第68話 商隊の台所
商会の裏庭には、まだ朝の日が半分しか入っていなかった。
積み込みを待つ荷車が二台並び、その向こうで、鍋から湯気が上がっている。
ミナが入口で名前を告げると、桶を持った男が顎で奥を示した。
「炊事なら、あっちだよ」
「ありがとうございます」
荷車の間へ入ろうとして、足を止めた。
向こう側から、長い板を担いだ二人が来る。
通り過ぎるのを待ち、壁際を歩いた。
「おはよう。早かったね」
イネスが、竈の横から手を上げた。
その前には、木の台と、座面の低い腰掛けがあった。
「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ。荷物はそこの棚へ。まず、手を洗ってきて」
ミナは袋を置き、前掛けを結んだ。
水場から戻ると、イネスは台へ籠を載せていた。
玉ねぎと、人参。
葉の固く巻いたキャベツが二つ。
袋には、挽き割りの麦が入っている。
「今日は麦の煮込み。干し肉も使う。パンを添えて、十二人分」
旅の人数より少なかった。
今日の積み込みにいる人の分だという。
「食べ始めるのは、昼の鐘の少し前。全員が一度には来られないから、最後の組まで温かくしておく。あんたも一緒に食べてね」
「はい」
「じゃあ、人参から頼もうか」
ミナは包丁を出した。
刃を入れる前に、イネスへ尋ねる。
「大きさは、どれくらいにしますか」
*
最初の一本を切ると、イネスが一切れつまんだ。
「これでいい。厚いところだけ、もう半分にして」
「わかりました」
ミナは切ったものを台の端へ寄せ、次の一本に手を伸ばした。
隣では、イネスが干し肉を細く切っている。
乾いた肉がまな板に触れる音と、人参を切る音が、少しずれて続いた。
「その包丁、よく使ってるね」
「食堂にいたころから、ずっとです」
「手に合ってるんだ」
ミナは頷いた。
慣れた柄を握ると、朝から胸にあった落ち着かなさが、少し薄れた。
人参を終え、玉ねぎへ移る。
皮を入れる籠と、使う部分を入れる鉢を手元へ置いた。
イネスが鍋へ肉を入れたので、空いた台を拭く。
「次は、キャベツを切りますか」
「うん。外の葉を見て、使えるところを分けておいて」
ミナは一枚ずつ外した。
葉先の乾いたところを落とし、固い芯を手に取る。
食堂では、薄く切って炒めることがあった。
けれど、今日は自分が献立を決める仕事ではない。
「芯も、薄くすれば入れられますか」
イネスが、鍋の向こうから見た。
「固い根元だけ落として。葉より先に煮たいから、分けてもらえる?」
「はい」
薄くした芯を人参の横へ置く。
葉は匙に載る大きさに切り、別の鉢へ移した。
イネスは、鉢を見て頷いた。
「助かる。これなら、あとで探さなくて済むね」
ミナは空になった籠を重ね、足元から退けた。
褒めてもらったことより先に、次に渡すものが見えた。
*
鍋の中で玉ねぎが透き通り、干し肉の匂いが濃くなった。
麦を入れる前に、イネスが水の桶を示した。
「そっちの水、どれくらい残ってる?」
「半分くらいです。汲んできますか」
「お願い。戻ったら、飲む方の容器にも足しておいて」
ミナは桶を持ち上げた。
水場までは、荷車の横を通る。
朝には空いていた場所へ、今は木箱が積まれていた。
桶いっぱいに水を入れてから、その道を思い浮かべる。
途中で誰かとすれ違ったら、持ったまま待つことになる。
少し減らし、両手で持った。
竈へ戻ったところで、荷を運んでいた男が足を止めた。
「もう一つ要るなら、俺が持ってくるよ。空の桶は?」
「あちらです。飲む分に使うので、水場の右の樽からお願いします」
「はいよ」
男が歩いていくと、イネスが鍋を混ぜながら言った。
「今の人、荷を運ぶときは、なかなか止まらないんだよ」
ミナは振り返った。
「忙しいところを、お願いしてしまいましたか」
