、まだ食べたことのないものを一つ買う。
誰かに教わった料理を、もう一度食べに行く。
そういうお金も、少しだけ分けた。
*
試しの仕事から十日ほどたった朝、姉の手紙が届いた。
封を開けると、最初に目に入ったのは、大きめの文字だった。
『びっくりした。』
ミナは、その下を読んだ。
『サハルって、地図で見たら本当に遠いね。
お姉ちゃんは心配です。ラグが一緒じゃないと聞いて、もう一回、最初から読み直しました。』
そこで、ミナは唇を結んだ。
やはり、そうだろうと思った。
『でも、ミナが何を見たいのか書いてくれたのは、嬉しかったよ。行く方法も、自分で聞いたんだね。』
便箋を持つ指から、少し力が抜けた。
次の行には、旅で気をつけることが書いてあった。
新しい靴を、出発の日に初めて履かないこと。
濡れたものと、乾いた着替えを一緒にしないこと。
疲れているときほど、道具を置く場所を決めておくこと。
『大丈夫、と答える前に、どこが大丈夫なのか一度考えて。足が痛いのに歩けるから大丈夫、というのは、後で困ることもあるから。』
ミナは、あの森から運ばれて帰った日のことを思い出した。
それから、昨日の帰り道を思った。
坂の途中で一度荷を下ろし、水を飲んだ。
下宿へ帰ってからも、夕飯を作る力は残っていた。
できるようになったことも、まだ気をつけなければならないことも、姉に伝えたかった。
『決まったら、商会の名前と、泊まる先を教えてね。
私が訪ねたとき、また違う町にいました、は困るので。』
最後の行を読んで、ミナは小さく笑った。
手紙の端に、追いかけるような字がある。
『あと、靴下は余分に。これは本当に。』
ミナは立ち上がり、寝台に並べた着替えから、靴下を一組取った。
踵の薄くなっているものは外し、繕い終えたものと替えた。
*
昼前、商会を訪ねた。
トビアスが、前と同じ机へ紙を広げる。
ミナは仕事の内容と旅費、到着後の宿を確かめた。
途中で体調を崩したときは、まずイネスかトビアスに伝える。
行程が変われば、商会の者から説明があるという。
「では、この条件でいいかな」
ミナは、自分の帳面を閉じた。
「はい。サハルまで、ご一緒させてください」
名前を書く欄へ、筆を下ろす。
採取の依頼を受けるときと同じ、自分の名前だった。
いつもより、少しゆっくり書いた。
控えを受け取って廊下へ出ると、イネスが空の籠を抱えていた。
「決まった?」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃあ、出発前の仕込みにも来てもらおうか。持っていく食材を、一緒に見ておきたい」
イネスが籠を持ち直したので、ミナは扉を押さえた。
「自分の鍋は、持っていった方がいいですか」
「仕事用はこっちにあるよ。自分で使う小さいのなら、荷物に入る分で。大鍋まで持ってこないでね」
「それは、持てません」
「よかった。さっき、すごく真剣な顔だったから」
ミナは笑い、扉から手を離した。
*
管理人に出発の日を伝えると、部屋のことも相談になった。
数日留守にするのとは違う。
行き帰りだけでも長くかかり、その間も部屋代を払い続けるのは難しかった。
「いったん、お部屋をお返ししたいです」
言ってから、ミナは階段を見上げた。
上がって、扉を開ければ、いつもの机がある。
戻ってきた日に、そこへ帰れるとは限らなくなる。
「そうだね。帰る日が決まったら、手紙をおくれ。空いていれば、また使えばいい」
「空いていなかったら……」
「近くの部屋を聞いてあげるよ。町からいなくなるわけじゃないんだから」
ミナは顔を上げた。
管理人は、いつもの調子で洗った布を畳んでいた。
「荷物も、箱一つなら預かれる。湿気を嫌うものは、ちゃんと包んでね」
「ありがとうございます」
お礼を言ってから、ミナも布の端を揃えるのを手伝った。
出発の日までにすることが、また一つ増えた。
戻るときに手紙を書く相手も、増えた。
*
午後、ラグと会った。
広場の端の腰掛けで、商会の控えを見せる。
ラグは紙を読み、右手でミナへ返した。
「決められたのですね」
「はい。お姉ちゃんからも、手紙が来ました」
「それは、長かったでしょう」
「靴下のことまで、書いてありました」
ラグの口元が緩んだ。
「そこは、私からもお願いしたいところです」
ミナは笑ったあと、紙を袋へ戻した。
「ラグさんは、今度、どんなお仕事をするんですか」
「街道沿いの見回りに、別の方たちと加わる予定です。日数は短いですが、初めて組む相手もいます」
「剣を使うんですか」
「必要があれば。できれば、鞘に収めたまま帰りたいですね」
腰の剣を、ミナは見た。
ラグが新しいものを選んだときのことを思い出す。
あの剣も、これから自分の知らない場所へ行く。
「帰ってきたら、お話、聞かせてください」
「ええ。私にも、サハルの話をお願いします」
「知らない料理が、たくさんあると思います」
「では、聞くだけでは済まないかもしれませんね」
ラグが目を細めた。
ミナは頷いた。
「作れるようになったら、食べてください」
広場を、荷を積んだ馬車が横切っていった。
二人とも、少し話を止めて見送った。
*
夜の配信を始める前に、ミナは水晶の向きを確かめた。
商会の紙も、姉の手紙も、部屋へ置いてきた。
台の上にあるのは、パンと、小さな玉ねぎ、チーズの切れ端だった。
視聴者が一人になった。
〈帰り道:こんばんは。今日は遅めですね〉
「こんばんは。少し、片づけをしていたので」