「ううん。戻るところだったから、声をかけたんだろうね。ああいうときに頼むと、ちょうどいい」
男は桶を置くと、こちらへ手を振り、すぐに倉庫へ戻っていった。
ミナは礼を言い、飲み水の容器へ蓋をした。
ラグと二人なら、どちらが何を持っているか、見ればわかることが多かった。
ここには、まだ名前を知らない人が何人もいる。
それぞれ、違う仕事の途中だった。
*
麦が煮える間に、器を並べた。
欠けのあるものを一つ脇へ外し、人数分を数え直す。
イネスは棚から、蓋のついた小さな鍋を出した。
「これは、あとの組の分」
「別にしておくんですか」
「麦が汁を吸うからね。大鍋で煮詰まった底のところばかり、最後の人に渡すのも困るでしょう」
ミナは、湯気の上がる鍋を見た。
六人分の昼食を届けたときは、取り分けてしまえば、量は変わらなかった。
今日は、火のそばで食べるのを待つ。
「あとから湯を足すと、味が薄くなりますね」
「そう。だから、足す前に見て、味も確かめる。最初から少し汁を多くしてもいいけど、今日はこの鍋でやろう」
ミナは頷き、小鍋を置く場所を空けた。
そのとき、トビアスが裏庭へ入ってきた。
「イネス、悪い。荷車が一台遅れてる。四人、昼があとになる」
「どれくらい?」
「鐘一つはかからないと思う。着いたら先に食べさせる」
イネスは薪の燃え方を見た。
「わかった。戻る時刻がわかったら、教えて」
トビアスが倉庫へ向かう。
ミナは並べた器を見てから、キャベツの鉢へ目を移した。
「葉を、四人分だけ残しておきますか」
イネスが顔を向けた。
「後の分を温めるときに入れれば、柔らかくなりすぎないと思って。芯は、もう煮ているので」
「そうしよう。そっちの鉢へ分けて」
ミナは乾いた鉢を取り、葉を移した。
隣で、イネスが少し笑った。
「遅れたからって、全部遅く作り直すわけにもいかないしね」
先に食べる人は、予定通り腹を空かせている。
ミナは残りの葉をイネスへ渡し、パンを置く布を広げた。
*
最初の組が来るころには、裏庭に日が当たっていた。
ミナは器を受け取り、イネスがよそったものを、パンと一緒に渡した。
煮込みには、膨らんだ麦と、人参と、細い肉が混じっている。
上に浮いたキャベツの葉は、まだ緑を残していた。
「今日は手伝いがいるんだね」
「ミナです。よろしくお願いします」
「さっきの桶の子か。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
男は器を持ち、腰掛けへ座った。
すぐにパンをちぎり、汁へ浸す。
「うん。これこれ」
隣の人が、鍋を覗いた。
「おかわり、ある?」
「あるけど、後の四人の分には手を出さないでよ」
「まだ聞いただけだろ」
イネスが笑った。
ミナも、次の器を手に取りながら笑った。
特別な料理ではなかった。
何度も食べているものらしい。
それでも、空腹の人が座り、湯気を顔に受けて、ほっとしている。
コルナの昼にも、こういう時間があった。
早く出してくれと言っていた人が、食べ終わると、なかなか席を立たない。
店主は邪魔だと言いながら、空いた器を下げていた。
「ミナ。こっちは私がやるから、先に食べて」
イネスの声で、顔を上げた。
「でも、まだ片づけが」
「四人が戻ったら、また手を借りたい。今のうちにね」
ミナは、前掛けから手を離した。
「はい。いただきます」
器を持ち、腰掛けの端へ座る。
干し肉の塩気が麦に馴染み、人参は匙の縁で切れた。
キャベツの芯を噛むと、甘かった。
何を次にするか考えながら食べると、つい、匙が止まる。
ミナは一度器へ目を戻し、温かいうちにもう一口すくった。
*
遅れた四人が戻ったとき、小鍋の麦は、やはり汁を吸っていた。
イネスと中を確かめ、温めておいた湯を少し足す。
残した葉を入れ、火が通るのを待った。
「塩、どう?」
小皿に取った汁を味見する。
最初に食べたときより、少しぼんやりしていた。
「もう少し、欲しいです」
「入れてみて」
ミナは塩をつまみ、鍋へ落とした。
混ぜてから、もう一度確かめる。
イネスも味を見て、頷いた。
「これならいい。お願い」
器を持った四人が、順に手を伸ばした。
一人が大きく息を吐き、腰掛けへ身体を預ける。
「間に合った」
「間に合わせてもらったんだよ」
隣の人に言われ、男はミナたちへ器を少し上げた。
「ありがとう。腹減ってた」
「熱いので、気をつけてください」
言ってから、ミナは小鍋を見た。
食べるのを待っていた分も、ちゃんと温かく渡せた。
*
洗い物を終えるころには、竈の火は落とされていた。
大鍋を運ぶときは人を呼び、二人で洗い場へ移してもらった。
ミナは台を拭き、残った野菜をイネスの指示した棚へ戻す。
最後に布を洗って干すと、イネスが水を二つの杯へ注いだ。
「お疲れさま。座ろうか」
腰掛けへ座った途端、足の裏に疲れを感じた。
痛いわけではない。
水を飲み、靴の中で指を少し動かした。
「疲れた?」
「はい。でも、まだ片づけるものがあれば」
「今日は終わり。明日の分まで始めなくていいよ」
ミナは、少し恥ずかしくなって杯を持ち直した。
イネスが、干した布へ目を向けた。
「仕込みは任せられそうだね。切るのも、片づけるのも。わからないところを、先に聞いてくれるのも助かる」
「ありがとうございます」
「ただ、旅では、今みたいにずっと台の前へ立っていられるとは限らない。着いたら暗い日も、雨の日もある。料理を減らすことだってあるよ」
ミナは、薪の消えた竈を見た。
ここには屋根があり、すぐ近くに水場がある。
「そういうときに、何を残して、何をやめるかも覚えたいです」
「うん。一緒にやりながらね」
その言い方に、ミナは顔を上げた。
イネスが笑った。
「私からは、同行をお願いしたい。あとは、あんたの方の都合と、条件の話」
ミナは杯を膝へ置いた。
返事をする前に、一度息を吸った。
「……はい。私も、お願いしたいです」
*
トビアスは、前に見た旅費の紙へ、仕事代を書き加えた。
食事の支度と片づけ。
水と食材の確認。
イネスを手伝う範囲が、紙にも書かれていた。
「護衛の仕事は含まない。何かあれば、荷の担当と一緒に指示を待ってもらう」
「はい」
ミナは、道中の休みについても尋ねた。
毎食を一人で任されることはなく、町で外の食堂を使う日もあるという。
示された差額を、自分の帳面へ写した。
最初に見た旅費より、確かに少なくなっている。
それでも、向こうで泊まるお金と、帰る分は別だった。
「泊まるところを、もう少し確かめてから、お返事してもいいですか」
「もちろん。前に伝えた期限まででいい。この条件の控えを持っていって」
トビアスは紙を渡し、続けて今日の仕事代を置いた。
「今日は助かったよ」
ミナは硬貨を数え、頭を下げた。
*
商会を出ると、通りの店には午後の品物が並んでいた。
少し遠回りをすれば、いつもの市場を通れる。
ミナは立ち止まって足の具合を確かめ、今日は下宿へまっすぐ帰ることにした。
明日の買い物でも、間に合う。
袋の中には、前掛けと包丁と、新しい条件の紙が入っている。
まだ、旅の荷物ではなかった。
けれど、サハルへ向かう人から、一緒に働こうと言ってもらえた。
下宿へ着き、管理人に声をかけてから部屋へ上がる。
着替えを済ませ、机に帳面を開いた。
四人分の葉を残したこと。
麦が吸った汁の分を、温め直すときに足したこと。
食べられる間に、自分も食べること。
書き終えて、旅費のページへ戻る。
空いていた欄を一つ、今日聞いた数字で埋めた。
ミナは、その下に小さく書き足した。
イネスさんと、サハルまで。
それを見ていると、遠い地図の上に、今朝の大きな鍋が浮かんだ。
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