玉ねぎを輪切りにして、油を薄く引いた鍋へ並べる。
弱めの火で、切り口に色をつけた。
「今日は、お話したいことがあるんです」
言うと、文字板を見てしまった。
まだ返事はない。
ミナは玉ねぎを裏返してから、もう一度顔を向けた。
「エルディアへ、行くことになりました。サハルという町です」
少し間が空いた。
〈帰り道:外国ですか?〉
「はい。前にお話した、香辛料をくださった商人さんの町です。市場を見たり、料理を教わったりしたくて」
視聴者の数字が二になった。
続いて出た名前に、ミナは背筋を伸ばした。
〈灰ねこ:こんばんは。今、エルディアと聞こえたけれど〉
「こんばんは。今度、商隊の炊事を手伝いながら、サハルまで行きます」
〈灰ねこ:こなべさんが、炊事を?〉
「担当の方がいて、その方のお手伝いです。この前、一日働かせてもらって、今日、正式に決めてきました」
文字板に返事が来る前に、鍋へ目を戻した。
玉ねぎの端が透き通っていた。
皿へ取り、空いた鍋にパンを置く。
〈灰ねこ:そうか。ラグさんも同じ商隊に?〉
「ラグさんは、この町でお仕事を続けます。今回は一緒ではありません」
今度の間は、さっきより長かった。
パンの裏を確かめていると、三人目の名前が出た。
〈針しごと:今来たけど、ずいぶん大きな話をしてない?〉
「はい。サハルへ行きます」
〈針しごと:それは聞こえたわ〉
ミナは、何から話せばいいのか少し迷った。
〈灰ねこ:移動中の護衛は、商会の手配があるんだね〉
「はい。船へ積み替えてからも、同じ商会の方がついてくださいます。着いた後も、まず泊まる場所を決めました」
〈針しごと:もう、そこまで話を進めてたのね〉
「まだ準備するものはありますけど。採取をするなら、向こうのギルドで、道を知っている方を紹介してもらうつもりです」
パンを裏返し、焼いた玉ねぎを載せた。
チーズを小さく削って散らし、蓋をする。
〈帰り道:着いたら、向こうの料理も見られるんでしょうか〉
「見せてもよいか、お店の方に聞いてみます。覚えて、自分で作れるようになったものも、見てもらえたら嬉しいです」
答えていると、ようやく口元が緩んだ。
「石羽鳥も、食材として売っているそうなんです。同じところを使っても、違う料理になるのかなって」
〈帰り道:台所から見ているだけなのに、遠くへ行けそうですね〉
ミナは、その文字をもう一度読んだ。
いつも配信しているこの台所も、もうしばらくしたら離れる。
その先でも、今見ている人たちに話せるのだろうか。
「毎日は、できないと思います。お仕事もありますし、配信していい場所か、先に聞かないといけないので」
〈灰ねこ:できるときでいい。仕事中に、こちらへ返事をしようとしなくても大丈夫だよ〉
〈針しごと:道具の相談があれば、出発前にね〉
「ありがとうございます」
蓋を持ち上げると、溶けたチーズが玉ねぎの間へ落ちていた。
パンの縁は、少し濃い色になっている。
皿へ移し、熱いうちに一口食べた。
玉ねぎが甘く、噛んだパンから油の香りがした。
〈帰り道:まずは、それを明日作りたいです〉
「玉ねぎを焼いてから載せると、パンを長く焼かなくて済みます。今日は、チーズが少しだけ残っていたので」
〈針しごと:大事な報告の日も、ちゃんと残り物を使うのね〉
「出発する前に、食べておきたいものもあるんです」
笑ってから、残りのパンへ手を伸ばした。
*
配信を終えると、台所はいつもの静かさに戻った。
ミナは皿を洗い、棚の自分の場所へ戻した。
置いてある塩の袋と、乾かした香草を確かめる。
まだ何回か、ここで夕飯を作れる量があった。
部屋へ戻り、姉への返事を書いた。
『サハルへ行くことにしたよ。
商会で、正式にお願いしてきた。出発の日と、泊まるところは、別の紙に書いて入れるね。』
筆を止め、靴下の入った包みを見た。
『靴下も、ちゃんと用意したよ。
帰ったら、向こうで覚えた料理を作りたい。お姉ちゃんにも食べてほしい。』
ナディムへ送る手紙にも、行くことが決まったと書いた。
本人より先に届くかはわからない。
それでも、店で誰かが受け取ってくれれば、自分が向かっていることを伝えられる。
封筒を二つ並べた。
寝台の荷物は、今夜は足元の箱へ移してあった。
ミナは空いたところへ座り、旅の帳面を開いた。
市場で食べたいものを書く欄には、まだ知らない名前を入れるための余白があった。
*
グレンは、暗くなった水晶の横から、手帳を取った。
サハル。
炊事補助として商隊に同行。
ラグは同行しない。
書いてから、最後の行で筆が止まった。
準備をしていたことは、ミナの話からわかった。
誰に何を頼むかも、考えている。
それは、喜ぶべきことだった。
「……ずいぶん、遠くまで行くようになったな」
声にすると、心配の方が少し強く聞こえた。
グレンは手帳を閉じ、机に積んだ仕事の書類へ戻った。
次の王認会議に向けて、報告をまとめているところだった。
以前に届いていた議題の控えを開く。
国内の報告に続き、対外協力に関する項目があった。
エルディア諸族国との合同調査。
交易路に関わる魔物と魔力の変動について、現地の担当者と調べるため、冠位から一名の派遣を求めるものだった。
現地での集合場所を確かめる。
サハル。
グレンは、閉じたばかりの手帳へ目を向けた。
それから、調査の概要を最初の行から読み直した。
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